どうして山に登るの? そりゃ、そこに山があるからさ。
確かにかっこいい。でもこの言葉を語ったとされるジョージマロリーは、1886年生まれの英国の登山家だ。英国によるエベレスト登山遠征隊に第一回から加わり、1924年の第三回遠征時に山頂近くで行方不明となった。彼がエベレスト初登頂を果たしたかどうかは、今でも不透明なままだ。結局、世界最高峰初登頂の栄冠(?)は、1952(昭和27)年にテンジンノルゲイとエドモンドヒラリーのふたりに輝いた。
さて、「そこに山があるから」と訳されたマロリーへのインタビューは、以下の通りだった。
記者 「どうしてエベレストに(そんな苦労までして)登ろうとするのですか?」
マロリー「だって、それがそこにあるからさ」
「それ」とは明らかに「エベレスト」のことだ。そして、「エベレスト」とは、世界最高峰、かつ未踏峰である、世界にたったひとつしかない山のことだった。「唯一無二」の存在を意味していた。けして、一般名詞の「山」ではなく、マロリーにとって、たったひとつの山、それが目指すべき場所だったんだ。
すでに誰かが登頂を果たして「未踏峰」ではない「世界最高峰」だけとしてのエベレストであれば、彼はそれでもエベレスト登頂を目指しただろうか。もし、彼がそうしたとしても、その登山に彼はどれほどのエクスタシーを感じられただろうか。
人類史において2度目になろうと、3度目になろうと、あれだけ「エベレスト」に魅せられてしまったマロリーは、やはりそのトップに登ろうとしただろうとぼくは想像する。登らずにはいられなかったはずだ。けれども、初登頂でなかったことは、彼のエベレスト登頂を苦いものにもしただろう。成功したとしても、その達成感は悔しさを伴うものだったはずだ。
「最初」にどれだけの意味があるのか、という人はいるだろう。チベット語で ཇོ་མོ་གླང་མ (チョモランマ)、ネパール語で सगरमाथा (サガルマータ)、英語で Everest (エベレスト)と呼ばれる山の頂に最初に到達することにどれだけの意味があるのか、と。あるいは、極点もそうだ。北極や南極に最初に行くことが、どれほどの意味があるのか。太平洋をヨットで最初に単独横断すること(達成済み)、マラソンで初めて2時間を切ること(非公式のタイムトライアルで達成済み)、日本で初めての女性首相になったり(未達成)、東京大学の総長が初めて外国籍の人となること(未達成)、日本プロ野球で初めての4割打者(未達成)、等々、初めてには意味があるだろうし、関心のない人には無意味でしかない。
個人にも、初めては、山のようにたくさん起こる。生まれた赤ん坊にとっては、すべてが初めての経験となる。初めての水泳もあり、初めての登山もあり、初めてのキスや性交もあり、初めての結婚、初めての離婚、(女性なら)初めての出産、初めての死……、それぞれの個人にとっては、どれも大切で貴重な体験だろう。そんな中には、人生を変えるような出来事もあるだろう。
さて、角幡唯介だ。
最新著『そこにある山 結婚と冒険について』(2020 中央公論新社)を読んだ。相変わらず、面白い。ただ、この本のタイトルに含まれる「結婚」という言葉は、いわゆる読者の関心を引くための釣餌で、角幡が書きたかったのは「冒険」だ。
彼には『新・冒険論』(2018 集英社インターナショナル新書)という著作もある。1976年(昭和51年)生まれの角幡は、早稲田大学探検部出身で、朝日新聞の記者になった後も冒険への執着を捨てきれずにチベットの奥地の未踏地に入り込み死にかけ、さらに極地探検を続けている“冒険家”だ。
そして、彼が『そこにある山』でたどりついた「なぜ冒険をするのか」という問いに対する回答は、「事態に飲み込まれるから」だという。この事態とは、人生の中での制御不能なもの、たとえば結婚すべき人と偶然に出会ってしまったというようなこと。個々の人生に固有なものとならしめている「事態」。角幡は、人生の中に起こってしまった彼固有の「事態」に巻き込まれた結果として、日の登らない冬の極地をGPS(全地球測位システム)も持たずに“冒険”していると、書く。
でも、それってあまりに当たり前の結論だなぁというのが、ぼくの読書感。「運」とか、「縁」とか、「運命」とかと、「事態」は何が違うのだろう。ぼくには、同じことのように思える。そうだとしたら、「事態」よって冒険しているという表現は、結局何も言っていないに等しいんじゃないか。
