事故等で脊髄を損傷する人は、日本では年間5千人程度と聞いたことがあります。けして少ない数ではありません。そんな脊損者たちへの情報提供、福利厚生向上、バリアフリー推進、各省庁交渉及び民間企業等への要請活動などを行う組織に、全国脊髄損傷者連合会(公益社団法人)があります。
(公社)全国脊髄損傷者連合会のホームページへようこそ! (zensekiren.jp)
ご縁があって、私はこの全脊連の埼玉県支部の会員です。そして、2021年3月からこの全脊連が毎月発行している【脊損ニュース】という会報誌に『世界は開いているから仕方がない』というタイトルで連載を書いています。今月で連載開始からちょうど2年(全24回)が経ちました。備忘録として、当ブログにその連載記事を順次掲載いたします(全脊連からは、快く了解をいただきました)。今回は連載第16回から第18回までです。
連載第16回 (2022年7月号)
尊厳死について(2) 「苦しい生」には「死」ではなく「苦しくない生」を
コロナ禍で話題となったワクチン接種という予防法は、18世紀の後半に英国のジェンナーという医師が“発明”した天然痘のワクチンがその最初と言われています。おそらく、最初はワクチン接種を恐れて拒否した人も多かったのではないでしょうか。
実際に、ワクチンの知識が19世紀初頭に江戸時代の日本に持たされたときも、最初は不安、猜疑心、恐怖、迷信渦巻いて、接種を薦める医者にはなんと石が投げつけられたという話も残っているそうです。
前回に触れた胃ろうや人工肛門を拒否する気持ちというのは、どこかワクチンという“治療技法”が広まっていく際の、社会との摩擦を思い出させます。
病気の予防接種を受け、それでも病気になれば薬を飲み手術を受けるように、口から食べられなくなれば胃ろうをつけ、排出に問題があればオストメイト(人工肛門をつけた人)になればいい。歩けなければ車イス、手動も電動もあるけど、どれにする? どの処置も、ワクチン同様特別たいした問題じゃないと思うのです。
そして、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気として知られる筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人たちが人工呼吸器をつけるのも、治療の一環じゃないですか(注 連載の前回で、ALSの7割の人たちが人工呼吸器をつけることを拒否して亡くなるという事実に触れてました。人工呼吸器をつければまだ長く生きていけるのだけれど、でもそれを拒否して死ぬ。その理由は、周りに迷惑をかけたくない、ということが多い。それは患者を自殺させていることと同じじゃないですか、と書いたのです)。呼吸困難が起これば、以前は亡くなるしかなかったかもしれません。でも、今は人工呼吸器がある。ならば、それをつければいいじゃない。ごくごく当たり前のことでしょう?
その後のケアが大変という問題は、今度は福祉が解決していくべき課題でしょう。そして、そこでは新しい補助具や、人工知能の活用や、新たな雇用の拡大という可能性が広がっている。
つまり「まわりに迷惑をかけたくない」という理由で患者が呼吸器をつけないと選択することは、どこか間接的に強制された自死につながっていている気がして私は仕方がないのです。同じように、まわりに迷惑をかけたくないという理由で、胃ろうや人工肛門による「延命」が拒否されるケースもあるでしょう? それだって、本来ならば継続していいはずだった生の放棄じゃない?
