まえがき
阿古智子さんは、現代中国社会の研究者です。現地に入り込み、参与観察という方法で研究を進めるのが彼女のやり方です。
私が彼女と会ったのは、大学院時代。彼女は大学を卒業後すぐ、私は大学卒業後7年ほど経って、その大学院に入りましたから年齢は私が上です。大学院生の勉強室大部屋で、夜間に部屋の明かりは消えていて、でも小さなデスクランプの下で、阿古さんが中国語の勉強に集中していた姿を私は何度も見ています。
開発の中での教育系の同じゼミに参加し、修士論文の指導教官も同じ先生でした。大学院時代のクラスメイトとはその後連絡を取り合う機会も減っていって。でもなぜか阿古さんとだけ、細々?じわじわ?と交友が続いているのです。インターネットのおかげってことも、あるかなぁ。
私が事故で車イス者になる前には、何回か阿古さんの職場で学生さんと話す場をもらったことがあります。事故後は、カンボジアで互いの調査をサポートしあって一緒に小旅行したこともある。彼女は無条件に信用できる友人なのです。
中国現代社会研究、特に農村部の研究を参与観察で続けていれば、どうしたって今の中国の社会問題と直面する。部屋の中で文献にあたるだけではなく、実際に問題に直面している当時者によりそうわけです。当然、権力と向き合うことになる。研究の過程で、弱者に寄り添おうとする人たち、例えば弁護士さんたち、と知り合い、話し合う。きっと意気投合したりもする。名も無いおじいちゃんおばあちゃんから、お菓子をもらったりもしてしまう。
何が今の彼女を作ったのか。それを想像することはそれほど難しいことじゃない。もちろん、実際には想像の何万倍も過酷な道であっただろうけれど、それは阿古さん本人だけが知っていればいいことです。
香港の民主化が危機に立ったあたりから、テレビのニュース番組などでコメンテイターとして呼ばれて話す阿古さんの姿が見られるようになりました。当時40歳前後?という若い女性の研究者であったことも、彼女がマスコミに注目されるひとつの理由だったでしょう。
マスコミで顔を知られるということは、彼女自身を守ることにもつながったはずです。彼女が対峙したものは、ものすごく巨大でした。彼女の仲間、同士である、中国や香港の人たちが、突然消え、拘束されていたことがようやくわかり、裁判にかけられ、不当な判決をうけている。彼女にもその危機は常にある(だから、彼女は中国に入れなくなってしまっています)。阿古さんが突然行方不明になれば、無名の人よりもずっと世間は注目するはずです。阿古さん本人がそのことにどれほど自覚的であるかは聞いたことはないけれど、有名人になることで、彼女自身を、そして彼女の家族、特にまだ未成年の息子さん、を守ることになっているのだと、私は感じます。
今や阿古さんファンの私の母は「阿古さん最近きれいになったねぇ、垢ぬけたねぇ」なんて気楽なことを言っている。私の母のような人が、何万人も何十万人もいて、知らず知らず阿古さんを守っているのです。そりゃ、例外もあるでしょうけれど、ま、例外はどんなときでもある。気にしてもしょうがない。
テレビだけではなく、新聞にもコメントを寄せることが多くなる。朝日新聞の書評欄に毎週の寄稿を1年続けたり。そして、産経新聞でも重宝されることになった。産経新聞、ラベルを貼れば保守系新聞、に書くことで、彼女を誤解する人もいるはずです。そのことには阿古さんは自覚的であったけれど、彼女は求められれば発言することを常に選び続けてきた。そして、そこで言いたいことを言う。彼女が闘っている超強力な巨人に立ち向かうのに、手段を選ぶ余裕はないのです(もちろん、不法は最初から選択肢ではないのは当然として)。
私は、はらはらしつつも、その意気や良しと思ってた。
そうしたら、今回、フジサンケイグループが出す賞を受け取ったという。「賞までもらわなくてもいいのになぁ」というのが、私の第一印象でした。くれるものはもらうとしても、「着飾って舞台に乗ることはないのになぁ」とも思った。ちょい、迎合しすぎじゃないかなぁという気分、不安。
そして、このブログを書き始めるわけです。

すべての賞は恣意的であって…
現在のパレスチナを苦しめている背景のひとつに、オスロ合意というイスラエル政府とパレスチナ代表との政治的取り決めがあります。このオスロ合意を称えて、イスラエル政府のラビン首相とペレス外相、 パレスチナ解放機構 (PLO)の アラファト議長の3名がノーベル平和賞を受賞しています。
