大阪外語大学の岡本ゼミの皆さま
今回は、私からの質問として、以下、書きます。
英語は世界の共通語? 納得してます?
皆さんは、日本の高校英語(高校外国語?)の教員資格を大学在学中に取られる方が少なからずおられるのだろうと推測します。
英語の重要性は年々上がっているようにも思えます。
英語は国際共通語としての確固たる地位をすでに築いているようです。そして、読み書き能力以上に、会話のコミュニケーション言語として英語を使いこなすことが、日本の教育界でもより一層重要視されているようにも見えます。
実際、私も、いくつかの国で、主に英語を使って仕事をしてきました。
ただ、それはつまり、フランス語(アフリカ西部諸国)やスペイン語(中南米諸国)ができないからより一層英語で仕事ができる国のお鉢がまわってきた、という面もあります。
実は、英語(米語)が国際語としての地位を確立しつつあるように思える背景には、日本と米国の関係がありそうです。日本社会は、人一倍英語好き??? フランス語、スペイン語、さらにはアラビア語、そして最近では中国語、それらも実は「国際語」としての地位を虎視眈々と狙っている、という面もあるようには私は感じることもあります。
一方で、最近のGoogle翻訳に象徴されるITによる言語の壁突破機能は日月の進歩です。ここ数年、翻訳機能の質向上は目を見張るものがあります。
ITの翻訳・通訳機能だけに頼って海外支援を行うことには、やはりまだ限界も感じますけれど、もしかするとあと10年もすると、外国語がほとんどできなくても、そのマイナスはIT 機能が補足してくれる、という状況が生まれてくるかもしれません。
さて、このような状況下で、学校教育の中で外国語(英語/米語)の教員として仕事をするかもしれない皆様に、以下の質問をしてみたいのです。
問
英語帝国主義、について、どのように理解しておられ、そして、それに対してどんなご意見を持っているのか?
私は、理想論としては、すべての国が学校教育の中で、それぞれの公用語と共にたとえばエスペラント語のような世界共通言語を学ぶことがよろしいと思っています。
そっちのほうが、ぜったいにフェアじゃないか、と。学生時代、英語が特に苦手科目だった私としては、怨嗟のような思いが英語にあったりもする。その恨みが、未だに尾を引いて、「生まれつきの英語・米語話者はずるい!」という思いがあるのです。
エスペラント語が、やはり欧米諸語を基本にして作られている、という批判はあります。そしてその批判はその通り。
それでも、ルドヴィコザメンホフたちがエスペラント語を開発した背景に持っていた平等主義・理想主義的な思想も含めて、英語を世界共通語として扱うよりは、エスペラント語を学ぶことのほうがずっと教育的な意味は高いと思うのです。
しかし、実際には、そのような理想的な動きは大きなムーブメントを作るに至らないまま、大英帝国植民地時代の英国を引き継ぐように超大国化した米国の勃興(つまり米国語の勃興)に加えて、特にコンピューター言語での優位が英語/米語を国際言語とする価値観の世界的拡大につながってしまったように感じます。
これ、アンフェアじゃない? 世界のある地域の母語・生活語が、そのまま世界で通用する(それ以外の母語・生活語の使用者は、英語を学習しなければ世界で通用しない)わけですから。地域語で何を言っても、なんも力を持たない。ところが、英語・米語で語れば、世界が耳を傾ける。たとえば、ノーベル文学賞なんて、地域語で書かれたものには一切相手にしない。英語・米語に翻訳されてこそ、はじめてノーベル文学賞の対象となる。まぁ、それは文学賞だけではなくて、理科関連もみんなそうですね。英語で論文書かなくては、意味がないかのよう。
(一方で、だから英語で論文を書け!とも、私は思っているのですけれど、ね。)
さらに、ある考え方によれば、英語・米語の拡大によって、それぞれの言語固有の社会文化や価値観にも当然影響を与える。結果、衰退する言語や文化が出てくる。それはしょうがない? それとも、やはり問題?
そういうポジネガ両方をもった英語・米語を自分の食い扶持に使うことのジレンマとか、皆様にはある? それとも、ない?
それが私の質問です。
この質問は、それぞれの地域社会でそれぞれ応用が可能です。
こんな事例があります。タイの少数“民族”(私は民族という言葉をあんまり信用していないので、あえて“”をつけました)の支援していているある国際NGOが、かれらの母語(民族語)を守るための語学教室を開こうと計画しました。国際NGOにかかわる人たちにとって、その少数“民族”の文化の基盤となる言語が衰退することはよろしくないと考えたのです。
しかし、支援される側である少数民族の大人たちは、子どもたちに「タイ語」をしっかり学んでほしいという意見が多かったのです。もはやタイ語ができなければ、良い仕事につくことができない、という現実がある。大人にとって、タイ語ができないことによる不利益は強い実感をともなってあるわけで、だから、子どもたちにはその不利益をこうむってほしくない。だから、母語である民族語ではなく、タイ語を教えて欲しいというのが、被支援者側の希望だったのです。
これは、その地域の支配言語となっているタイ語によるタイ語植民地主義のひとつの現れようだ、と言えるでしょう。
同様のことは、世界中あちこちで起こっています。
では、その行きつく先は、世界統一政府、統一文化なのか?
外国語大学と名乗る大学で学ぶ皆様に、そのあたりのご意見を、この機会にぜひうかがいたいなぁと思っているのです。ぜひ、26日の前にちらちと私の質問について、それぞれで、あるいはお仲間同士一緒に、考えてみて下さいませ。
皆さまのご意見をうかがうのを楽しみにしております。


















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