「なにかが自分の代わりだと思える」

友人、荒井Aono育美さんが職場(東京練馬区北部)から、今秋ある日の夕刻、西南にレンズを向けて撮影してくれた写真です。東京杉並区育ちの私にもなじみ深い“故郷の風景”なのかなぁ。

今日、ちょっと涙が出た話

シャッターで閉店伝えたら…思わぬ光景、パン屋店主が2枚目の貼り紙 [東京インサイド]:朝日新聞デジタル (asahi.com)
 朝日新聞デジタル版に載ったこの記事。会員でないと読めないかもしれないので、簡単に要約すると以下です。

 東京都稲城市にあるパン屋「トロントベーカリー」さん、80歳を超えた店主は45年続けたお店を閉めることを決める。
「この度体力の限界により閉店させて頂きたくご挨拶(あいさつ)申し上げます 45年間の御愛顧を賜り誠に有りがとうございました」
 という張り紙をシャッターに貼ったところ、しばらくして新しい張り紙が貼られた。お客さんと思われる人が書いたものだ。
「ワンワンのパンおいしかったです」
 その後も、お礼と惜しむ声を記したお客さんからの張り紙が次々と貼られる。記述者の名前はほとんど書いていなくても、店主さん夫婦には誰が書いたものかだいたい想像がつく。 
 記事は以下の数行で終わっている。

 メッセージをくれた人にお礼が言いたい。知らんぷりはできない。

 チサさんは湧き上がってきた気持ちを小さな付箋(ふせん)に書き記した。

 そして、シャッターに貼った。

 「みなさん ほんとうにありがとうございました。ほんとにほんとう~にありがとうございました」

 町の小さな日常を切り取ったなんてこともない記事でした。でも、読んでいてちょびっと涙がこぼれました。あらら、ワタクシも歳を取ったかなぁ、涙もろくなったなぁ。
 世知辛いニュースが多い中で、やっぱりこういうのは良いです。
 学校現場で働く方の苦労に焦点があたることが多いですよね。確かに、子どもたちを取り巻く環境、それを支援する先生方の多忙さ、それを知ると辛い気持ちになることが多いのです。でも、私には少なくない教師の知り合いがおりますけれど、彼らが語るのを聞いていると「教室の若者たちはみんな良い子」であることがひしひしと伝わってきたりします。

 「良い子ばっかりだよー」という話をうかがうと、これで世界は大丈夫だぁ! とちょっと楽観できるような気もしたりする瞬間がときどきあるのです。心配するには及ばないよ、ってね。

 一方で、このニュースを読んで「これで世界は大丈夫だぁ」とも決して思えはしない捻くれた私もいます。この心温まる話の登場人物が、他の場面では不寛容の鬼だったりしないともかぎらない。
 でも、今年もいよいよ師走だし、そこは気楽に。まんざらでもないじゃん、けっこうなんとかなるんじゃないのかな、ぐらいは思えばいいのかな。

 そりゃ、生きてりゃいろいろあるさで、ふと極小のブラックホールに飲み込まれてしまうような悪夢に遭遇することってあるだろう。ときには、自分自身の存在が他者のブラックホールになってしまうこともある。でもね、でもね。それでも、まぁ、世の中、なんとかなるんじゃないかなぁ。 ってね。

「なにかが自分の代わりだと思える」

 つい先日、縁あってZoomでとある集まりをちょっと遠巻きに眺めるという機会がありました。大人たちが7時間近くもなにやら話し合ったり、伝えあったりしているのです。そして、私はそれを飽きもせず眺めていました。こちらも、「まぁ、世の中、悪くないんじゃないのよさー(ピノコ言葉)」と思えるようなひと時でした。

 そんな話し合いの中で、心にひっかかったフレーズに以下がありました。

「なにかが自分の代わりだと思える」

「自分が何かの代わりだと思える」ではありません。こっちならよくわかる気がする。誰かの代わりに頑張る、みたいな。声を上げられない人の代わりに、声を上げる、とか。そういうのは、よくわかる。でも「なにかが自分の代わりだと思える」、こっちはわかったようでまだわからない。解らないから、気になりました。

 「自分を主語にすることは、さておき、そうするほうが何かがずっと混在しうる」

 ふーん。
 わかるような気もするけれど、やっぱりわからない。
 まぁこういうときは、寝かせておくに限ります。
 「なにかが自分の代わりだと思える」ということが気になったということは、もしかしたら何かフレッシュなものに出会える前触れなのかもしれないし(そうでないかもしれない)。もし、この言葉に縁があるなら、寝かせておけばまたそれほど遠くないときに再会する機会があるでしょう(ないかもしれないけれど)。そして、そのときにはちょうどよく発酵して、今よりももっとすんなりと理解できるかもしれない(そうならないかもしれないし、発酵せずに腐敗しちゃうかもしれないけれど、まぁ、それはそれで、善きかな良きかな)

 そんな近未来のために、もうちょっとだけ考えておこうか。

 お店を閉めることにしたパン屋さん。彼らご夫婦は、私の代わりだっただろうか?
 「お店を閉めます」という文章を読んで、それに「ありがとう」のメッセージを添えた人たちは、どう私の代わりをしてくれているだろう?

 今日、ウクライナの空を切り裂くロケットの発射ボタンを押した人は、やっぱり私の代わりだったのだろうか? 私がそのボタンを押さないで済んでいて、彼(彼女)が押すことになってしまったのは、かなり偶然の結果だったのではないかしら? あるいは。今日、インドネシアで爆発した火山の近くで不安な一日を過ごしている人たちは、私の代わりなのかな。そこでは、今どんな空がみえているのだろうか。燃えるような夕焼けだったのか?

 ちょっとだけ予感としてあるのは、こんな発想を切り返して「だから自分も誰かの代わりに ○○○○」というような思考に入っちゃいけないのだろうということです(実際、どうやら私は無意識にそういう思考、つまり傲慢、に流れやすいところがあるかもしれないのです)。

 誰かの代わりに自分が……、それはやっぱり粋(いき)ではなくて野暮だろう。そんな予感だけはわりあいはっきりと在るのです。

師走最初の日曜日夕刻プノンペンより、ではまた!

 さて、家の中では、今月中ごろの合唱コンサートに向かって「柊(ひいらぎ)飾ろう」の練習に取り組む音(声?)が響いてきました。うーむ、これは少々お助けしなければなるまいかなー。ソプラノですから、私が代わりに歌うわけにもいきますまい。
 では、私の最近の「越境、ひっきりなし」の投稿にしては、短めですけれど、今日はここらでおしまいにします。「生きてますよ」という近況報告のような回となりました。
 ではでは、またー。

 

 

 

1件のコメント

『なにかが自分の変り・・・』、『誰かの代わりに自分が・・・』
・・・短い文章ですが、今回も難しくて・・・
疲れているのかなあ? どうして”越境ひっきりなし”邸のご主人はそんなに頭が冴えさえなんだろうか。今晩もまた気持ち凹んで床に就く。

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