けれども、実際にはオスロ合意は称えられるような成果を上げませんでした。むしろ、パレスチナ暫定政権をイスラエルの出先機関化してしまった。パレスチナ暫定政権を無力化しつつ、イスラエルはアパルトヘイト政策を強化し、パレスチナ先住民の殲滅に突き進んでいます。
今からでも、彼らへの平和賞は無効にしてもいいんじゃない、と思うほどです。
賞というのは、すべからく怪しい面を持っています。賞を与える側の思惑というものが絶対にある。ノーベル賞ももちろん例外であるわけはありません。それでも、科学系の賞にはまだ「公平性」があるのかしら?その公平性は文学賞ではかなり軽減し、平和賞ではもうズタボロ……、そんな印象を私は持っています(科学系の賞ですら、実は公平性は怪しいという説もきっとあるはずです、賞ですからしょうがないのよ)。
それでも、その賞の怪しさいい加減さをカモフラージュする方法もあったりもします。たまに本当にその賞の名前にふさわしい人を受賞者に選ぶというやり方です。
ノーベル平和賞であれば…。2018年のデニムクウェゲ氏(コンゴ共和国)などは、そんな例のひとつじゃないでしょうか。彼が受賞したことでそれまで世界的にはあまり知られていなかったアフリカ中央部での紛争での女性被害者への視点が向いた。彼がノーベル平和賞を取ってよかったと私は思っています。それだって、私の恣意的な価値観の中での評価ですけれど。
ムクウェゲさんの受賞は、上記のオスロ合意での受賞者などに比較して、称えられるべき人が受賞した、という気がするのです。沖縄返還時の佐藤栄作首相(1974/昭和49年受賞)や、その前年の米国のキッシンジャー大統領補佐官の受賞(ベトナム平和交渉が理由)、1978年のイスラエルのペギン首相(エジプトとの和平合意が理由)、2009年の米国オバマ大統領の受賞(理由はなんでしたっけ???)、2019年のエチオピアのアハメド大統領の受賞(これも理由はなんだったっけ?)などは、「殺す側」の親分たち(小親分も含む)じゃない。殺す側の人たちが平和賞?なんじゃ、そりゃ??? それに比べれば、ムクウェゲさんの受賞は喜ばしい。ムクウェゲさんを彼ら「殺す側」の人たちと同じ列に並べるのは、ムクウェゲさんには失礼なことではあるとしても。
もし中村哲氏(アフガニスタン・パキスタン支援で活躍された)が存命なら、ノーベル平和賞の「言い訳」としての受賞者候補としてはもってこいだったでしょう。そして、中村哲さんなら、きっと黙って賞を受けたんだろうと想像します。
ノーベル賞のムクウェゲ氏としての、正論新風賞の阿古智子
さて。以下、本稿の本題。
朋友と、ここで書いたこともある友人の阿古智子さんが、今年3月に正論新風賞というものを受賞しました。私はこの賞のことをまったく知らないでいました。そして、この賞が、フジサンケイグループから出されていることを知って、やっぱりちょっと驚いたのです。
阿古さんは、この受賞直後にFacebook(3月8日の投稿)で受賞の報告として、以下のように書いています。 (阿古さんがこの日書かれた文章を、写真は省略して、すべて引用しました。この引用を阿古さんに許可取っていません。阿古さん、事後承諾になってしまいます。)
昨日の新風賞のお祝いに来てくださった方々、あたたかい言葉をかけてくださった方々に心からお礼申し上げます。
自分自身は穴があったら入りたいぐらいです。演出された場でどう自分を表現していいか、正直わかりませんでした。
賞をもらうことで失うものもあるのでしょう。
何を、どのような基準で選ぶのか、その時々の考えで決めていくしかありません。
人間はさまざまなものにラベルを貼って、カテゴリーをつくって判断していきます。
私は、スピーチでこのように述べさせてもらいました。
「共に苦楽を味わい、共に学び、時にぶつかり合いながらも、修羅場を一緒に潜り抜けてきた中国や香港、台湾の友人たちも、自らの尊厳を踏み躙られる形で他者に支配されることを、明確に拒絶しています。自らの主体を取り戻し、人間として感じる痛みを、喜びを、自分の感覚と言葉で表現したいと考えています。私たちは互いに自分らしく表現し合い、どんな時にもつながっていられて、意見や考えを交換し合えることに喜びを感じます」
自分がどうありたいのか考え続けられるように、自分自身を見失わないように、努力しなければと感じています。
今は、時間がもっと欲しいです!
