連載『世界は開いているから仕方がない』   全国脊髄損傷者連合会発行 脊損ニュース 2022年4月号・5月号・6月号

2015年春。2014年8月の事故後、初めて飲んだビールがこの一杯でした。入院していた国立リハビリテーション病院の最寄り駅西武線「航空公園駅」近くの満州ラーメン店。カンボジアの野球仲間が見舞いに来てくれた際に、病院を抜け出してありついた一杯です。あぁ、生きててよかったーぁ、でありました。よく見ると、カーディガンの裾から採尿管の口が見えます。当時は膀胱にカテーテルを入れっぱなしにしていたのです。その後、毎回の自己導尿に移行していきました。退院まであと3か月ほどのころです。

事故等で脊髄を損傷する人は、日本では年間5千人程度と聞いたことがあります。けして少ない数ではありません。そんな脊損者たちへの情報提供、福利厚生向上、バリアフリー推進、各省庁交渉及び民間企業等への要請活動などを行う組織に、全国脊髄損傷者連合会(公益社団法人)があります。

(公社)全国脊髄損傷者連合会のホームページへようこそ! (zensekiren.jp)

 ご縁があって、私はこの全脊連の埼玉県支部の会員です。そして、2021年3月からこの全脊連が毎月発行している【脊損ニュース】という会報誌に『世界は開いているから仕方がない』というタイトルで連載を書いています。今月で連載開始からちょうど2年(全24回)が経ちました。備忘録として、当ブログにその連載記事を順次掲載いたします(全脊連からは、快く了解をいただきました)。今回は連載第13回から第15回までです。

連載第13回 (2022年4月号)
声を上げること(2) はじまりは自分の意地悪な気持ちを抑え込むこと

 ある車イス者は、飛行機に乗るとき、車イス者であることを航空会社にあえて事前に通知しないそうです。なぜならば、これまで事前に通知して「乗れません」という拒否対応を何回かされたから。(法整備なども進み、車イスだから乗車拒否したりすれば、その航空会社は今では行政指導の対象になります)。
 事前に通知する、あるいは「乗れますか?」と尋ねることは、決定権を相手に渡してしまうことになってしまう。そして、そこで「ダメ」と云われたらお終い。

 丁寧に問い合わせすることで、可能性を事前に潰されることにつながることもある。そんな現状に対して、障害者でも事前通知なしに搭乗できるのが当たり前にしようと彼は考えるのです。そのためには、事前通知なしで、対応してもらう事例をどんどん積み重ねるしかないと思って、行動しているのです。

 その点でいえば、前回に紹介したJRの対応に抗議した車イス者に寄せられた「なぜ事前通知をしないのか」という批判には、「なぜ(障害者だけが)事前通知をしなければいけないのか」と問い返せます。

 事前通知をすることで、サポートがより円滑なるということは、たしかにあるでしょう。でも事前通知が必要というのが、事前通知がなくては利用できないにつながってはダメだと、やっぱり私は思うのです。  

 障害者が健常者にとって当たり前のことを自分たちにも求める。それに対して「貴方たちは障害者なんだから仕方ないでしょう」という声が世間から上がる。

 ノンバリアフリーの無人駅だろうと、健常者は問題なく利用できる。だから、障害者も同じように使えるようにしたい。 健常者は事前通知なしで利用できるなら、障害者もそうできるようにして欲しい。

 そんな障害者の主張を「ワガママ」と捉えるかどうか。みなさんはどう思われますか?

 よくある物言いに、「健常者だっていろいろ困っている人はいる」もあります。それはもちろんそうでしょう。特に経済的な貧困問題は、最近一層深刻です。

 経済的な格差は、障害者の中にもある。障害者だろうと健常者だろうと、貧困はつらい。貧困に苦しむ健常者からすれば、豊かな障害者がその権利を主張するというのが、苦々しく思えることがあるのかもしれない。

 けれど、そういった互いの「痛み」競争のような思考は、弱い者同士が痛めつけあうみたいで、悲しい。自分より下の存在があると人は安心するのかな。そして、自分より下が見つからないと、不安になるのかな。

 そこは、人の善意とか、他者愛とか、思いやり、真心、良心、そんなものに期待して乗り切りたい。けれど、そりゃ言うは易し行うは難しってのはありますよね。  

 それを行うは易しにするためには、とにかく社会が弱者に優しいこと、それがまず何よりの社会福祉じゃないかな。強者のための配慮よりも、弱者への配慮を優先する社会。そんな社会の実現のためにも、弱者である障害者が「弱者の声」を発信していくことは大切なんじゃないだろうか?

