役に立つ理科と、ディズニーランド(???)

カンボジア 高校教員養成校で天体観測をする地球科学教員の卵たち (2009年)(本文とは関係ありませんね)

 「役に立つことを学ばなければならない」カンボジア教育省大臣はいった。「貧しいカンボジアには、役に立たないことを学んでいる暇はないんだから」
 そうだろう、というように大臣は顔を挙げ周りを見回した。ライフスキル教育と名付けられた新しいカリキュラムの発表会冒頭の挨拶でのことだった。

 ここでのライフスキルは「日常生活で生じるさまざまな問題や要求に対して、建設的かつ効果的に対処するために必要や能力」と定義され、ユニセフやユネスコなど教育支援を実施する国際機関も学校教育へのライフスキルの導入を提唱している。詳細はさておき、21世紀のカンボジアでは、このライフスキル教育の普及が始まっていた。
 20世紀後半の教育支援の潮流では、世界中で問題とされていた環境破壊を念頭においた「持続可能な開発」が大きなテーマとなった。1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開かれた「環境と開発に関する国際連合会議」、別名「地球サミット」あるいは「リオサミット」、という国際会議で大きく取り上げられた「持続可能な開発」。カンボジアの中等学校教育に「地球科学」という科目が導入されるきっかけも、この地球サミットだった。そして、この「持続可能な開発」を学校教育であつかうことを目指して開発されてきたのが、この「ライフスキル」と呼ばれるコンセプトだ。

 さて、では「日常生活で生じるさまざまな問題や要求に対して、建設的かつ効果的に対処するために必要や能力」とは具体的には何か。カンボジアの学校教育に取り入れられたライフスキル教育のひとつの事例として、教育省のライフスキル担当スタッフのひとりが紹介してくれたのは、自転車やバイクのパンク修理技術だった。小学校でパンク修理を教えるのだという。確かに定義には反していない。パンク修理技術があれば、カンボジアで日本以上に使用されている自動二輪車がパンクしたときに、自分で直すことができるかもしれない。ただ、もし自分で直せなくても、カンボジアなら小さな村でもパンク修理をしてくれる店が必ずある。自分で直さなくても、そこに行けばいいんじゃないだろうか。なんて、ぼくはちょっと意地悪なことを考えてしまった。

 ライフスキルで何を教えるかはさておき、カンボジアの地球科学教官たちと、地球科学の勉強を進める中で、この「役に立つ」ことをどう考えるかには悩まされた。地球化学は地球内部、大気圏を含む表面、さらには宇宙を含む大気圏外という、とても広い分野を扱う科目だ。高等教育で学ぶ専門分野でいえば、地質学、古地質化学、鉱物学、地震学、土壌学、気象学、海洋学、地球物理学、天文学、環境学……、。この中で私たちの役に立つ分野はなんだろう。(ちなみに、カンボジアの高等教育で、古地質化学、地震学、気象学、海洋学、地球物理学、天文学を勉強し研究できるコースは、ぼくの知る限り、現在でもない。)

 もちろん、すべてが役に立つ、とはいえる。でも大臣の言葉を上げるまでもなく、限られた資源と時間のなかで、教育にも優先順位は必要だ。

 例えば、天文学に関する内容はすべて削ったらどうだろう。惑星の名前やその特質、さらには太陽系の歴史を学んだとして、それが今日の生活にどう役に立つというのか。あるいは、カンボジアはその地球物理学的な位置からいって、大きな地震や火山活動の影響を受けにくい。火山も多く、地震も多い日本からすれば、羨ましいほど〝安全〟な場所だ。罹災する可能性のない地震や火山について、カンボジアの子どもたちが学校教育で学ぶ必要があるだろうか。もし必要ないならば、大陸移動説やプレートテクトニクスも学ぶ必要はないのかもしれない。

 でもこんなふうに考えていけば、ことは地球科学やカンボジアだけでは済まされない。物理だって化学だって、数学だって、日常生活に必要な範囲、役に立つ内容はかなり限られている。歴史はどうだろう。アンコール王朝の歴代王の名前を覚えることが、役に立つのだろうか。世界中で発せられる「先生、どうして因数分解を勉強する必要があるの」という生徒の疑問に、ぼくたちはどう答えればいいのか。

 おそらく、ライフスキル教育を考え、現場で普及しようとしている人たちの中には、「役に立つ」とはなにかという素朴な質問を徹底的に考え続けている人たちがいるはずだ。でも、ぼくはカンボジアを始めとする途上国の人たちから、そんな葛藤をまだ聞いたことがない。ライフスキル的な発想は、支援する側、あるいはユニセフといった国連教育機関側から降りてきたもので、支援される側はそれに従っている、という風情なんだ。

 さて、カンボジアで教える〝べき〟地球科学の内容とはなにか? 