ゆっくり本を読み、思考し、書く時間が欲しいです。
本を書く時間が欲しいです!!
出版社の方々にずっと待っていただいて、ご迷惑をおかけしています(泣)。
なお、新風賞でいただいた副賞は香港の友人たちと運営している奨学金事業に寄付させてもらいます。
公表するようなことではありませんが、「お金に困っているから賞をもらったの?」と言われたので!
ありがたいことに、今の私は経済的には恵まれています。
いただいたお花を台所に飾りました。
ブロンズ像はアカデミー賞みたいですね。
阿古さん自身の文章の中で、やはり気になるのは「賞をもらうことで失うものもあるのでしょう」、さらに、「人間はさまざまなものにラベルを貼って、カテゴリーをつくって判断していきます」の部分です。
この表現で、阿古さんが言いたかったことはなんだろう、と考えます。
産経新聞の報道によれば、この正論新風賞は“銀メダル”であって、金メダルもある。以下、阿古さんの受賞を報道する産経新聞からの抜粋です。
自由と民主主義のために闘う「正論路線」を発展させた言論活動に対して贈られるフジサンケイグループの第39回正論大賞に、麗澤大学客員教授で情報史学研究家の江崎道朗氏(61)が決まった。新進気鋭の言論人に贈られる第24回正論新風賞には、東京大学教授の阿古智子氏(52)が選ばれた。また、長年の言論活動によるわが国の世論形成に多大な貢献をしたことをたたえ、杏林大学名誉教授の田久保忠衛氏(90)に特別功労賞が贈られる。正論大賞に江崎道朗氏 新風賞は阿古智子氏 特別功労賞は田久保忠衛氏 – 産経ニュース (sankei.com)
今回の受賞は、阿古さんの「自由と民主主義のために闘う言論活動」、特に習近平主席が率いる中国北京政府による香港やウイグルや…の弾圧強化に阿古さんが立ち向かっていること、現代中国研究者としての豊富な経験と知識を背景としたまっすぐな習近平政権への批判を、賞をあげる側が評価したのだと、私は理解しています。
その点では、まったく至極まっとうな評価です。
問題は、賞を阿古さんに与えたフジサンケイグループが、「自由と民主主義を守る言論活動を擁護する組織なのか」がある。まずそれが一義的な問題です。そして、フジサンケイグループが擁護する言論活動は、かなり偏りを私は感じてきました。つまり、賞を出す側は、けして「自由と民主主義を守る側」ではない。むしろ、自由や民主主義を抑圧する側なのだということ。
たとえば「新しい教科書を育てる会」というような、戦後民主主義への批判を繰り広げる団体をフジサンケイグループは全力で応援した。つまり、戦後民主主義、それはフジサンケイグループが応援した人たちの価値観からすれば平和ボケで自虐主義だとされるもの、はフジサンケイグループにとっては守るべき「民主主義」ではない、ということだったと私は受け取ってきた。
金メダルである正論大賞の受賞者には、第1回(1985/昭和60年)渡辺昇一、第4回(1988年)曽野綾子……、自民党長期政権を支持した人たちの名が並んでいきます。さらに「新しい教科書をつくる会」系で私が知っている文化人として、上坂冬子(第9回)、西尾幹二(第10回)、石原慎太郎(第15回)、藤岡信勝(第21回)、櫻井よしこ(第26回)、渡辺利夫(第27回)…、お馴染みの人たちが勢ぞろいです。特別賞(特別賞は毎年受賞者が出るわけではない)を見ると、中曽根康弘(第28回)、李登輝(第35回)、安倍晋三(第38回)などなど。わかりやすいなぁという感じすら持ちます。こういう人たちが受ける賞であるのだ。私にはなじみのない人の名もありますけれども、きっと「そういう種類の人たちなのかなぁ」と思ったりしてしまうわけです(阿古さんの書く、ラベル貼りですけれど、キャッチできる範囲・情報がどうしたって限られる中で、ラベル貼りもそれなりの判断対処方法ではあるわけです)。
