メールで本ブログを受け取っておられる方々。ぜひ、タイトルをクリックしてブログの本サイトに飛んで読んでくださいませ。冒頭の写真も見られます。
2021年4月から2年間、全国脊髄損傷者連合会が発行する会報誌「脊損ニュース」が『世界は開いているから仕方がない』というタイトルで私が書いた連載を掲載していました(当ブログの2023年3月での投稿で読めます)。
そして、さらに2023年4月から2年間『続・世界は開いているから仕方がない』として連載は続きました。その連載24回がこの度終了しましたので、ブログで3回分ずつ掲載します。今回は2024年1月からの3回分です。
立岩真也先生の訃報に驚き混乱したままの記事が続いた後、少し落ち着いて書き進めた連載となっています。2月の記事は、2023年9月に続くものです。4ヵ月時間が空いてしまいました。お許しくださいませ。
1月/第10回 立岩真也さんの訃報から始まったここ数か月の最後に・・・障害、その味わい深きこと
明けましておめでとうございます。今年も皆様にとって良い年になりますように。
さて、当連載、過去3回にわたって昨年7月に急逝された立岩真也さん(立命館大学教授)のことを中心に書いてきました。
立命館大学には生存学研究所という場があります。「生存学」って、まだあまり広がっていない言葉ですよね。この生存学研究所のホームページによれば、生存学というのは「障老病異」が基軸になる学問とのことです。
この脊損ニュースを読んでおられる方々には、中途「障」害に加え、「老」いていくことを身近に感じておられる方もおられるはず。また、車イスを使っての生活は、多数者からすれば「異」なる存在であったりもする。つまり、生存学があつかう「障老病異」は、脊損者にとってはかなり身近なテーマです。
中途障害者の多くは、健常者でした。脊損の場合、健常者から障害者への越境は、あっという間の出来事だったはずです。突然、健常者ではなくなった。それが何を意味するか、心身とも学ぶ時間もないまま、突然に。
その事実をどう受け止めたにせよ、未だに受け止められないにせよ、さらに脊損者の周りの人たちにとっても、その脊損との出会いによって大きな変化のあった人生であるはず。
それは、それまでになかった「社会性」へのドアが開いたときでもあったのではないかしら。
それまで当たり前であったことが、当たり前でなくなる。5センチメートルの段差が現れる。多少隙間があっても車イスでは乗り込めないエレベーターを見送る。指で簡単に叩いていた携帯の画面を口にくわえたペンで慎重に叩く。縁のなかった社会福祉の窓口を訪ね、様々な交渉ごとに挑む(挑むのが、脊損者本人であれ家族であれ)。
そんなことが、どうしたってこれまで以上に「社会性」をあなたに持たせてしまう。
人によっては、やがてその「社会性」を育て始めたりする。そのきっかけは、疑問や怒りや悲しみかもしれない。でも、あきらめたりするよりは、ずっといいじゃない。
その育て方にもいろいろある。そして、立岩さんが作ろうとしたのも、育ちの場のようなものだったろうと思う。生存学ってのも、そういう育ち学びの機会の場なのだと想像するのです。
育ち学びの機会ということで似ているものに、「当事者研究」という方法があります(って、書いていて私もしっかり理解しきれていなかったりもするのだけれど、まぁ、ゆるしてもらって続けると)。当事者研究は、社会の中でメンタル系の辛さを抱えた周縁者の人たちから始まったものです(興味ある方は、“べてるの家”で検索してみてください)。社会の周縁者(つまり少数者・弱者)が、自らの理解を通し他者への受け入れの機会を求め、そのことで自らの“回復”を目指す。そんな方法が、当事者研究であるらしい。障害仲間として、そこから学ぶことは多いと予感するのです。
とにかく、たまたま出会ってしまった障害のおかげで、それまで知らなかった世界が開く。そんなこともあるのです。障害ってのは、なかなか味わい深いものではないですか。
写真:しもばしらの華

