サハラ砂漠南縁をバスで東に向かう 1992年末 ニジェール

ニジェールの首都ニアメイからバスで西に向かった経路が赤線です。

 1992年12月、2年間のケニアでのボランティア活動(青年海外協力隊)の任期を終了したぼくは、日本に戻る前に西アフリカにあるニジェールを旅した。ケニアから日本に戻る前に、どうしてもサハラ砂漠を見ておきたかった。

 ニジェールは西アフリカ内陸部、サハラ砂漠を起点にすればその中央南側に位置する。ぼくが旅したニジェール南部を含むサハラ砂漠の南縁はサヘルと呼ばれる半乾燥灌木地帯で、雨季には数百ミリ程度の降水量があり、そのときだけわずかばかりの耕作が可能になる。それでも気まぐれな降水量の変化と、確かな人口の増加で、砂漠化がもっとも激しく旱魃が起こりやすい地域だ。

 ぼくが旅をしたのは乾季だった。首都ニアメイから国道を東に向かう長距離バスに乗る(上記地図で赤線で示したラインだ)。マラディ、ザンディール、ディファという町を通り過ぎながら、東に向かえば向かうほど景色は砂にまみれていった。

 何もない道端にバスが突然停まる。するとバスの運転手が外へ出て地面に小さなマットをひとつ敷くと、その上でお祈りを始めた。バスの乗客もそれに続く。日没時のメッカへの祈祷。ムスリムでないぼくは祈りには加わらず、バスが作る長い影のわきで脚を伸ばして、真剣に祈る人たちを眺めた。

 やがてバスは再び走り始める。「どこから来たんだ?」と、片言の英語を話す男性がぼくに話しかける。「ケニアから」と答える。「こいつはケニアというところから来たといっている」と男性がまわりの他の乗客に説明してくれる。「ところで、ケニアはどこにあるんだ?」「ずっと東の方のアフリカ」と説明しながら、彼らがケニアを知らないことに、アフリカは広いことを痛感する。出身はどこだ?日本?「ホンダ!」「ヤマハ!」「トヨタ!」「アジノモト!」「ソニーもか?」と声が上がる。「見ろ、これはソニーのラジオだ!」と鞄から出してくれたラジオには〝SONY〟ではなく〝SANY〟とロゴが貼られていた。

 「ところで、日本は中国のどの辺りにあるんだ?」そうだよなぁ、ニジェールの場所を正確に語れる日本の人も多くはないだろう、日本が中国の一部と彼らが思うのももっともだ。身振り手振り、ノートを取り出して地図を書いてみせる、そんなやり取りが楽しい。

 とっぷりと日が暮れたころ、バスは小さな町に入る。ちょっとしたオアシスのようなところ。バスを降りると、裸電球に照らされた屋台にサラダ菜が山盛りになっている。結球しないレタスだ。客が注文すると、銀色の金属ボールにオリーブオイル、酢、塩を手早く混ぜ合わせたところにサラダ菜をひとつかみ投げ込み、タマネギとトマトをざく切りして加えて、最後に大きくかき混ぜると皿に入れて出してくれる。「生野菜は寄生虫の卵がついているから、気をつけるように」という忠告を人からもらっていたけれど、乾燥地帯を旅してきて、この生野菜サラダはあまりに魅力的だ。我慢できずに、一皿注文する。パリパリした葉に、トマトの甘味とタマネギの辛味、そこにドレッシングがからんで猛烈に食欲をそそる。口の周りを油でギトギトにしながら、むさぼるように食べた。

 暗闇の中をまっすぐに伸びる道を、バスはゴトゴトと走り続ける。この旅を終えたら、日本に帰る。さて、この後、何をしようか。ケニアでの2年間をどう活かせばいいだろうか。答えはなかなか出てこない。このままずっとバスに乗っていられればいいのに。

 かなり、というより、すっかり途方にくれていた。28歳のときのことだ。

 この後帰った日本で、ぼくは社会復帰に完全に失敗し、自分自身が操縦不能になったような混乱状態に陥る。そして、なんとか開発協力系の大学院に逃げ込み、その後に続けていくことになる途上国での教育開発の応援に向かってソロソロと歩みだす。ケニアから戻ってから、次の仕事先フィリピンに向かうまで、4年という再始動の期間が必要だった。
 ニジェールに行く直前、ケニアでぼくは2年間愛用していたカメラを紛失した。そのためニジェールでは自分で撮った写真が1枚もない。だからこそか、余計に10日間ほどのニジェールの旅は、強く心に焼き付けられている。

 

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