昨年12月10日の投稿で、「死んだほうがまし」について書きました。そのときに、西智弘著『だから、もう眠らせてほしい -安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語』(晶文社 2020年7月)に触れて、「安楽死制度を整えながら、安楽死を選ぶ人をなくしていく」という緩和ケア医療者である西さんの思いを紹介しました。その後、何人かの方から、尊厳死・安楽死について直接にコメントをいただきました。コメントをくれた方、ありがとうございます。ぼくも、この件は、まだ書き足りないと思っていたのでした。ということで、続編であります。
父の手術
この投稿を書いている今日(投稿日の数日前になります)、ぼくの85歳になる父が、入院先の病院で開腹手術を受けた。父は長いこと健康診断を受けていなかった。退職した後、多分、一度も受けていないのだと思う。そして、昨年、具合が悪くなった。数ヶ月で20キロぐらい痩せた。食べないんだ。本人に訊ねると、排便の調子が悪く、食べたくないのだと言う。どうやら胃も痛いらしい。
一緒に暮らしている母を始め、ぼくや二人の妹が病院に行って診察を受けることを勧めても、ダメだった。父は自分で整腸剤や便秘薬を飲んで耐え忍んでいた。
けれども、正月を過ぎて、いよいよ限界がきた。激しい腹痛があった翌日、上の妹夫婦も一緒に、まず近所の病院に出向いた。そこでは、すぐに地域の大きな総合病院で検査を受けるように指示され、医師が自ら総合病院に連絡をとり、その午後の予約を取ってくれた。
午後に訪ねた総合病院で診察を受けた結果、そのまますぐに検査入院となった。この新型コロナ禍だから、入院してしまえば面会は許されない。自分の携帯電話も持っていない父のために、翌日妹と母が新しい携帯電話を購入し、病院に届けた。
胃カメラや大腸カメラによる検査を受けた結果、癌がいくつか見つかった。大腸の癌が腸内を塞いでいたから、父はモノが食べられなくなっていたんだ。胃にも癌が見つかった。肝臓やリンパ管にもあるらしい。手術の一週間ほど前、父と母、そして妹が医師からの説明を受けた。
「若い方なら、絶対に開腹手術を勧めるんですが」と言って医師は続けたそうだ。「ご高齢なので、リスクも高い。こちらから強く開腹手術を勧めることはできないのです」。どうされますか?と尋ねられて、父は「もう少し生きていたい。開腹手術をして元気になる可能性があるなら、お願いします」と答えた。
父と母のあいだでは、もしものときは積極的な“延命措置”は受けずにいたい、という互いの意思確認が以前からあったそうだ。だから母は「手術を受ける」という父の選択に驚いたとそうだ。放っておけば、大腸の通り道はどんどん狭くなるばかりだから、食事はできない。点滴で栄養を入れるならば、退院だってむずかしい。今年の桜がみられるかどうかという寿命だという。
手術を受けて術後の腹膜炎などの危険性を乗り切れば、少なくとも食事はとれるようになる可能性がある。また、うまく行けば、あと数年は生きられる可能性がある。なぜか、父はその可能性に興味を持ったらしいんだ。
今日の手術は、6時間ほどかかった。開腹してみて、臓器の癒着などがひどく手術がむずかしければ、そのまま何もしないで閉じる可能性もあると聞いていたので、とにかく医師たちはチャレンジしてくれたんだってことは分かった。そして、胃は全摘、すい臓の一部と大腸の一部を切除。S字結腸にも腫瘍があったけれど、人工肛門の負担を考えた結果、それは残したそうだ。肝臓とリンパ腺の癌も、手をつけなかった。さて、これからどうなるか。
まずはここ数日は、彼の術後の容態を静かに見守ることになる。
前言撤回
ながながと、身内の話を書いてしまった。
ここで触れたかったのは「父の心変わり」のことだ。もし父が意識を失って病院に担ぎ込まれるような状況であれば、母は、父が延命措置を望んでいなかったことを医師に伝え、医師はその情報をもとに対応しただろう。
