Tokyo2021、ゴタゴタですね
距離を置くと宣言した、Tokyo2021のオリンピックとパラリンピック。今日から開幕だそうで、開幕前にすでにいくつかのゲームも行われている。ゲームの結果がニュースで流れれば、興味に応じて結果は楽しんでいます。サッカーで強豪チームが格下?チームに苦戦する、敗れる、なんてニュースはやっぱり面白いですよね。ただ、オリパラ、今年、東京で開くのは無理があったんじゃないという思いに変わりはありません。でも、報道を読んでいると、抑圧された人たちにとってひとつのお祭りとしてのオリパラ、やっぱり楽しんじゃうんだろうなぁという予感はあります。現政権の狙い通り?ま、それは次の衆院議員選挙で結果が出るのかな?
さて、競技以上に話題を振りまいているのが、組織委員会の云々カンヌン。イジメ問題の次は、ホロコーストで笑いをとったという話が出てきました。それぞれ該当者が、辞めた、辞めさせられた、解任された、というのは、ふーん、という程度の感想です。きっとそれぞれ才能のある方々なのでしょうから、過去には真摯に向き合ってもらえたらいいんであって、ぜひ捲土重来を期していただければと思うのみです。おそらく、そもそもこのTokyo2021で「オリンピック憲章に反している」とか「オリンピックの精神に反している」で弾かれたとして、まぁ笑い話、ブラックジョークのようなものなんだから。
そもそものアンダーコントロールという大嘘はどうだったんだろう。あれはオリンピック精神に則っていた?まさかねぇ。オリンピック誘致のために何億円と使われたコンサルタント料は、国際オリンピック委員会関係者への収賄に使われたのは公然の事実。まぁ、それはTokyo2021に限った話ではないのだろうけれど。そういうことを考えれば、開会式をめぐるゴタゴタはまさに小悪を切っているだけで、本当の巨悪は特にお咎めもなくニヤニヤと笑っているんだから。嫌ですねぇ、こういう構図は。そのことを真剣に考えていると、ホントに楽しくないです。
今回の本題は、こういうつまらない話ではありません。気分の悪い前置きはここまでにしましょう。
あのポルポト時代がコメディ舞台のネタに!!
ナチスによるユダヤの人たちの大虐殺、ホロコースト、をコントのネタに使ったことが問題視されたという話題を聞いて思い出したことを、ぜひ書いてみたいと思ったのでした。
このブログでも何回か触れている、カンボジアの1975年から1979年までのポルポト時代の悪夢。200万人前後と言われる、当時のカンボジアの人口の4分の1とも3分の1とも言われる死亡者を出した時代です。多くの都市住民が地方に強制移住させられ、そこでの強制労働や食糧不足と医療破壊、さらには意図的な処刑によって、犠牲者は前述したような大きな数になりました。
私の友人知人にも、きちんと聞けばもう彼らの親類縁者は死屍累々です。彼らからすれば、ポルポト時代は思い出したくもない悪夢です。
ところが!