胃ろうを拒否する母に、「あなたの孫が胃ろうを拒否して死ぬとなったとき、孫に胃ろうを勧めないの?」と問うと、母は「若い人は別だ」と言います。
では、若い人の自死はダメで、老人の自死はいいのでしょうか? それもなにかオカシイ。それを認めれば、今の世の中にも姨捨山はすぐに復活してしまいそうな気がして、私は怖い。(母の言うことの背景にあるだろう《高齢者の「もう充分生きた」という思い》はわかる気がします。それはまた後で書きますね。)
だから何より求められるのは、気楽に胃ろうでも人工肛門でも、あるいは人工呼吸器をつけて生き続けていいよという価値観が広く社会に行き渡ることなんじゃないでしょうか? 「苦しい生」があったとして、その代案として「死んだほうがまし」という回答が出るよりも、「苦しくない生」を解決策として提示できるのがあるべき社会じゃないのかな。その前提で、科学技術や医療の発達はステキって、なって欲しい。
「死んだほうがまし」を回避したいのは障害も同じ。
あなたが突然の脊損に苦しんでいる。夢も希望もあったのに、それが突然消えてしまったように思う。そんなあなたに、簡単にかけられる言葉はなかなか見つからない。わかるよ、その気持ちと黙って肩に手をかけるぐらいしかできない。
でも、じゃ、絶望したあなたが「死んだほうがまし」と思ったとする。でも、けして簡単には「あなたの死」を肯定できないよ。だって・・・・

連載第17回 (2022年8月号)
尊厳死について(3) リビングウィル「延命措置をしないで」という意志表明の怖さ
(前回からの続きです)
不便さや痛みと日々闘わなくてはいけない患者・障害者は何を言ってもいいそうです。「死にたい!」って口にするぐらい、どうぞどうぞ。 でも、もしあなたが私の身近な存在だったとして、やっぱり「死にたい」「死んだほうがマシ」とあなたが口にするのを聞いたら、私はどうしたって狼狽えちゃうだろうなぁ。そして、「急がなくてもいつか死ぬことは避けられない。どうか、死ぬまで生きてもらえないだろうか」って思うんじゃないかと想像するのです。
生きる「術」は、だんだんに整いつつある。先に書いた胃ろうや人工肛門もそう。人工呼吸器だってそう。最近では脳内で思うことを言語化するなんて技術も生まれつつあるというニュースも読みました。つまんないことを考えているのまでばれちゃうのは恥ずかしいですけれど、でもたとえばALS患者が意思表明できないような状況で、新しい技術によって意思の疎通が可能になるというのはやっぱりひとつの希望だろうと思うのです。
そりゃまだまだ不便なことも多いけれど、でも医療は発達し続けている。それを普及させるためにも、そして、さらに医療を進めるためにも、あなたの小さな力添えがあるといい。 だってあなたが死を選択しちゃったら、また誰かがあなたに続く。 生きる「術」を整える流れは弱まってしまう。 それは残念に思うのです。
多くの人たちの小さな力が合わさって、ちょっとずつちょっとずつ社会は変わる。先人たちの努力を無にしないために、「死んだほうがマシ」という思いをそっと飲み込む。 そんな患者・障害者が増えてくれたら、同じ障害者として嬉しいのだけれどなぁ。
そして、尊厳死、です。高齢化社会が進むなか、「自分の意志で死なせて欲しい」と考える人は、どうやら確実に増えているような印象を受けます。昨年95歳で亡くなった橋田壽賀子(はしだすがこ)さんは、安楽死を選択したいと生前に本まで出されていましたね。安楽死と尊厳死、正確にはその意味は少し違うようですけれど。
スイスの安楽死をサポートする組織では、余命半年と判断された人にのみ、薬を処方し死を幇助するとのことです。余命半年なら、なにもそんなに急いで逝かなくてもと思ってしまうのは、死ぬほど辛い現実には直面してない私の気楽さなのでしょうか。
尊厳死は、延命措置をしないで、できるだけ苦しまないように死を受け入れるという措置のこと。安楽死が自死であるのに対して、尊厳死は自死というよりは生を無理に延ばさないことでしょうか。
日本では安楽死は認められていません。また尊厳死のためには、事前にリビング・ウイルという終末期医療における事前指示書を残しておくといいのだそうです。これは、「私に何かがあった際、人工呼吸器の設置などの延命措置をしないで」という意志表示です。
つまり「何かがあったとき」に、本人の意志確認するのが困難な状況はあり得る。昏睡状態とか、意識があってもしゃべれず手指も動かないとか、そういう状況。そのとき、リビング・ウイルが役に立つ。
