人生始めての搭乗拒否
『PCR検査陰性でした 明日プノンペンに向かいます』というタイトルで投稿を準備したのは東京では桜が満開だった3月26日金曜日でした。結局、荷物の整理などで投稿原稿が仕上がらないまま、翌日朝、仁川(韓国の国際空港)経由でカンボジアの首都プノンペンに向かうために成田空港に向かったのでした。
ところが、アシアナ航空のカウンター前で「村山様をプノンペンまでお運びできなくなってしまった、ごめんなさい」と告げられてしまったのです。下半身マヒで歩けない私ひとりでカンボジアに入国するのはダメと、カンボジア側からストップがかかったと言うのです。入国するのならば、私をケアする、特に入国後、空港からカンボジア側が用意する待機場所まで移動するバスに私を乗り込ませることのできる、同行者と一緒に来て下さい、というのです。なんと、生まれて初めての、カウンターでの搭乗拒否!!ありゃま、ダメなの???
で、すぐに同行者探しを始めたところ、幸いプノンペンに仕事で飛ぶ野球仲間がすぐに見つかりまして、私が彼に同行させてもらうことになりました。PCR検査もやり直して、もちろん陰性。で、桜もほぼ散り終わった4月5日月曜日、再度アシアナ航空の成田空港カウンターに向かったのです。
そして、この投稿原稿はプノンペン市内の2週間隔離場所で書いています。はい、久しぶりの国境超え、無事成功しております。
障害を理由に入国拒否、に関して。
深刻な状況はわかるけど
日本の新型コロナ感染の第3、第4の波と時期を同じくして、カンボジアでもコロナ感染が広がっています。2020年末には総計で感染者数百人、死亡者ゼロと、感染拡大の阻止に成功していたカンボジアでした。ところが、今年に入って状況は一変しました。2021年4月7日発表によれば、総感染者数2915名(治癒者数:1824名)、死者22名と、感染者数も死者も、一気に増えてしまった。
最近は1日あたりの新しい感染者数は連日数十名から100名という数字が発表されています。21名の死者も、ほとんどここ1ヶ月のうちに亡くなっています。
カンボジアの人口は1500万人強ですから、日本のほぼ7分の1(この部分、投稿公開時には「1000万人強ですから、日本のほぼ10分の1」と書きましたけれど、読者から「甘い!」とご指摘があり、より実際の数値に即した数字に改めました)。連日発表される数字は、日本の人口との差を考慮すれば、日本と比べて特別大きな数字ではありません。日本はずっと連日千人単位での新感染者数ですから。ただ、日本とカンボジア、医療体制には大きな差があります。発表されている感染者数と治癒者数から、今日も約千人の患者がカンボジア内の限られた病院で治療中です。おそらく、もう十分に医療体勢は逼迫している。かなり厳しい。おそらく死者数はまだまだ増えていくのじゃないだろうか。
そんなカンボジアに、わざわざ入国しようとする人たち。私が使った仁川発プノンペン行の搭乗者は、30名程度で、その半数以上は帰国するカンボジアの若い人たちでした。カンボジアにとっての外人はけして多くはありません。その多くは仕事のためにカンボジアに入る理由がある人たちでしょう。
そんな「どうしても!」という社会的理由のない私が、たまたま障害者で、車イス者で、ひとりでバスに乗り込むことができない。そんなどうでもいいひとりへの対応であれこれ云われたくない、というのがカンボジア側の気分だと思います。こんな状況で、そこまで面倒見る余裕はないんだよ!ってことでしょう。
それでも、やっぱり言いたい。障害を理由に入国拒否はだめでしょう、って。
搭乗を拒否されたとき、アシアナ航空のスタッフは私にこう伝えました。「カンボジアの保健省に問い合わせたところ、海外からの入国者にたとえ補佐でも触ることは禁止されていると回答があった」と。なるほど、マスクの使用が厳格に求められている場所で、接触はダメなのはそりゃそうでしょう。だから、私が「サポートをカンボジアにいる家族のひとりにお願いすることで、入国を許可してもらえないだろうか」(バスに乗るのは、イミグレーションを通過した後のことです)と頼んでも、ダメだったのです。
でも、車イス者が乗車できないバスしか用意できないなら、救急車でもパトカーででも、運んでくれればいいじゃないですか。触るのがダメなら、防護服を来た方が補佐してくれるってのも選択肢でしょう。要は、やる気、の問題だ。
そして、実際にたどり着いたプノンペン国際空港の雰囲気は、ピリピリした緊張感を想像していたのですけれど、でもそれは違った。もっと、ゆるゆるでした。渡航者に触れない?そんなことなかったですよ。タッチできないなんて、厳格に運用されていませんでした。バスの搭乗を支援するスタッフは誰も用意されていなかったのは事実でした。私は同行者に背負ってもらって、バスを乗降しました。