彼らは反共というような価値観で一致します。一方で、例えば元従軍慰安婦を支援する自由や民主主義を、フジサンケイグループは応援しません。在日外国人の権利拡大なども、応援しない。フェミニズムも嫌いらしい。応援しないどころか、圧倒的なパワーでもって、それらを弾圧すらする。日本万歳!というベクトルを取り続けるこの組織が語る「自由と民主主義のために闘う「正論路線」」とは、そういうものなのです。
新風賞の過去の受賞者を見ると。数年前の受賞者である竹田恒泰氏は、私にはトンデモない人カテゴリーに入る人だなぁ、選択的夫婦別姓制度への反対、嫡出子相続差別撤廃への反対等々…、あー嫌になっちゃう。
ふーん、今年正論大賞を受賞した江崎氏は、数年前には新風賞を受賞しています。つまり、将来阿古さんがこの正論大賞を受ける可能性もあるってことなんですねぇ。
阿古さんの生き方は、これらの賞の受賞者で私が嫌悪する人たちでもある石原慎太郎や安倍晋三の人生とは共鳴しないだろうと私は勝手に思う。なんか異種なものが同じテーブルにフジサンケイグループが称える受賞者として並ぶ、という印象から離れられない。阿古智子と安倍晋三は、ムクウェゲ医師とペギン首相と同じ構図だと、私は思う。
そして、阿古智子をよく知らない人たちからすれば、阿古さんも石原慎太郎も同じ穴のムジナに見えるのだろうということもわかる。そうレッテルを張られる?カテゴライズされることにも、阿古さんは自覚的である。そういうレッテル貼りは受けて立つと、彼女はキッと頭を上げている。
阿古さんへの正論新風賞の授与は、ノーベル平和賞のムクウェゲ氏、だというのは、私の勝手な思いです。
では、たとえば、ムクウェゲ氏に、ノベール平和賞の欺瞞を訴えて、その受賞を拒否せよと伝えるのか? それは違うだろうとも思う。だとすれば、阿古さんの受賞も放っておけばいいではないか。つべこべ言うないってことなのだろうか。そこで、なんか悩むのです。
つまり阿古さんの受賞を考えると、「自由と民主主義を守る」ことにエネルギーを注いでいる人が、「自由と民主主義を攻撃する」側から賞をもらうことをどう考えるか、という課題がどうしたって浮かび上がってくる。
フジサンケイグループが擁護する自由と民主主義が偏っていることは、阿古さんは知っていたはずです。そこまでお惚けなわけはない。
けれども、阿古さんがもっとも力を注ぐ、中国や香港(香港も、もはや中国と分けて記述する必要もないのだけれど)の仲間たちの自由と民主主義を守るという点で、フジサンケイグループとの共闘は意味がある。自由と民主主義をあんまりカテゴライズしてはダメだと、阿古さんは思っている。なによりも、主張する場が必要だと阿古さんは考えている。不正義を皆に伝えることが、大事だと。
たとえば、くれるモノはもらうとしても、授賞式は欠席するという選択肢が阿古さんにあったのか、なかったのか。その場合は、与える側の一方的なチョイス、というイメージを阿古さんは確保できたはずです。そういうエクスキューズはあってもいいと思う。大人げないけれど、与える側と、受ける側と、その持っている力はけして対等ではないのだから。
けれども、阿古さんは、それなりの華やかな衣装を身に纏い、ステージに上がってブロンズ像を贈与された。「ありがとうございます」と笑顔を見せた。
大人の対応です。むしろ、欠席という態度が、子どもっぽいカテゴライズなのだと阿古さんは考えたのだろうな。ムクウェゲ氏にとって、平和賞の授賞式に出席し、そのスピーチで紛争被害に遭っている女性たちの代弁をすることが大事だったのと、同じだ。
一方で、阿古さん自身が「演出された場でどう自分を表現していいか、正直わかりませんでした」と書いています。コンゴ西部で活動していたムクウェゲ氏にとって、ノーベル平和賞授賞式が開かれたノルウェーの首都オスロでの華やかな式典や晩餐会は、きっと彼には馴染みのない欧州貴族文化の匂い香るもので、ムクウェゲ氏にとってはやはり戸惑うことばかりだったのではないだろうか?やっぱり、ムクウェゲ氏と阿古さんが重なるのです。
だって阿古さん、こてこての庶民派、田舎っぺだものなぁ。
でも、そう、阿古さんは主催者と一緒にダンスは踊ってしまったわけだよね。禁断のリンゴをかじった、ってほどのことでもないのか、あるのか??