 そして、まず、あなたは尊重されていますか? 家族から、社会から大事にされていますか? なによりもあなた自身があなたを大切にしていますか? それは介護する側もそう。誰の心にも潜んでいるちょっとした意地悪な気持ち。それを抑える力を持つことが、すべての福祉の始まりじゃないのかな。

ケニア西部、クウィセロ中等学校の昼食。(1992年)
政府の給食プログラムがあったのです。そして、私が働いていた田舎の中等学校では、生徒たちは豆を煮たゲゼリという料理を毎日食べていました。毎日毎日、ゲゼリです。今日も明日も明後日も、ゲゼリ。ゲゼリゲゼリゲゼリ。あれから30年経ちました。クウィセロには今では電気が通り、村の中心にはスーパーマーケットも建ったようです。生徒たちの給食は、今でもゲゼリゲゼリゲゼリなのだろうか? おそらく違うんだろうと想像するのでした。今も毎日ゲゼリゲゼリゲゼリだったら、きっと政府は転覆しちゃうんじゃないだろうか? それとも、もしかして今も・・・・? あぁ、知りたい知りたい!

連載第14回 (2022年5月号)
声を上げること(3) 声をあげるとともに、声を聞きたい

 障害者が声を上げると、「障害者の立場・権利が強くなりすぎてごね得になっている」というかなり意地悪な声があがることもあります。

 立場や権利に「強すぎる」ってことは、本来はないはずです。これまでよりも強くなったとすれば、それはむしろ喜ぶべきことだと思うんですけれどね。
 誰の権利も立場も弱いより、強いほうがいいはずです。互いの権利がぶつかり合うってことは、実際どれくらいあるのでしょうか? 既得権を持っている立場の人が、他者の権利が強まることで、既得権が脅かされるってことはあるでしょう。でも、よく考えれば、その既得権がオカシイってことが多いんじゃないかしら。
 たとえば、女性の進出で、男社会の男性の既得権が脅かされたとしても、それは仕方ないですよね。そうでなければ、女性はいつまでも「男の下」でしかないってことになってしまう。

 障害者の権利問題も、それまで黙って家に閉じこもっていた人たちが、外に出て、声を上げ始めたからこそ、それに対する反発が起こっているという面はあるのかな。つまり、誰かが既得権を持っていたってこと?
 もちろん、融和は大切です。心も身体も、他者を傷つけるのはよくない。でも、変化が必要ならば、ある種の摩擦は避けられない。声を上げることを止めてしまえば、どうしたって弱者の弱さは、ずっと維持されちゃうんじゃない? それは歴史が証明していますよ。長いものに巻かれてるだけじゃ、ダメなんじゃないかな。

 けれども、声を上げる一方で、それぞれの障害者はどれだけ他者に耳を傾けているかしらとも思います。

 この場合の他者とは、たとえば私にとっては私より弱者の声。私は私の既得権を守ろうとしてないだろうか?

 私は健常者だったとき、男で、学歴も高く、恋愛の対象は異性に向くという多数派で、自分のやりたいことを仕事にするという幸運にも恵まれ、つまり、勝者であり強者でした。そのときに、どれだけ弱い人の声に耳を傾けていたか? 

 はっきりしているのは、障害者になってみたら、知らないことがたくさんあったということです。それは、やはり見ようとしてなかったし、耳を澄ませていなかったんだろうなぁ。だから知らないままで済ませていた。

 そのことに気づいたのなら、やはり以前よりも耳を澄まして、小さな声なき声を聞き取りたい。たとえば、私より重度の障害がある人たち。世間の偏見にさらされがちな、知的、あるいは精神の障害がある人たち。
 健常者だって、きっと私より弱い人はいる。貧困や国籍や性別や性的嗜好や……、そんな人たちの声を聞くことなしに、自分の主張だけを訴えていれば、そんな態度はきっとすぐに足元をすくわれてしまうに違いない。

 たとえば、あなたはあなたを介護してくれる家族や介護職の人たちの話をどれぐらい聞いていますか? 彼らに自分の声を聞き取ってもらいたかったら、やっぱり彼らの声も聞いたほうがいい、なんてことはあるんじゃないかな? その上で「私の話も聞いてよ」って期待するのが融和的な順番じゃないかしら。

 あるいは、ニュースでちらっと流れる世界の虐げられた人たちの声、これを書いている今日ならウクライナの人たち?に耳を澄ますってことが、結局は自分の声を聴いてもらうことにつながるんじゃないだろうか。

 こんな理想論は読みたくない、なんて思われたとしたらゴメンナサイ。ただ、理想論は夢みたいなもので、私は私で夢をみたいし、夢につながる何かがしたいよ。

カンボジア東部海沿いのコッコン州の小学校で。(2018年)
水道のない学校では、飲み水は自宅から持っていくのが当たり前。この小学校は、中国海南島からの移民の人たちが中心になってポルポト時代以後に開かれています。海南島からの移民は、カンボジア海岸部で今も生産されている胡椒栽培の歴史と深くかかわっているようです。そして、カンボジアにも海南鶏飯は伝わり、しっかり根付いているのでした。またそれは別のお話。(注:当ブログで以前連載したカンボジアのコショウの歴史をご覧くださいませページ上部にある当ブログの目次の中にある、「胡椒」の項をクリックしていただくと、連載のページの紹介に飛びます。興味のある方はよろしくー!)