あるいは、以前に父が「延命治療に関する意思確認書」のようなもの、つまりリビングウィル(生前の意思)に関する書類を残していたとする。面接の際、医師がその紙をもとに「延命措置を取りたくない意思をお持ちですね」と確認したときに、父はあえて自分の心変わりを伝えなかった可能性もあったと思う。自筆でサインまでした書類を示されて、その意思を撤回するのは多少のエネルギーが必要だろう。生命の瀬戸際で、そのエネルギーを振り絞って、「いや、やっぱり手術を……」というのは、簡単じゃないように想像する。カッコワルイ、なんて気持ちが働く人も少なくないんじゃないかな。
手術の前夜(つまりこれを書いている段階での昨夜)、ぼくは父と電話で話した。そのときに、父がこう言った。
「ぼくが手術を受けるっ決めた後ね、おかあさんは一度もぼくに、前に言ってたことと違うじゃない、ってことは言わなかったんだよなぁ」
父なりに、前言撤回したことを気にしていたんだ。父の言葉の後には、父の前言撤回を母が一言も指摘しなかったことへの感謝があった。
「いい奥さんで、よかったじゃないですか!」
ぼくの返事に、父はへへへと小さく笑ってた。彼の人生に、少しばかりのオマケがついてくれるといいなぁ、と、無神論者のぼくは、でも祈っている。
生きていてもしょうがない、
尊厳死・安楽死を認めて欲しい、という声
フェースブックの中には、いくつか障害者が集まるグループがある。ぼくもいくつかのグループに登録している。
そんなグループへの投稿の中には、「生きていてもしょうがない」「死んでしまいたい」というセンテンスがときどき現れる。中には「尊厳死・安楽死を認めて欲しい」と書く人もいる(ここでは安楽死と尊厳死の違いは触れません。12月10日の投稿では両者の違いを書いています)。
その理由はいろいろだ。激しい痛み、眠れぬ日々、鬱、働きたいのに働けない、家族に迷惑ばかりかけている、職場で激しく叱責された、明日への絶望……。
もちろん、「死にたい」と書いた人が、100%そう思っているわけじゃないと思う。「尊厳死・安楽死の法整備を進めて欲しい」と願っている人が、法整備後、必ずしもその制度を使うわけではないはずだ。
障害者に限らず、人の気持ちが「死」に傾くことは多くの人にあるだろう。落ち込むことは、人生、まず確実に起こる。
未来に絶望する気持ちに陥る経験があって、死という言葉が思い浮かんで、でも今も生きてる、って人は少なくはない。ある記事で、「自殺を試みて、でも助かってしまった人が、再度自殺を試みることは多くない」ということを読んだことがある。うん、人ってそういうものなんじゃないかな、って思う。
そして、どっちにしたって、死はやってくる。早かれ遅かれだ。無理に慌てなくてもいいんじゃないのかな。もちろん、痛いのはやだから、薬はうまく効いてくれるといい。昏睡状態なら、本人に苦痛がないなら、そこでも無理に死に追いやらなくていいんじゃないかな。と、ぼくは思うことが多い。
けれども、冒頭に紹介した昨年12月10日の投稿の中でも書いたけれど、ぼくは「自殺はダメ!絶対ダメ!」って言い切れない。以前の投稿では、同級生が自殺を選んだことを畑正憲(ムツゴロウさん)が書いている文章を紹介した。その文章の終わりはこうだ。
死ぬべくして死に、それでよかったのだと思う。
(畑正憲 『ムツゴロウの青春記』文春文庫 1975、189~191ページ)
うん、残された人が亡くなった人を指して、そう書くことがあることもわかる気がする。そういうことってある。でもそれは亡くなった後の話だ。
最近出た拙著『超えてみようよ!境界線』の中に、ぼくはこんなことを書いている。
もしあなたのこれからの人生で怪我や病気で障害を持ってしまったら、そのときに気持ちが落ち込んでしまうのはもっともなことだと思う。もしかしたら、それは〝絶望〟という種類の気持ちかもしれない。「生きているよりも、死んだほうがましだ」とあなたが思ったとしても、不思議はない。