不管黑猫白猫,能捉到老鼠就是好猫
中国の鄧小平が言ったとされる印象的な言葉のひとつに「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ」があります。インターネットを調べてみると、この言葉はもともとは四川のほうにそういう諺があるのだそうで、鄧小平がこの言葉を最初に使ったのは1960年代だそうです(諺では黄色い猫になっているとか、Wikipedia日本語版に載っていました 黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ – Wikipedia)。
カンボジアでの大虐殺政権であるポルポト政権(1975~1979)は中国・毛沢東による文化大革命への親和性が高かったと言われます。実際、そういう面はあったと私も思う。そのポルポト政権を鄧小平は嫌っていたという話を何かで読んだことがあります(出典示せず、調べる手間を省いてゴメンナサイ)。ポルポト派(クメールルージュ)がプノンペンを“解放”し政権を奪取した1975年には、中国ではすでに文化大革命は終わっていて、翻って文化大革命批判が巻き起こっていました。文化大革命での権力闘争の中でひどい目にあっていた鄧小平は、すでに1973年に党中央に復帰しています。
そして、1970年代後半から80年代にかけて中国北京政府はポルポト派を擁護する。その際にも鄧小平はこの「黒猫白猫論」をポルポト派を擁護する理屈の中で用いた(私の思い違いかもしれません)。つまり、敵の敵は味方。大事なのは利を得ること。ポルポト政権は嫌いだけれど、当時の世界情勢への判断から中国・鄧小平はポルポト政権を支援し続けたわけです。
この視点に立ったとき、さて、阿古さんの正論新風賞受賞に際して「黒猫白猫」理論に立っているのは、賞を与えるフジサンケイ側なのか、あるいは阿古さん側なのか? どちらでも論をたてることは可能でしょう。
フジサンケイ側に立てば、攻撃目標である習近平北京政府を批判する阿古さんは、良い猫です。飼い猫として、大事にしますよ、と賞をあげた。正論賞では右寄りばりばりの受賞者ばかりではないという、エクスキューズ効果(ノーベル平和賞のムクウェゲ氏効果)としても、阿古さんは利用価値があった。
一方で阿古さんの側からすれば、「使えるモノはすべて使おう」ということ(もちろんこれは私村山の勝手な推測です!)。彼女にとって「正論新風賞」は、特に悪い猫ではない、悪い猫でないのならば、それは良い猫。くれるモノはもらい、他に役立てる。授賞式も楽しんじゃえ。そして、言いたいことを言う。この機会に、普段会えない親しい人とも親交を温めたようだし。受賞者として新しく開かれるページでも、阿古さんは表現したいことを主張し、言い続けるだけ。阿古さん自身はぶれることはない。
実際に、阿古さんは新風賞でもらった50万円を、そのままそっくり「香港の友人たちと運営している奨学金事業に寄付」しています。この50万円で、海外へ出ることのできる香港の若者がいる(50万円じゃ、ひとり分にも足りないとしても。もっと出せばいいのにフジサンケイ!)。いいじゃないですか!
でもね、どんなに「利用されることに自覚的」であったとしても、人は慣れる。酔う。個人は小さい。どうしたって。そして、義理は生まれる、義理人情は実は阿古さんのような誠実な人ほど、なかなか扱いがやっかいなはずです。お世話になったら、そりゃ、遠慮も生まれる。遠慮が生まれれば、言論の自由には影が差す。
私が師と勝手に仰ぐ本多勝一(新聞記者/ジャーナリスト)も、どこにでも書くと言った。そして、あえてその媒体にとってキツイことを選択的に書くというような戦法も取った(その結果、書く場が減ってしまったわけですけれど)。阿古さんに、そういう戦法はなかなかとれないのじゃないのか? フジサンケイが蓋をしたいタイプの自由・民主主義を、フジサンケイの場で擁護できるか? 擁護したくとも、ついつい筆は鈍らないか?