でも、同行者なしのひとりだったとしても、搭乗者の誰かに助けを求めることは可能でしたし、おそらくバスの運転手も頼めば助けてくれたでしょう(お礼にいくらかチップを弾まなければならなかったでしょうけれど)。私をバスに乗せるための支援を禁止するような体勢は特にとられていませんでした。
別に特別の受け入れ体勢も検討していなかったから、じゃダメってことにする、というのが、今回のカンボジア側の「入国拒否」という回答だったのだと思います。でも、その程度のことで障害者の入国を拒否するのは、ユニバーサルデザイン推進という国際標準の視点からみても、駄目でしょう。もはやそれは、障害者への配慮なしを責められても仕方ない。カンボジア政府にとって、今回の件は、「格好悪い」事例でした。なんともだらしない。
なぜそれでもプノンペンに来たのか
2020年の2月末、1ヶ月ちょっとの予定で私はプノンペンから東京にやってきました。そういえば、そのとき予定していた成田からプノンペンの直行便も4月5日でした。ところが、カンボジア政府が入国時にPCR検査の陰性証明提出を義務づけたのが3月31日。当時、PCR検査を安価で気楽に受けることは日本国内では簡単ではなく、コロナ禍が収まるまでと東京で待機することにしました。そこから結局一年経過。コロナ感染拡大の事態は当時よりもカンボジアでも、日本でも、そして地球全体でも深刻になっていますけれど、今回は無理して帰宅するという選択をしました。
状況は改善していないにもかかわらず、プノンペンに帰ろうとする大きな理由は、2021年1月に『超えてみようよ!境界線 アフリカ・アジア、そして車イスで考えた援助すること・されること』をかもがわ出版から上梓できたこと。さらに、この本の出版が決まった昨年9月末に当ブログ『越境、ひっきりなし』を立ち上げて、毎日連載を半年間続けたこと。
よし、これでひとまずOKという気持ちになりました。それじゃ、戻りますかと。次のステップに進もうと。
さらにプノンペンには私の妻がいます。インターネットのおかげで東京からでも毎日彼女とはコミュニケーションが取れますけれど、それはなにかもったいないのです。せっかく縁があったのだから、どうせなら近くで彼女を応援したい。
なによりも、私にとって大事なのは、空気です。浅草の小さな部屋に閉じこもる部屋で私を取り巻く空気。それはこれ以上長くいる場所ではないのです。自分の生きる場所として、もう限界。プノンペンにいたって、私は自分の家の限られた空間の中で多くの時間を過ごします。それでも、空気はちがう。カンボジアのニュースも、東京で読むのと、カンボジアで聞くのとは、私にとってはその質がかなり変わってしまう。切実とか、熱量とか。それは私には無視できない大きな違いなのです。現場主義、が正しいかどうかは、知りません。でも、私には、次のステップに進むためには、「場」は大事なことです。どこで、感じ考えるのか。それは、東京じゃダメなのです。私のいる場所は「外」にある、と、思っているのです。それは私には大事なこと。
でも、だからといって、現実的にカンボジアがそんな私個人の思いを尊重してくれるなんて期待していません。でも、障害者の利便は、もう少し考慮して欲しい。
そのバスには日の丸印が!
ところで、11月19日のこのブログへの投稿で、日本がODA(政府間援助)としてプノンペンのバス路線の充実に貢献していることを書きました。支援したバスが、バリアフリーではなく、車イス者には不便であることも。もし、あの機会に障害者にも使いやすいバスを供与していれば、それはカンボジア社会のユニバーサルデザインへの理解促進の大きな契機になったのに、その大きなチャンスを逸したんじゃないの、と書きました。(以下から飛べます)
そして、私が背負われて乗り込んだそのバスも、日の丸印が輝く、そのODAによって支援されたバスだったのです。あぁ、これがノーステップバスだったら、どんなに素敵だったろう。
「車イス者がひとりで入国?もちろん問題ありませんよ」
アシアナ航空からの問い合わせに、カンボジア側がそう回答できたていたら、そして実際に活躍するバスが日本政府から支援されたバスだったら、日本政府に税金を払っていた私は、きっと嬉しかっただろうなぁ。本当に、改めて心の底から残念無念!
















お帰りなさい。この一言だけです。
毎日のブログが不定期になると宣言があってから、沈黙が続いていました。いろいろと大変なことはありましたが、ともかく入国おめでとうございました。私はいつ行けるか分かりませんが、またカンボジアでお会いできればうれしく思います。
いやあ大変でしたね~、何はともあれご入国おめでとうございます。
隔離も難儀ですね、無事のご到着を!(当分在宅勤務が続きそうです)