『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第24回 現在の国の枠組みから自由な立場での発想を 

コンポントラッチ郊外の胡椒畑

 前回の投稿(華人排斥の歴史、以下から飛べます)と今回の投稿は、『カンボジアの胡椒とその周辺の物語』の後書きのような位置づけになります。
今回は、現在のカンボジアという枠組みで数百年の歴史を振り返ることの難しさについて書きました。

胡椒とカンボジア

 人類の歴史の中では、胡椒とそれがもたらす富に魅せられた人々によって、血が流れたり弱者が搾取されたりしてきた。しかし、それは胡椒の罪ではない。胡椒は柔軟に境界を超えてきた。それはまるで虫や風によって運ばれる花粉や種のように、胡椒がもつ香辛料としての魅力が人を誘い、胡椒を越境させ、その生物的繁栄につながっているかのようだ。胡椒は、場所と天候は選んでも人は選ばない。それを摘むのが何人であろうと、胡椒には関係がない。適した環境と十分な世話があれば、胡椒は伸び繁り咲き実り、現代では生産者や流通者の生活の糧となり、消費者の食卓を豊かにする。

 カンボジアの胡椒が、中世から続くカンボジアの「伝統的」なものかどうかの判断は、結局私の調査ではあくまで素人があれこれ推測するだけで、はっきりしない。私の中では、現在のカンボジアの海沿いの地域でポルポト時代を超えて続けられている胡椒栽培の歴史は、13世紀アンコールトムに始まると考えるよりも、18世紀以降の華人ネットワークによってマレーシア方面から持ち込まれたものと考えるほうが自然という結論が出たけれど、それが実際の史実にのっとったものとは言い切れない。

現在の国家・国境をもとに、歴史を振り返ることの問題

 歴史研究家の羽田正は、これまでの世界史理解の問題点の一つとして「過去においても現在と同じ「国」が存在し、それが今日まで続いてきているという前提で議論が組み立てられること」[i]を指摘している。カンボジア史では、確認できる最初の祖先国家として扶南がある。それに続く祖先国家には真臘があり、その真臘はアンコール時代にその最盛期を迎え、ポストアンコール時代もベトナムとタイの圧力を受けつつもアンコールから続く王朝が生き延び、現在のカンボジア王国につながっているとされている。しかし、羽田の批判をそのまま受け取れば、「扶南=真臘=アンコール=カンボジア」という理解は、現存するカンボジアという国に囚われた歴史の見方ということになる。

 このように一つの国の存在を筒のように歴史地図の中に当てはめる考え方は、陸続きの国々と比較して、日本のような島国家では殊更顕著になる。1945年の敗戦後、それ以前の皇国史観から自由になった学校教育における「日本史」でも、「古代の時代から続く独自の歴史を持つ日本」というイメージは維持されてきた[ii]

 国の歴史的連続性を知らず知らずのうちに「期待」してしまう傾向を、私たちは身に着けている。

 同様の傾向は、カンボジア国の自国史観の中にも強くある。政治学および人類学の専門家であるジェームズCスコット『ゾミア脱国家の世界史』――「ゾミア」とは、ベトナムの中央高原からインドの北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部のベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマと中国の四省(雲南、貴州、広西、四川の四省)を含む広大な丘陵地帯を指す呼び名だ――という魅力的な本の中で、カンボジアを含むインドシア諸国の過去への撞着を次のように喝破する。

 東南アジア大陸部で第二次世界大戦後に独立国家が現れたことによって、歴史の神秘化には新たな層がさらに加えられることになった。栄光と善行に満ちた「祖先」を讃え、過去と現在の類似点を強引に作り上げることを通じて、今日の独立国家は民族としても国土としても前近代の古典国家の継承者としての正当性を主張する。加えて、古典国家はナショナリズムに原型を与え、国内外における現代の敵を攻撃するのに役立つように加工され歪曲される。(中略)そもそもそのような古代遺物が作られた時代には、民族や国家といった枠組みやアイデンティティは意味をなさなかった。こうした結果として今日支配的な国家と民族のイメージが過去に向けて遠く投影され、歴史の不連続性、アンデンティティの流動性を覆い隠した歴史的寓話が作られるのである。[iii]

 さらに人口とその密度に関しても、現在の感覚は過去には通用しない。例えば、西暦1000年の世界人口は、3億前後と見積もられている[iv]。2018年の世界人口を75億とすれば、そのたった25分の1だ。たった200年前の1800年の時点でも世界人口は10億弱で、現在の約8分の1となる[v]特に東南アジア大陸部は多くが深い森に覆われ、人口密度も世界的に見てけして高くはなかった。

 スコットは同じ本の中でこの地域の流動性を次のように指摘している。

 大規模な政治単位が根本的に不安定であったとすれば、小規模の基礎単位もまた恒久的な建設素材にはならなかった。これらの構成単位は解散、分裂、移住、合併、再構築を繰り返し、ほとんどつねに変化し続けているものとして理解しなくてはならない。集落や親族内の世帯や個人も、長い時間のなかで変化し続けている。移住地の場所が半世紀のあいだ変わらなくても居住者が入れ替わるので、言語的・民族的アイデンティティが場所を変えずに短時間で劇的に変化することもある。一六〇〇年における東南アジアの人口密度は、インドの六分の一、中国の七分の一ときわめて低かった。広大なフロンティアは、国家による搾取に対して自動式のブレーキとしての機能を果たした。家族も集落も比較的容易に移動した。移動の理由は、伝染病、飢餓、賦役労働、徴兵、派閥抗争、教派分裂、恥辱、スキャンダル、縁起直しなどさまざまであった。長期的視野で見ると、どの基礎単位の構成員も流動的で、単位の存在そのものが安定していなかった。[vi]