耐え難い苦痛を抱えてまでして、生きている必要はあるのだろうか。耐え難いと感じる苦痛も、人によって千差万別だ。身体的な苦痛、精神的な苦痛、なにが苦しいのかを他者に理解してもらうことは難しい。そうであれば、苦痛を抱える人は、ますます孤独だ。
ぼくは、ここであなたに「死なないでみて」と伝えたいけれど、そんな言葉がよけいあなたを苦しめることになることを想像すると、迷う。まずは「死にたい」と思ってもいいし、言ってもいいよ、から始めるしかないんだろうと思う。実際、多くの人はそこから始めてきたんだ。
(拙著『超えてみようよ!境界線』かもがわ出版 122~123ページ、本の詳細は以下を見てくださいませ)
簡単には賛成できない、つまりぼくは慎重派です
12月10日の投稿では、緩和ケア医療者である西智弘さんの著作を紹介し、彼の「安楽死制度を整えながら、安楽死を選ぶ人をなくしていく」という思いについて書いた。
《患者にとって安楽死という選択肢が提示されることで、本人や家族にとって「より悲惨な状況を生む自殺」の防止になる》という彼の指摘は、なるほどそうか、とも思う。自殺されるぐらいなら、安楽死・尊厳死のほうがまだいいのか、って。ハッとする。
一方でね、安楽死・尊厳死の世界各国の動向を読んでみたりすると、臓器移植ビジネスが絡んできたりすることがわかる。安楽死・尊厳死の拡大は、つまり“新鮮”な臓器の安定的な供給につながるんだ。臓器提供を受けて助かる人がいるという面を見れば、それは「良いこと」かもしれない。でも供給確保の必要性が高まったとき、何が起こるだろう?そう考えると、油断はならない気が、ぼくはどうしてもする。「儲ける」ことが是とされている世界で、ときどき暴走するメカニズムはある。特に、善意は怖い。暴走しやすい。「人を助けるため」という枕詞がくっつくときの善意は、怖いよ。
あなたの大切な生命(あなたのものとは限らない)が、自己決定という一見良さげなプロセスを経て失われることを想像してみて欲しい。もちろん、ぼくらは他者の意思を尊重することに価値を見出している。でも、自己決定って、本当にそうなの?
人は外部からの圧力からまったく自由に自己決定なんかできないんじゃないかな。外部からの圧力って、こんなコロナ禍のご時世なら、その存在が見えやすいよね。だからさ、尊厳死・安楽死、慎重にも慎重な検討が必要だと、ぼくは思ってる。
簡単には、賛成できない。

















最後の言葉に鋭く反応。
「人を助けるため」という枕詞がくっつくときの善意は、怖いよ。
これは全く賛成です。カンボジアへ来るまで障害児教育に関わり、今、カンボジアの障害児教育、理科教育への支援を行っていますと、「いやっ」というほど聞かされ、聞いている言葉です。
でも、これって、善意じゃないですよね。ただの自己満足。自己満足を押し売りされても、結局のところ、迷惑に過ぎません。
今のカンボジアの障害児教育、理科教育への支援だって、人助けになるかもしれないけど、こっちは好きでやっているんだから!!
間々田和彦様
いつも読んでいただき、またコメントも書いてくださり、ありがとうございます!
以前「同情するなら金をくれ!」というフレーズが流行りましたよね。
でも、ぼくは「同情する」って、とっても大事な感情だと思っているんです。
その点から「人を助けるため」って思いも、とても尊いものだと思うんです。
でも、ってことなんですよね。
でも、そこにはやはり気をつけなくちゃいけないことがある、って思ってもいる。
以前書いた、強者として発言であることに自覚的でいたい、ってこととつながるわけですけれど。
そう、自分のやりたいこと、充実を得ることのひとつが「人助け」(と簡単にくくるのは問題があるかもしれないけれど)、「他者の役に経つこと」なんだってことなんだよねぇ。
それはわがままで、自己チュウで、不遜で、偉そうで、という文脈の中にあるってことは忘れないように。
村山哲也