1964東京生まれが、やってくる2021TOKYOから距離を置くことにしたこと

ひっそりと?TOKYO2021の開会を待つ国立競技場。競技場横のホープ軒でラーメンを食べる選手はいるのだろうか? (Googleマップより)

1964と2020/2021との距離

 オリンピックというスポーツ大会の記憶は、ぼくにとっては1968年のメキシコ大会ではないんじゃないだろうか?まだ4才。テレビで「あ、きみはらです」とアナウンサーが驚いたように叫ぶのを聞いたような気がする。それからまた4年後、ミュンヘンオリンピックでも、また君原の名が呼ばれたのも覚えているような気がする。
 東京でオリンピックが開かれた1964(昭和39)年に、その東京で生まれたということは、割と早いころから意識していたように思う。市川崑監督の『東京オリンピック』で流れる青空の下の開会式、選手入場のシーンを初めて見たのはいつだったのだろう。あの高揚感、あかるい気分、わくわくとした、あるいはざわざわともした感じ。1964年は日中太平洋戦争が終わってからまだたったの19年しか経っていないぴかぴかの〈戦後〉なんですよね。
 19年は、短い時間だと思う。ぼくがカンボジアで本格的に仕事を始めたのは2002年、ポルポト時代が終わってからすでに23年が経っている。1994年に大虐殺が起こったルワンダの首都キガリにぼくが初めて立ったのは2012年で、〈戦後〉18年のこと。カンボジアでもルワンダでも、社会の中には〈戦後〉の影がまだ色濃く残っていた。きっと1964年の東京もそうだったんじゃないかな。
 だから、あの青空も、バカに明るい大衆も、けして嘘じゃないけれど、当時の日本社会の一面に過ぎなかったはずだ。ぼく自身の記憶では、昭和40年代始めの新宿駅にはまだ白装束の傷痍軍人が道に座って寄進を求めていたし、水俣病(戦前からの大企業チッソの城下町水俣で起こった、有機水銀の垂れ流しで起こった大規模な水銀中毒)はまだ紛争中だし、沖縄返還は東京オリンピックの8年後のことだ。

 あの東京1964から時代は跳んで、TOKYO2021がやってくる。TOKYO2021の誘致活動を最初に進めたのは石原慎太郎都政だった。2016年の開催にも立候補して、そのときはダメだった。石原都政がどんな目論見でオリンピックを誘致したのか詳細は知らないけれど、誘致に成功した2013年、49歳になっていたぼくにとって、オリンピックは、もうどうでもいいイベントでしかなかった。もちろん、ゲームひとつひとつには興味を引かれるものもないわけではなかったけれど、「どうしても見たい、やりたい、かかわりたい」ものにはなり得ない。
 理由?かんたんに書けば、ぼく自身が卒業したのだと思う。東京が2020年のオリンピック開催地になったと聞いたときも、当時の安倍首相が「フクシマは完全にアンダーコントロール(管理)されている」という言葉に心がざらっとした感じだけ覚えている。どこでそのニュースを聞いたのかな。ルワンダだったろうか、カンボジアだったろうか。とにかく、どこか他人事だった。それが自分の故郷東京を舞台に行われると聞いても、冷ややかな気持ちには変わりなかった。

 ところが、2020年、予想に反してぼくは東京にいた。2013年当時には想像もしていない大きなことがふたつ起こっていた。ひとつは2014年にぼくがルワンダで事故に遭い下半身不随の立派な障害者になっていたこと。あとのひとつは2020年春からの世界的な新型コロナ禍だ。
 そんなわけで、開催予定年に東京に滞在することになってしまったぼくは、自分の思っていた以上にTOKYO2020(その後2021)とその延期と開催に関するニュースを見聞きすることになった。また、一応有権者としての一票があって2020年7月の東京都知事選挙にも巡り合わせることになった。現都知事が圧勝した選挙で、ぼくが投票したのはオリンピック中止をうったえる候補者だった。その候補者に投票したのはオリンピック中止だけが理由ではなかったけれど、それも一因だった。自分が卒業した(価値を認められなくなった)オリンピックは、故郷の東京にももはや必要がないもののように思えたからだ。誘致段階で投票権があれば、誘致を進めないことも選択の判断になったはずだ。