 インドシナ半島(インドシナという呼び名もフランスがつけたものに過ぎない)に現在引かれている国境は、19世紀にようやくその姿を現したもので、「それ以前のカンボジア」が「現在のカンボジア」と同じとするイメージ、価値観、は、根底から見直す必要があるのだろう。

 アンコール時代まで遡れば、アンコール王朝の最盛期にはその「領土」が広く東南アジア大陸部に及んだようなイメージを持つけれども、調べてみれば当時の領土は、あくまで労働力を奪いに行ったものに過ぎなかった[vii]

 つまり、アンコールに残されたような大きな建築物を造るための労働力確保が当時の軍事遠征の目的だった。遠征によって現在の国境のような境界が引かれたわけではなかった。歴史的に見れば、そのころのほうが、今よりも境界は開いていたとさえ言える。  

 その開かれた地平を胡椒はインドから現在のカンボジアの土地に渡ってきた。それを今の国境でくくって「伝統」をことさら強調するのは、あくまで伝統の現代風アレンジに過ぎない。伝統という言葉によりかからなくても、現在カンボジアで生産される胡椒が素敵な香りを持つことに変わりはない。

 経済発展とともに「愛国化」が進むカンボジアでは、アンコール時代と現カンボジア国との結びつきを否定するような物言いは、不敬罪(カンボジアには国王に対する不敬罪が2018年に成立し、逮捕者も出ている[viii])にもなりかねない。でも、カンボジアの人たちとは、改めてそのことを見つめ直す機会があればと思う。


[i] 二〇六ページ 羽田正/著『グローバル化と世界史』東京大学出版会 二〇一八

[ii] 一三三ページ「現代日本における世界史の理解」より 羽田正/著『グローバル化と世界史』
ちなみに、羽田はこのような筒型の日本史観を否定してはいない。この点に関しては同じく羽田正/著『新しい世界史へ――地球市民のための構想』岩波新書(二〇一一)の一一八ページ「日本中心史観」の項参照

[iii] 三五ページ ジェームズ・C・スコット/著 佐藤仁/監修・訳 池田一人・他/訳『ゾミア脱国家の世界史』みすず書房 二〇一三

[iv] 表1-3 古代の世界人口(推定)より 八ページ 日本人口学会/編『人口大事典』培風館 二〇〇二

[v] 二三ページ 表1-7 世界の主要地域別推計人口(1950~1900年)より  日本人口学会/編『人口大事典』

[vi] 三七ページ ジェームズ・C・スコット/著 佐藤仁/監修・訳 池田一人・他/訳『ゾミア脱国家の世界史』

[vii]ジェームズ・C・スコット/著 佐藤仁/監修・訳 池田一人・他/訳『ゾミア脱国家の世界史』の八六ページには東南アジアの奴隷制を巡って次のような記述がある。

 奴隷は、前植民地期の東南アジアで最も重量な「商品作物」、つまりこの地域の商業にとって最も需要の高い商品であったと言ってもよい。ほとんどすべての大規模な貿易の主体は、奴隷狩りの担い手か奴隷の買い手でもあった。すべての軍事的作戦、すべての討伐は、売買でき所有できる捕虜を求めた作戦であった。(中略)
水稲国家を発展させるには、国家の周縁部から人々を漁って、中心部の支配と防衛のための人口を集める必要があった。(中略)特に山岳部からなる非国家空間から捕虜を計画的に連れ去り、国家空間の内部かその近縁に住まわせることであった。そうしたパターンは、一三〇〇年のカンボジアで見られ、マレーシアなど他のいくつかの地域では二〇世紀半ばまで続けられた。ギブソンは一九二〇年頃まで、東南アジア都市部の人口の大半が元々捕虜であるか、二、三世代を経た捕虜の子孫であると主張している。
  この証拠はあちこちに有る。例えばタイ系民族の世界では、一九世紀後半のチェンマイ王国の人口の四分の三が戦争による捕虜であった。

さらに八八ページ

 十九世紀に見られた山岳民族が奴隷狩りの危険にさらされていたことを示す引用。(文中のダマジカは東南アジア大陸部に生息する小型の鹿、シャン国はチェンマイ王国のこと)
彼らは人狩りの待ち伏せにあい、ダマジカのように追い立てられ、連れ去られた後、シャン国、シャム、カンボジアの主要な場所へと売られていったのだった。

[viii] Cambodia POSTEというインターネット情報サイトの記事より二〇一八年二月二一日不敬罪成立の記事「https://poste-kh.com/dailyinfo/上院カンボジア国王を侮辱した場合懲役または罰金の法案を承認-1814」

二〇一八年五月一四日不敬罪が適応されて逮捕者が出た記事「https://poste-kh.com/dailyinfo/20180515-2060

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