むしろぶれないのは、賞を出すあっち側。あっちは個人じゃないから。集団的で、鵺のような存在。経験も超豊富だし、戦略・人材も多種用意されている。あちらからすれば、阿古さんに限らず、個人の存在など手のひらでころころ転がすようなもの。個人でそれに対し御していくのは、どだい無理だし、そんなことにエネルギーを消費していたら、もっと大事なことがおろそかになってしまう、それは避けたい。
結局、流れに任せることになる。そして、阿古さんは、やっぱりそういう大きなパワーが作り出す流れに乗り続けることを選択した。阿古さんは、それを自分でコントロールするつもりでいる。
コントロールしているつもりで、コントロールされてしまわないか。というのは杞憂か。杞憂であることを、祈る。応援しています。自由と民主主義の意味も、(まったく同じってことはないにせよ)共有し続けていると感じている。
それでも、阿古さんを誰かと「同じ穴のムジナ」と思われるのはなんか癪なんだよねぇ。皆さん、阿古さんのこと、誤解しないで欲しいよ。阿古さんは以下のようにも語っています。
私は民主主義や言論の自由を守る役割を果たしてこそ、知識人だと思うのです。中国や香港の人権問題について仲間とともに日本の政治家に訴える活動をしているのも、このためです。日本社会の民主や自由の価値を守り、広げていくために、研究し、行動する。両方そろって、私です。研究と行動で守るもの 阿古智子さんがつくった中国民主派の集う家:朝日新聞デジタル (asahi.com)聞き手 編集委員・吉岡桂子2023年3月28日
阿古さんを理解するのに、以下の記事もよいです。ぜひ読んで見てください(有料記事かな?そうならゴメン)阿古さんは中国が、中国の人たちが、大好きなんですよ。そこはぜひ、皆様、見誤らないで欲しい。
「ひとごとではない」 中国や香港での民主派弾圧 東大教授の警鐘:朝日新聞デジタル (asahi.com)
あとがき
今回の投稿は迷いました。
ブログも公共の場での表現です。そして、その公共の場で、私は阿古智子を朋友と呼んで応援する投稿をしたことがある。だからこそ、私には阿古さんの今回の正論新風賞受賞に関して、何かを表現する“責任”(のようなもの)があるように思ったのです。
忙しい阿古さんの邪魔をすることにならないか?とも危惧します。もし彼女が「後ろから撃たれた」ような気分になったとすれば、それは邪魔したことになる。
でも、彼女も言論人としての覚悟はあるとも信じます。後ろから撃つものなのかどうかは、彼女自身に判断してもらうしかない。
事前に阿古さん本人にちょっと意見を聞くとか、書いたことを見せてコメントもらうとか、そういうことをしたほうがいいかなぁ、とも思いました。旧友なんだから(名古屋大学大学院国際開発研究科で机を並べてから、すでに30年が経とうとしています)。
けれども、すでに著名人として阿古さんは《権力》を有する人でもある。そういう力を持つ人に「事前にコメントをもらう」遠慮などいらないだろうとも思う。それは辿って行けば検閲につながる道だろうと。そんな道につながる配慮など、阿古さんにはむしろ失礼に当たる。
つまり、私も揺れています。友だちとしての阿古さん、著名文化人としての阿古智子、それにどう向き合えばよいのか。しょっちゅう連絡を取り合っている仲ではない。だったら、これも事前に連絡ないまま、掲載してしまおう。掲載したよ、読んでみてと伝えればいいじゃないかと思っています。
この記事を投稿したら、阿古さんにメッセージしようと思っています。さて、阿古さんは楽しくこれを読んでくれるだろうか?