オリンピック卒業のわけ

 どうして、オリンピックを「卒業」すると書いたのか。
 たとえば、多くの途上国で、オリンピックは未だに高値の花だ。自国に誘致することは経済的に無理だし、オリンピックで好成績を残せる選手を送り出すことも難しい。中長距離では圧倒的な実力を示すケニア、エチオピア、タンザニアなどの東アフリカ諸国の選手も、今やそのほとんどが先進国でトレーニングを積んでいるエリート集団からのさらに勝者だ。だから、そんな途上国社会にとってオリンピックはブランド品でもある。だから「メダルをとる」選手がたまたまいれば、大盛りあがりになるけれど、オリンピックそのものに盛り上がる途上国はないはずだ。ブランド品になんて、もともと興味はなかったのだから。たまたまそれが手に入りそうなときだけ、熱狂する。

 だから、世界の祭典というオリンピックの枕詞の「世界」という言葉の意味する範囲は、少々表象偽装の疑いはある。祭典を楽しむのはけして世界ではなく、欧米日中…という世界の一部の国々であって、残りはときどき含まれる。

 たとえば、ぼくが今いるカンボジアの西隣にあるタイ。男性で金メダルを獲得したのは、1996年のアテネオリンピックでのボクシング〈フェザー級)で、女子は2004年の重量挙げ(53キロ以下級、75キロ以下級)が初めてだ。2004年のときは、お隣のカンボジアにいたぼくにも金メダルに湧くタイの盛り上がりが伝わってきた。なるほどなぁ。嬉しそうなのは、まぁ、いいじゃない、と、ぼくは大人の微笑みを浮かべたのだった。でも、一方で、国家意識の醸造を今も強く意識する途上国政府(この場合はタイ)に対して、ちょっと苦味も感じた。オリンピックは「政治的活動」を禁止しているけれど、それぞれの国家による自国民の創設という「政治的活動」のオリンピックの利用は、まったく問題がないわけだ。

 こういうふうに、オリンピックはもはや、表と裏がいろいろとあり過ぎるように感じちゃう。国家による政治利用はOKで、でも選手個人の意思表明はダメ。アマチュア意識を歌っていたのが、もはやトップレベルの選手はプロ集団。スポーツの純粋性を謳いつつ、どうしてもつきまとう多くの利権。

 オリンピックの「ポジティブな意味」に焦点をあてて、TOKYO2021を応援している友人が何人かいる。いい人たちだと思う。利権、つまりそれで自分が得をしているという人たちじゃない。だから、友人たちの脚を後ろから引っ張ろうとは思わない。
 コロナ禍の中で、オリンピックを実施することのリスク計算も、実際のところは他人事だ。東京周辺には、自分も含めて友人知人の家族は多いわけだから、医療崩壊は起こってほしくないのだけれど、「アンダーコントロール」だから開かれるんだろ、というちょっと皮肉を込めた味方もできてしまう。ぼくは今東京にいないしね。

 実際に、オリンピックが始まっても、カンボジアが熱狂に巻き込まれる可能性は、今のところゼロ、つまり有力選手はまだひとりもいない。カンボジアの人にとって、オリンピックなどほとんどまったく蚊帳の外の話だ。今もそうだし、実際に開催されてもほとんど同じだろう。数年前にアジア大会で金メダルを取ったテコンドー重量級の女子選手がいて、先のオリンピックでは注目されていたのだけれど、すぐに敗退してしまった。カンボジア政府はがっかりしたはずだ。
 選手派遣が実現すれば、おそらく彼女も出場するはずだ。もしかして、彼女が勝ち進めば、一晩でカンボジア社会は熱狂すると想像する。そういう機会があるか、ないか。なくてもいいと思っているぼくは、やっぱりどこまでも距離をおいてオリンピックを眺めるだけだ。