今から10年ぐらい前のことだと思います。週末にたまたまつけていたテレビでのこと。カンボジアでは休日の午後によく流れている、公開コメディ舞台のようなプログラムが映っていました。
そこに、写真を通じて何度も何度も見たあの黒いちょっとダブダブ目の上下のユニフォーム(下の写真を参照)に、細かい赤白格子のマフラー(クロマー)という出で立ちの人たちがぞろぞろと舞台に出てきたのです。印象的なストーリーは以下のようなものでした。
村のリーダーはちょっと気の弱そうな男性。そしてそのパートナーは、とても気の強そうな女性。おそらく強制労働で疲れ切った様子の村人たちの前で、リーダーが何やら演説を始めようとしています。ぼそぼそと話し出すリーダー。横に経っていた奥様が「そんな演説じゃダメよ、もっと偉そうに喋りなさい!」と叱咤します。妻のアドバイスに従ってなんとか偉そうに話そうとする夫。でも、やがて夫に代わって女性が大声で叱責するようにスピーチを始めてしまいます。流暢に、しかもいかにもお偉いさんっぽく話す奥様の横で、大きな体を窮屈そうにかがめてたたずむリーダーの様子が、観客の笑いを誘います。
やがて、話は強制結婚にうつります。リーダーの一声で、村の男女が無理やり夫婦とされます。夫婦とされたカップルは、どう対応していいかわからずおずおずと人々の前に並びます。
「カップルとなったふたりは、今夜からしばらくふたりで一緒に寝るように!」というリーダーの命令が出ます。と、それまでしょぼくれたままでいたカップルが、ふと顔を見合わせて、なんとも表現し難いニヤリという笑みを見せるのです。夫婦がふたりで夜を過ごす、ということから連想される行為を思うかのような下卑た笑いとも思えるし、疲れ切ったふたりが見せる諦観の笑いとも思えるし。そして、そんなふたりの「ニヤリ」にまた観衆がドッと湧くのです。

同じような黒いユニフォームを農村の人たちも着用していました。
c2afa368-def8-4d3a-bda6-0d7952052492-1020×612.jpeg (300×180) (guim.co.uk)
そんなコントを見ながら、私はひどく狼狽えていました。なんということをやっておるのか!という戸惑いと、そのコントを見ながら爆笑している観客がいるという事実に対する衝撃と。二の腕の毛穴という毛穴が開いて、背筋がゾッとするような感覚。「なんかスゴイ物を見てしまった!」という感じ。
そう、あのポルポト時代の悪夢が、2010年ごろのカンボジアのコメディ舞台の笑いのネタになって、しかもテレビで流れていたのです。あのようなコントが、今も演じられているかどうかは寡聞にして知りません。演じられていても、不思議はないようにも思います。
コメディを演じていたのは、カンボジアなら誰でも知っているような有名なコメディアンたちでした。あの舞台を見て、多くのカンボジアの人たちがどう思っていたのかはわかりません。ただ、おそらくテレビ局に設置された舞台を囲んだ老若男女たちは、楽しそうに笑ってたのでした。もしかしたら、全員ではなかったかもしれません。笑えずに固まっていた人が観客の中に何人もいたのかもしれません。でも、そういう気分に対する配慮など、ありませんでした。当然です。あの場で、ポルポト時代に対するそんな陰湿な気分を少しでも醸し出すような遠慮があったら、あのコメディは成立しないのです。そんなウェットな気分など、一気に吹き飛ばすようなパワーがなければ成立しないのがあの手の冗談のきつい笑いなのです。
ポルポト時代の虐殺は、他者が介在していません。いや、実際のところはそうは言い切れない。特に当時ポルポト政権を支えていた中国北京政府の影響は大きかった。けれども、とにかくカンボジアの人がカンボジアの人を虐殺したのです。そこがホロコーストとは大きく違います。
ユダヤの人たちはナチスを徹底的に糾弾できました。ホロコーストだけではありません。南京に象徴される中国大陸での日本軍による民間人の大量虐殺の被害者である中国民衆にとって、当時日本が悪魔であって、だから日本鬼子(リーベングイズ)という日本人への別称が生まれました。1992年のルワンダでの数ヶ月で100万人とも言われる高密度の虐殺だって、他所から見ればルワンダの人たち同士の殺し合いでしたけれど、内部でははっきりとした集団名が殺す側と殺される側を識別していました。