阿古さん。使えるモノはなんでも使う。その意気や良し。でもね、使えるモノはなんでも使っていると、自分が消えていったりすることあると思う。そこだけは気をつけて欲しいです。どうやっても、悔いと反省が残らないってことはない。悩みながら、限られた時間の中で選択して進むしかない。やばい失敗したと思ったら、そこで立ち止まればいい。やり直せばいい。取り返しのつかないことなど、この世には実はそれほどはない。
一方でね。私は、阿古さんに正論大賞は取らないでほしいなぁなんて、勝手に思っちゃうのです。阿古さんの名前と、石原慎太郎や安倍晋三の名前が並ぶのは、なんか笑っちゃうのですよ。無理筋。大阪人として人を笑かすのは大好きだとしても、そこは勘弁してほしいのだけれどなぁ。それに、10年後に阿古さんが正論大賞を取るってことは、阿古さんにとっては中国に行けない状況が続いているってことなんじゃないかな。そうではない未来があるといいなぁと思っています。早く、あなたが中国本土で好きな研究が続けられるようになりますように(それが実現したら、きっと正論大賞はないんじゃないかなぁ?)さて、さて??? どうなりますか? そして人生は続くよ。
4月30日追記、以下のコメント欄もぜひご覧くださいませ。阿古さんからのコメントも紹介しています。


















ブログを書いている本人の村山哲也です。
Facebookのほうに、阿古さんが以下のコメントをくれました。
備忘録として、ここにコピーします。
私も、「意見・価値観の違う人にどう届けるか?」ということはよく考えます。例えばガザの問題にしても、イスラエルの攻撃を「自国を守るためには仕方ない」と考える人はいる。安部元首相が訴えた価値観に共鳴する人もいる。石原慎太郎のようなオジサンはたーくさんいる。
おそらくこのブログの読者の多くは、私と価値観が近い人だろうと想像するのです。そして、本当は価値観の遠い人、安部さんを応援した人や石原慎太郎さんのようなオジサンたち、にこそにとどけなければいけないのだけれど…と思う。でも、それがなかなか難しい。
その点で、阿古さんの全方位外交?はとても戦略的です。心労は多いだろうと想像するけれど、彼女だからできるという面はやっぱりある。彼女はそれを狙って今の立ち位置にたどりついているわけではないと想像するけれど、流れの中でつかんだその《パワー》をどう使うかについては、彼女はきっとなやみつつ選択している。そりゃそうだよね。そして、彼女の域になかなか達せないのだよねぇ、私には。ま、そりゃ仕方ない。彼女の力を私も借りて、アンテナを広げよう。その点では、彼女の戦略から私が新しく知ること、けっこうあるんですよ。たとえば、今回の賞のことだって、なるほど~こんな風になっているんだぁとか、いろいろ面白い。阿古さんのおかげで知ることができたわけです。ラッキーじゃん。
で、さて、俺ももうちょいガンバってやらなくちゃなぁ。
以下、阿古さんからのコメント全文。
読ませてもらいました。自分がなくならないように、勝手にラベルをはられないようにと思って日々前を向いています。これまで受賞した人たちと並べられて、「あの人たち」と同じ、と見る人もいるでしょうが、「あの人たち」とはいったいどういうグループの人たち?自分とどこが違うのか。自分とは違うところ、それぞれ皆あると思います。どのような人と時間をともにし、コミュニケーションをはかっていくか。両極に分断されてしまった言論空間をより複雑に、多様にしていきたい。自分のコンフォートゾーンから出てコミュニケーションしようとする人たちが増えてくれたら。。。自分の役割はなにか日々悩みながら、できることをやろうと考えています。村山さんが書いてくれたように、私がこの賞をもらうことで、議論の材料が増えていけばいいなと思います。
今回の受賞について抱いていた違和感を明らかにして頂きありがとうございます。直接阿古さんと接する中で常に感じるのは、根の張った強さと私利私欲の希薄さです。これらの武器があれば少々の事では揺らぐ事も折れる事も無いでしょう。村山さんを始めとする、阿古さんの正体を知る応援団が裏切られる事も決して無いでしょう。一応援団員より
匿名様
読んでいただき、またメッセージも、どうもありがとうございます。
「根の張った強さと私利私欲の希薄さ」、本当にそうですね。
彼女には、次の10年、ぜひ時間に余裕を作ってよりご自身の研究の時間に使って欲しいなぁとは思うのです。けれど、世の中が社会がそれを彼女に許さない。
阿古さんにはぜひ心身を大切に、長生きして、ますます良い仕事をしてほしいと願うところです。そして、今回の賞をどう生かすのか? フジサンケイグループが自由と民主主義に牙をむいたときに、それを指摘できるか。「自由と民主主義を守る」ことにふさわしくない正論賞の受賞者が出たときに、何かを語れるか? 彼女によっては余計なお世話ではあるかもしれないけれど、言論人として、受賞者として、阿古さんはそういう立場にもなってしまってもいる。別に、すべての判断が「応援する側」の期待通りでなくていいはずでもある。それをまた個々人がどう判断し評価するか。こっちの器量も試される。
いやいや、お互いなかなか大変だぁ、さてさてどうなる?? って感じています。 村山哲也