こどもっぽさの問題???? チャレンジで書いておきます。

 1964年東京生まれのぼくにとって、東京オリンピック以降だけでも、近代オリンピックの流れで、忘れちゃいけないこともあったとやっぱりあったと思うのですよ。

 ひとつは1968年のメキシコ大会、陸上男子200メートル表彰式で、金メダルのトミースミス選手と銅メダルのジョンカーロス選手、ふたりとも米国代表、がブラックパワーを象徴する黒手袋をした手を突き上げたこと。このことそのものはオリンピックの問題ではないけれど、米国内でのオリンピック後の2人の辛い歩みを知ると、ふん、たかがオリンピックがどうした!とも思ったりするのです。
 1972年ミュンヘンオリンピックで、イスラエル国代表選手がパレスチナ武装勢力に襲われ犠牲者がでたこと(念のために書くけれど、イスラエルへのテロが問題なのではなく、やはりイスラエルのパレスチナへのテロがまず問題なのだと思います。そして、その問題は今も未解決のまま、犠牲者を生み続けている)。
 オリンピックで高いパフォーマンスを上げ続けた今はなき東ドイツによる、あるいは1988年ソウルオリンピックの陸上100メートル男子ベンジョンソンとカールルイスに象徴されるドーピング問題(これも念のために書いておくと、ベンジョンソンが世界記録で優勝するも、ドーピング検査で失格。銀メダルから格上げされて金メダルをとったカールルイスも、大会前にはドーピング検査で灰色判定があった超一流選手。東ドイツでは組織的にドーピングが実施されたことで、その後、身体に変調を起こした選手が数多くいたことが報告されている)。
 1980年モスクワオリンピック、1984年ロサンゼルスオリンピック、での出場辞退合戦。ま、これは滑稽だっただけか。ちなみに、ぼくは個人として2022年に予定されている北京冬季オリンピックは、出場を辞退するつもりです。あくまで、出場する可能性があったとしたら、という妄想でのはなしですけれど。

 こんなことのあったオリンピックに対して、子どものころと同じようなワクワクした気持ちで接することは、ぼくにはもうできないのです。だから卒業したと、書きました。 

 そういえば、2008年の北京オリンピックの数少ないシーンをプノンペンの週末のテレビ放送で見たことを覚えている。強く印象に残っているのは、陸上男子100メートルのウサインボルト選手の世界新記録達成時の「欽ちゃん走り」と、やはり陸上男子マラソンのサムュエルワンジルらトップ集団の激走。どっちも確かにすごかった。ボルトもワンジルたちの走りも、ヒトという生物の身体の可能性の深さを感じさせる惚れ惚れするようなものがあった。けれど、ぼくには彼らの走りに魅了されても、北京オリンピックそのものに魅了されることはまったくなかった。むしろ、全体主義国で開催されるオリンピックは、どちらかといえば、国家によるオリンピックの政治利用というオリンピックの負の側面が強調されているようで、ますます心が冷えた。ボルトもワンジルたちも、オリンピックは絶対的に必要な場所ではないはずだった。彼らには、その身体的可能性を披露する場は、オリンピック以外にもある。

 これを読んだ誰かが、ある日ぼくに「でもね」と語ってくれることがあるかもしれない。「子どもたちの選手を見る目が輝いていた」とか、攻めてくるかな。それはそれで、楽しみにしています。ぜひ、攻めて来て欲しい。たのみましたよ。

 

 
 