ただね、これだっていろいろと心配なことはあるのです。この会報誌の発行元である全国脊髄損傷者連合会の会長を務めておられる大濱眞さんは、20代後半にラグビーのプレー中に頚椎損傷を負いました。そのとき、まだ意識がはっきりしない段階で、一度呼吸困難に陥ったのだそうです。そして、大濱さんのご家族は呼吸器装着を選んだ。 「その当時にリビング・ウイルという仕組みがあれば、若かったぼくはおそらく延命措置なしでと書いただろう。そして、あのとき死んでいただろう」 大濱さんは私に語ってくれたことがあります。 (続く)

連載第18回 (2022年9月号)
尊厳死について(4) 「死んだほうがまし!」と叫んだ後のこと……
(前回からの続き)
「リビング・ウィルの制度があったら、事故のときに呼吸器は装着されなかっただろう。そうしたらあのときに死んでいただろう」という、大濱眞さんの事例を紹介しました。
リビング・ウイルを多くの人が残すようになれば、おそらく「死ななくてもいい」生命が失われしまうことも多く起こるのは間違いないでしょう。本当にそれでいいのかな? 大濱さんが事故の際に呼吸器をつけることなく亡くなっていたら、その後、大濱さんが切り開いてきた脊損者の生きやすさを広げる運動がなかったと思うと、私はリビング・ウイルの広がりを「よかった」とは簡単には思えない。
それまで生きていた“普通の日々”が、ある日突然の事故で消える。「もう歩けません」「動けません」「寝たきりです」と言われたときに襲われる「生きていたくない」、「死んだほうがまし」という切実な思い。それを否定することはできません。先日知ったケースでは、その若い受傷者は「殺してくれ!」と叫んだと聞きました。
うん、叫んでいいんです。
でも、私たちはそこから少しずつ少しずつ再生する。行きつつ戻りつつしながら、でも“新しい生”を許容していく。(もちろん、それがなかなか難しいこともあるよね。もしあなたがその途上であったら、こんな文章はうざったくてしょうがないかもしれない。そうだったら、ごめん。)
書きたいことが2つあります。
生まれつき障害を抱えてきた人たちを、中途障害者にはいつか思い出して欲しいということが、ひとつです。脊損は中途障害者が多い障害でしょう。けれど、脊損以外にもさまざまな障害と生きている人たちがいて、少しずつ「多様な生」を認める社会を作ってきてくれたということを思い出して欲しいのです。社会保障やバリアフリーや、さらには医療の進歩も、彼らの力なしには現状はない。私たちは、たまたま居合わせた社会の歴史からは自由ではありません。あなたが「死なない」ことで、次のだれかの「死」をすこし遠ざけることがあるかもしれない。
もうひとつは、あなたはあなた一人であなたになったわけではないということ。私たちは、どこに生まれてくるかは選べません。偶然、両親のもとに生まれる。その環境は、さまざまです。でも、誰一人、自分ひとりで成長した人はいない。親かもしれない、祖父母かもしれない、姉や兄、叔父や叔母かもしれない、もしかしたら肉親ではない人だったかもしれない。 とにかく、誰かがあなたを抱き、あなたを世話したのです。 その後も、大なり小なりだけれど、すごく簡単に書けば「人はひとりで人とはなれない」。だから、あなたが「死んだほうがまし!」と口にしたとき、その言葉に動揺している人はきっといる。肉親かもしれないし、事故にかかわった人かもしれない。病院のスタッフだって、どうしたって心乱される。 いいのよ、患者は何を言っても。 でもそれを口にした後、自分自身が発したの言葉の強さに対する他者への「申し訳無さ」があなたの心をよぎったら、それがあなたの再生の萌芽になる。なるといいな。
実は、本人以上にまわりの人があなたの障害を受容できない、ということもあるように思います。特に両親。お子さんの受傷と、その後遺症をどうしても認めたくない。 以前「障害は人生のアクセント」とこの連載で書いたことがあります。ご子息が脊損で大きな障害を負った方は、私のあの文章を「理解できない」と私に告げました。若くして障害を負ったご子息の父親である彼の辛さがひしひしと伝わってきました。(続く)


















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