 話はぜんぜん違うところに飛ぶ。

 ぼくは、ディズニーランドが好きじゃない。

 冒険家の角幡唯介も、その著書のなかで「ディズニーランドには行かない」と書いている。多分、『探検家とペネロペちゃん』という昨年幻冬舎から出版された本の中でだと思う(間違っていたらゴメンナサイ)。確か、彼が溺愛する娘さん(ペネロペちゃん)を意識して、でも彼女をディズニーランドに連れいてくことはしたくない、断固、したくない、という主旨だったと思う。ただ、角幡はその明確な理由については記述していなかった。

 ディズニー嫌いを告白する以上、ちゃんと白状しておかなかればいけないこともある。ぼくの確認されている唯一の子どもは、幼いとき、彼の母親とよくディズニーランドに出かけていた。おそらく、年間パスポートを持っていた時期もあったはずだ。ぼく自身も、大学時代のデートも含めて、数回ディズニーランド(あるいは、ディズニーシー)に出かけたことがある。さらには、なんと、香港のディズニーランドにも2回行っている。行けば、それなりに楽しんだ。
 その上で、でもやっぱりディズニーランドは好きじゃない。むしろ、嫌いだ。

 なぜなら、やっぱりウソっぽいんだ。というか、あれはウソの世界だと思うのです。確か浦安のディズニーランドかシーのどこかに、恐竜を見せるアトラクションもあったと思う。そこにはコンクリートがいかにも本物風に色塗られた“地層”があって、やはり本物っぽい“化石”が顔を出していたりする。あの本当風のニセモノが、ぼくはやっぱり嫌なんだ。ディズニーランドに行っても、越境感は、ぼくにはまったく感じられない。

 博物館に行ったって、そこにある化石はレプリカだったりする。それとディズニーランドの本物っぽいニセモノと、どう違うのかと問われたら、きちんと答えられるかあんまり自信はない。
 それでもあえて回答を書いてみると、ディズニーランドは「ニセモノ」をニセモノと指差したとたんに成立しなくなってしまう世界なんだと思う。だから、ぼくたちはニセモノと知りつつ、それをニセモノとはいわない。ディズニーランドをニセモノと批判するのは野暮というものだ。みんなで一緒に騙されましょう。ニセモノの世界に浸りましょう、というのがディズニーの世界。絶対安全な冒険が用意され、落ちたゴミはすぐに回収される。それがディズニー、ひとときの夢の世界。あぁ、やっぱりダメなのです。それを認めることは、ぼくなかでは、なにか大きな敗北につながるような気がしちゃうのです。

 博物館では、「これはレプリカです」と書いても世界は消失しない。レプリカでも、それはリアルな世界の中に位置している。レプリカだけれど、それはウソじゃない。作り物だけれど、本物だ。
 だからディズニーランドをぼくは許容できず、博物館はOKということになる。ぼくの思いが、伝わるだろうか。

 「役に立つ理科」と、「ニセモノの世界、ディズニーランド」とがどうつながるのか。謎を残しつつ、今回は終わろうと思います。  ではでは、また明日。(この投稿は、特に続きは予定していません。)

2件のコメント

大変興味深く読ませて頂きました。前段の終わりに村山さんのお考えの一端でも書いて頂けたら、と願っております。このテーマは是非とも継続案件として宜しくお願い致します!

土居清美様
コメントありがとうございます。
前段の終わりに私の考えを入れるとしたら、それはそれで書き出すと長くなるわけですけれど、「役にたたないことも、それが人類の発見してきた重要な項目であれば、当然、学校教育のカリキュラムの中に入れる」です。で、そうですね、この理科教育をめぐるネタは、きっとまた書くと思います。どうぞ気長におつきあいくださいませ。

コメント、いただけたらとても嬉しいです