2月/第11回 寄り添うことについて 2 : エンパシー(共感)
連載第6回(9月号)のタイトルは「寄り添うことについて1:あきらめるとエンパシー」でした。その後、立岩真也さんの訃報に触れ、彼の言葉や思いを紹介する回が続きました。
で、改めて、寄り添うことについてです。
この記事を書いているとき(昨年12月中旬)、イスラエルによるガザでの大量殺人が続いています。「国際社会での話し合いや声明はいらない。具体的に戦闘を止めて欲しい」というガザ住民の声は、以前に書いた「同情するなら金をくれ」に重なります。役に立つ支援を、ってこと。
パレスチナとイスラエル。その住民同士には、同情すら簡単には発生しない状況になっている。
これまで両方の若者たちを集めて合同オーケストラで演奏したり、一緒に合宿生活を過ごしたり、そういう融和の取り組みはいくつもあった。立場の違いを超えて相手を思いやるにはどうすべきかを問われた合同オーケストラの主催者(ボレンハイムという有名な音楽家、彼はイスラエル国籍ユダヤ人)は、「敵対する相手に同情(シンパシー)することはできない。でも、相手がなぜ悲しんでいるのかを理解し共感(エンパシ―)することはできるはずだ」と答えています。
あら、ここで同情(シンパシー)と共感(エンパシー)が登場しています。
つまり、理解しエンパシー(共感)するには、知り合わなくちゃダメなのかな。だから合同オーケストラや、キャンプ活動などを実施する。出会い、語り、そりゃすべてに同意することはできなくとも、互いにちょっと理解する。
知り合わないと、エンパシー(共感)は難しい。やっぱりそういうことなのかな。
中途障害(脊損)を得て。驚く。落胆する。孤立する。これは脊損者本人に限りません。その脊損者に近しい人も同じ。
むしろ、近しい人のほうが大変かもしれない。だって、脊損者は自分のことだけにかまっていればいいけれど、身近な人たちは、その脊損者を支援し(さらに気をつかい)、でもやっぱり驚き、落胆し、孤立する、のでしょうから。
第6回に「あきらめる、って悪くない」って書きました。でもそれは孤立したままじゃ無理。どこかで寄り添い人が必要で、寄り添うってくらいだから、きっと「知り合い」です。だから同情(シンパシー)を超えた共感(エンパシー)を期待しちゃうし、期待してよいのかも(?)。
では、その寄り添い人である身近な人の落胆や孤立は誰がケアする? 脊損を得た本人よりも、むしろその両親が落胆しちゃって。その両親の落胆が、脊損者本人の再生の足を引っ張る、なんてこともあると聞くのです。いわゆる障害の受容を障害者本人はできても、むしろ周辺ができない。
その場合、障害者自身が彼らにエンパシーを発揮するなんてこと、ないかしら。それは「ゴメン」や「スイマセン」じゃない。謝ることはないよ。でも、ならどんな言葉がはまるのだろう。
「頼みます」とか「よろしく」とかかなぁ。「アリガトウ」かなぁ。やっぱり「ゴメン」から始まるのかもなぁ。脊損者本人のあきらめと、寄り添い人のあきらめと、どこかでバランスがとれるとよいのだけれど。
写真:フクジュソウの花

3月/第12回 寄り添うことについて 3 : エンパシー(共感)の輪を動かす
「一人で抗するのは難しい。だが障害を“克服”し才能を開花させたスターの存在は役に立たない。自らと同じ場にいる人達の支援が必要だ」(立岩真也語録より)
障害を得た際、私自身を振り返っても大事なのは情報です。そして、その情報は “それが起こる”まではまったくご縁がなかったもの。
事前に勉強したり準備したりするなんて無理です。あぁ、老化だけはちょっとだけ例外かもしれません。みんな、必ずそこへ向かっている。けれどもその老化さえ、やっぱり“なってみないとわからない”(84歳の私の母の言葉です)。
私は術後に都内のリハビリ専門病院に入ったのです。そこに見舞いに来てくれた高校野球部の先輩が「村山くん、ここにいてはいけない。脊髄損傷専門のリハビリを受けられるところに早く移りなさい」と言ってくれた。彼は医者でした。
そして移った埼玉県所沢の国立リハビリテーション病院、通称国リハ、での指導は、それまでとは大きく違いました。そして多くの情報もそこに集ってくる。情報があれば取捨選択ができる。
これを読んでいる皆様にとっては、「今更そんなこと言われても」ですね。そうだったらゴメン。でも、今からでも遅くないと思うのです。特に介護について。ケアマネさんや役所の窓口の担当者が知らないことが実はけっこうあるように思うのです。それは仕方がない面もあります。
ケアマネさんもすべての法令を勉強しきれるわけもない。どうしたってそれまで出会った人たちとの経験上の知識が中心になる。役所では数年ごとの移動で、職員さんはたまたま今は福祉部門に配属されている。それは普通にあることです。それを怒ってみても仕方がないです。
ならどうするか。自分でイチから勉強するなんて無理でございます。経験者に聞くのが一番!たとえば全国脊髄損傷者連合会ってのがある。これも、皆様には釈迦に説法でありましたね(この会報誌を読まれているのですから!)
とにかく。恥ずかしいとか、気後れするとか、そこをなんとか突破してどんどん人に聞くは大事でしょう。押しかけででも、聞く。脊損者に限らず、車イス者の仲間ならなんでも聞いてみる。思い切って、まず電話、メール。
例えば、私の車イスの背もたれと座面の角度は100度です。通常の車イスは80~90度。80度というちょい前傾が手動車いすをこぎやすい。でも、私はいろいろ試して100度。通常の80度では身体が前に倒れてしまうのです。製品によってこの角度調整できるもの、できないもの、両方あります。私はワガママ言ったけれど、車イス業者さんが丁寧に対応してくれた。皆さんの車イスはどうでしょう?次回、車イスを新調あるいはレンタルするときは、ちょっと考えてみてもいいかも。
脊損のような中途障害者はとつぜん障害世界に投げ込まれる。健常者世界では経験豊富な大人でも、障害世界じゃ赤ん坊です。赤ん坊は遠慮しませんよ。しなくていい。してはダメ。
エンパシー(共感)の輪は待っていても回りださない。窓を開くのは当事者(あるいはその代理のご家族か)からが素敵です。当事者(あるいはその家族)が閉じていてはアカンと思います。
写真:フキノトウ



















コメント、いただけたらとても嬉しいです