けれど、カンボジアでは未だに殺した側と殺された側の境界線が不明瞭です。だから、あのコントは可能だったのかもしれません。つまり、カンボジア以外の場所で、例えば日本で日本人コメディアンがあのコントを演じれば、それは非難轟々でしょう。まずまちがいなく、カンボジアの人も怒るでしょう。けれども、カンボジアでカンボジアのコメディアンが演じるのであれば、それは他所からとやかく言われる筋合いはないのです。カンボジアの人に受けるか受けないか。笑いが取れるか取れないか、勝負はそこだけ。すでに名の知れたコメディアンだからこそチャレンジできた、彼らからすれば乾坤一擲の勝負だったわけで、そして会場は笑いに包まれたのです。
それを「たくましさ」とは呼びたくない。「したたかな」とも形容したくない。でも、一本取られたという感じはあるのです。なんでも笑いにしてしまえるヒトという存在。認めるも認めないも、そうなんだからどうしようもない。とにかくそういうモノさ、ってことなんだろうなぁ。
笑いの深淵、笑いの怖さ
笑いってすごいなぁと思います。そして、ブラックな笑いって、ある。ブラックなものを笑いに転換するところに、演じる側のやり甲斐があり、それに成功した時の笑いは、あざとく深い。それは否定できません。もちろん、演じる者も、それを見て笑うものも、そして場所も、選ぶ。笑いにもTPO(時・場所・場合)があるのです。
TPOが完璧でないのなら、ブラックな笑いは人によっては何が可笑しいか分からないし、さらには不愉快ですらあり得る。だからと言って、それを全部否定していたら、清廉潔白な笑いだけが許されるとしたら、底の浅い笑いだけが世間を席巻したら、そんなことを想像すると、やっぱりつまらない心持ちに私はなります。
私が見た「スゴイもの」、私は笑えませんでした。固まってしまいました。けれど、やはり否定はできない。自分でお金を払って見たいとは思えないし、もしまた遭遇したらテレビを消してしまうかもしれないけれど、でも「スゴイもの」を見たのは、笑いの深淵を教えてくれたひとつの「人生経験」だったのです。
前置きで触れた解任劇、その人は以前ラーメンズというお笑いグループのひとりだったそうです。実は、そのラーメンズのCD、私、持っているんです。数年に一回ぐらい、聞き返したりしています。その内容は、日本語を習うアフリカ人や中国人の揶揄です。やはり、かなりTPOを選ぶ内容です。けして誉められた笑いではありません。でも、可笑しいんです。私、聞くたびに思わず笑ってしまいます。日本語を習っている妻も一緒に聞いて笑っていました。しょうがないよ、可笑しいんだから。でも、アフリカや中国の人がいる場で流せるかと言われると、やっぱりためらいます。
ところで、誉められた笑い??? でも、誰に誉められたいのでしょう? 誉められなくたっていいのです。伝統芸能の多くも、ほじくれば誉められないブラックなものが潜んでいる。時の権力を揶揄したり、市井の弱いものを笑い者にしたり。今だってありますよね。
それからいえば、やっぱりもともと偽善で固められたオリパラなんかにかかわったのが、元ラーメンズ氏の反省点なんじゃないでしょうか。広告会社に踊らされたって、反省して欲しいものです。
私にとっては、そんな際どいブラックで挑戦的な笑いよりも、私が幼いときから今の日本社会でもずーっと続いて人気がある「ドッキリ番組」の笑いのほうが、よっぽど気に入らない。特定の芸人が笑いの餌食になるような番組。あれは明らかにイジメに通じる気分があります。そして、大衆は明らかにイジメる側の立場で哄笑している。あれはとっても嫌な笑いだ。
笑われる芸人からすれば、とにかくなんでもまずはウケたいってことなんだと思います。まずウケることが最大の目的で、だからあんな嫌らしい笑いの対象でも受けて立つ。なかには、イジメの対象のような立場を乗り越える強さ、つまりイジメられるものの意地みたいなものを見せてくれる芸人もいるように思います。それはそれでアッパレだなぁと思う。けれど・・・。
今回、インターネットの無名性を利用して有名を叩いた人たちが、一方であんなドッキリの笑いを楽しんでいる大衆(無名性ってそういうことですよね)なんだと思うと、やっぱり後味悪いよなぁ。あぁ、やだやだやだ。
とにかく、比喩としての「人を狩る」って、やっぱりヤダね。やりたくないな。

















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