連載第15回 (2022年6月号)
尊厳死について(1) 自殺はダメで、人工呼吸器、胃ろう、人工肛門は嫌で死ぬは、良いの?

 「自分の意志で死なせて欲しい」という声があります。この言葉だけ抜き出してしまうと、それは「自殺」ということになります。自殺を認めるか?簡単に答えが出ることではありません。

 世の中には、とことん自分の生と向き合い、自分の生命を削るように考え悩み、そして自死を選ぶという人生がときどきあるようにも思えます。そんな人生に対して、第三者が気楽に「自殺はダメだ」って言えるのだろうか? 私は簡単に自死を否定することはできません。世の中には、「死ぬべくして死に、それで良かったのだ」という生命があることは認めたいとも思います。

 一方、実は内面の苦痛ではなく、その苦悩が外部からもたらされているような場合、それは自死ではなく、実は「殺されたのと等しい」というケースもあるように思えます。例えば、福祉が整っていれば避けられたような自死。貧困や、差別や、障害や…。そして、いじめ。

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病があります。発病するとだんだん身体が動かせなくなり、やがては呼吸困難に陥る。この段階で、人工呼吸器をつけて、その後何年も存命した事例は多いのです。けれども、日本では(他の国でも)、多くの患者が人工呼吸器を着けずに亡くなっています。呼吸器を装着する選択をする患者は、日本では2~3割だそうです。

 7~8割の患者が「自己決定」で、死を選ぶ。けれども、本当にそうなのか? 患者は呼吸器をつけないという選択を、選ばせられているのではないか。医師が、呼吸器をつけたあとのことをきちんと説明しないことも多いそうです。そして、患者のケアの大変さだけが語られることで、患者自身が「まわりに迷惑をかけたくない」という思いから、自死を選ぶ。そんな事例が多いといいます。

 呼吸器をつけたALS患者の介護は、たしかにとても大変なようです。それでも、呼吸器をつけて生きることを選択した人たちと、その介護をする家族たちの努力によって、死を選ばずに生きて、その後も充実した人生を歩んでいる人たちが確かにおられる。

 死ななくてもいいのに、選ばれる死。「迷惑をかけたくない」からという理由で選ばれる死は、本当に本人の決断なのでしょうか? 実は、「迷惑をかけるぐらいなら、死ぬ」という行為は、社会的な要因による偏見によって作られた、仕向けられた死ではないでしょうか。

 それはALS患者に限りません。

 たとえば、口からの食物摂取が難しくなった際に、おなかに「穴」をつくりチューブを通して直接胃に栄養を送る“胃ろう”という外科的措置がありますよね。この胃ろうに忌避感をもっている人はとても多いという印象が私にはあります。

 たとえば私の母は、日頃から「私は口から食べられなくなったら、もう生きていたくない」と云います。「胃ろうは絶対イヤだ」と。もし胃ろうの有無で生死が決まるとして、胃ろうが嫌で死ぬなんて、そりゃ自死と同じと私は思うのです。「自殺する」と言う人を止めるのと同じ理由で、胃ろうを勧めたいと私は思うのですけれど。

 あるいは。 みなさんはオストメイトという言葉をご存知ですか? ストーマと呼ばれる排泄のための開口部、つまり人工肛門を使う人たちが自称する言葉です。「人工肛門は嫌だ」という人は、オストメイトたちの生を前にどう思われるでしょう? 

休み時間に、校庭の木陰で話し込む中等学校の生徒たち。ミンダナオ島ダバオ フィリピン (1999年)
1990年代後半の時点で、フィリピンの学制は6-4-4制でした。つまり6年の小学校の後の中等教育は4年。日本の中学校高校の6年が、4年間に凝縮されていて、そのあとは大学。つまり17歳ぐらいで大学進学しちゃうのです。そのため、大学を卒業しても、日本や米国といった他国の大学院に進級できないという問題がありました。そんな理由もあって、フィリピンのお金持ち階級は自分たちの子どもは中等教育のあと、海外の高校に留学させそのまま大学大学院に進学させることがごく当然に行われていたのです。一方で、中流階級以下の家庭では、子どもたちを進学させるために両親らが積極的に海外で出稼ぎをすることがとても多いのでした。教育省内では中等教育を延長するという学制改革の必要性が語られていましたけれど、学制が伸びるということは庶民にとってはより一層に教育にお金がかかる年数が増えるということで、選挙では票にならない政策でした。そのためフィリピンの学制改革は遅れる傾向にあったのです。  

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