3件のコメント

「カンボジアのクライマーを東京オリンピックに」と2,3年間会報に書き続けてきた自分としては、ちょっと複雑な気持ちですね。実際途上国枠をねらってカンボジア人の日本合宿をした種目もあるようですし、まじに途上国枠ではない標準記録突破を目指したコーチと選手の話も聞きました。今のオリンピックが金儲けに走っているのは確かですが、選手の目標としては、存在して良いと思います。クライミングで言えば、ユニフォームに入れるスポンサー名は、通常の国際大会ではかなり派手に入れられますが、オリンピックでは厳しく取り締まられます。商業のためではない建前は生きているはずです。でも、1964年には10月の秋晴れの下でできたのに、コロナ以前の問題で、熱中症で死者が出るかもしれない季節に強行するのはスポンサー企業のためだと聞きました。1964年に私は中学1年で、学校にも抽選券が来て、私は確か陸上に申し込んでハズレましたが、全校でたった1枚割当の閉会式を当てた生徒もいました。白黒テレビでニチボー貝塚のバレーボールを本気で応援しました。カンボジアには、まだオリンピックレベルの選手はいないかもしれませんが、全然出場してないサッカーのワールドカップの試合に午前2時でもテレビ前で熱狂するわけだから、種目によっては盛り上がるのではないでしょうか。同じ土俵で戦えるのはずっと先かもしれませんが、目指すのは良い事、それがテレビなどで観られる事も、1964年よりは進歩していると思いたいです。日本国内の問題はとりあえず棚上げした話ですが。

「カンボジアのクライマーを東京オリンピックに」実際のところ、このプランはどうなったのですか?
開催されれば、派遣される予定があるのでしょうか?

途上国にとって、オリンピックでメダルを取る、いい成績をあげる、世界と交流する、というのは、21世紀の今でも意味があることなのかもしれません。一方、私には、もはや本音と建前とのキシミ音が強すぎて、スポーツの祭典と手放しで応援することが難しいイベントになってしまいました。汚れちまったのは、オリンピックもそうですし、おそらく半世紀を生きてきた私も、なのだと思います。

で、どうするか?
そうですねぇ、縁があるかないか、というのは大事な点ですよね。伊藤明子さんは、たまたま縁があった。だから、それは大切にされるといいし、それで伊藤さんは汚れはしないと思います。
私は、縁がない。だから、静観というか、いろんなことの後景にオリンピックは下がってしまっています。今後も、前景に出てくることは、あまり考えられないかなぁ。そして、以前は微笑ましく思えていた途上国のメダル獲得の喜びも、今はどうしても屈折して見えてしまうのです。純粋に、勝負の勝ち負けを喜ぶだけではなくて、どうしても不必要に国家主義が表に出てきてしまう。
以前、大学の祭典、では国旗の掲揚はない、と聞いたこともあります。オリンピックもそうなればいいのになぁ。

日本では、学校の生徒達を動員する計画があるそうですね。やれやれ……。なんか、つらい話です。

早速お返事ありがとうございます。カンボジアのスポーツクライミングについては、そのように言ってはみたものの、調べてみると、2017年にやっと国際クライミング連盟に加盟申請し、翌年国際試合に出られる選手が登録できた時には、「IOCのオリンピックソリダリティー」予算での途上国選手の合宿などは、他の競技の選手がもうとっくに日本で練習していたという状態ですから、申請すらできないうちに時期を逃してしまいました。もちろん、選手を育てる以前に、競技役員、審判、規定に合う競技会場を作る人などがそろっていかなければ、その途上国で競技をすることはできないのですから、オリンピック開催に関係なく息の長い努力が必要です。その点で、カンボジア人のカヌー国際審判員を育て試験に合格させたシニアの先輩がおいでですが、目先の勝負ではなく先を見通したすばらしい活動だったと思います。クライミングでは、まだ国際審判員や、公式ルートセッターになったカンボジア人はいません。まずは日本で選手を育てようという動きでは、帰国協力隊員で、前橋市で練習している南スーダンの陸上選手を支援している人もいます。途上国の選手と同じ土俵で相撲を取るのは本当に難しいことですが、縁あってそこで働いている人には、「オリンピック」は大事な宣伝機会です。それがあるから日本の留学先が見つかったり、合宿費用が集まったりすることがあるので、私は「開催反対」とは言えず、この先どうすればいいかなあと考え中です。

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