角幡は、「年齢とともに高まっている内的感覚としての自由」についても書いている。でもそれって、QOL(Quolity Of Life, 生活の質)が高齢でむしろ高くなるという、発達心理学の知見とかなり重なる心持ちなんじゃないだろうか。体力や記憶力の低下が起こるにもかかわらず、高齢者のQOL意識が若い世代よりも相対的に高いのは、発達心理学の教科書には「ウェルビーイングの逆説」として記述されている。角幡が感じている 結婚や育児などで拘束されているのにも関わらず、拘束を受ける以前よりも大きくなった「自由感」というのも、このウェルビーイングの逆説に近いのではないかという印象をぼくは持った。まだ40代の角幡に高齢者の幸福感を重ねるのは失礼だろうけれど。
つまり、角幡がこの本で伝えたかった彼が冒険する理由、さらには冒険論としての「山を登る理由」は、この本のなかに長々と書いている割りに、凡庸な結論だ。
その背景には、角幡自身が今の“探検家”というポジションに至るまでに強く影響を受けた本多勝一への思いと、本多を超えていかなければいけないという意識があるとぼくは感じている。「本多勝一の冒険論とは、一言で乱暴にまとめれば前人未到主義である」(『そこにある山』205ページ)。この本多の論に、角幡は大学の探検部で出会い、強く影響を受けた。冒険を「脱システム」と結論した『新・冒険論』では、その第一章を本多勝一の冒険論にあて、そこで角幡は、本多が京都大学探検部(日本で最初の大学探検部だった)創設に至る直前に書いた「パイオニアワーク論」に感激したことを素直に吐露している。うん、ぼくもあれには大いに刺激を受けた。
その後、角幡が、かって本多の看板だった「朝日新聞記者」にもなっていることも含めて、角幡にとって本多の「論」を超えていくことは、強く意識されているはずだ。だからこそ、本多の「前人未到主義」という社会的な意義を超えるものとして、個人特有の「事態」を持ち出してきた。
本多の解釈には、マロリーの内在面への理解が完全に欠けているのである。
エベレストが未踏峰であったことが挑戦の大きな理由であったにせよ、それだけでは人は命を賭して山に登ることはできない。重要なのは、マロリーの内面に未踏峰エベレストがどんな様態で立ちあがってきていたのか、だ。(『そこにある山』207ページ)
角幡の書く「理解が完全に欠けているのである」の「完全に」の部分に、彼の本多の「論」へのこだわりの強さを、ぼくは感じてしまう。ふふふふ、そうなのかぁ、って。
角幡ファンとして、『そこにある山』での本多超えの試みはまだ物足りない、と書いておく。内心の自由を獲得し、充実期を迎えている角幡の、さらなる本多超え、あるいは、本多からの解放か、を期待したい。
ぼくらは、登らない、でも歩く
冒険家は、ときに高みを目指す。でも、冒険家ではないぼくたちは、よほどのことがなければ8000メートルを超える山々の頂きに登ろうとは思わない。だいたい、登るのはかなり疲れる。
ぼくの大学時代、研究室のA助教授は、研究室みんなでスキーに行くという恒例行事に「位置エネルギーを運動エネルギーに変えて、何が楽しいのか」とぼやきながら同行してくれたけれど、位置エネルギーを稼ぐのはなかなか大変なことだ。
でも、ぼくたちは登らなくても、歩く。進化の結果、通常二足歩行、歩く、を獲得したのはヒトだけだ。同じ霊長類の仲間たちも二足歩行はするけれど、常に、ではない。その分?彼らは木に登るという垂直移動は、ヒトよりもずっと得意だけれど。
せっかく獲得した「歩く」を通して、ぼくたちは、平行移動する。特につい最近まで先祖たちは、『西遊記』の玄奘三蔵や東海道五十三次の例のように、遠くまで歩いて移動した。今でも、スペイン巡礼や四国お遍路のように、ヒトは歩くしかない心境に落ちる。そして、まわりが海に囲まれた島ではやがては海に阻まれてしまうけれど、大陸では歩く距離はもっともっと長かった。
そうやって平行移動が遠距離になれば、とうぜんどこかで境界に出くわすだろう。大河や山脈、砂漠といったような自然境界もあるだろうし、関所や城壁、変化していく言葉や食べ物、音楽のリズム、服装や人々の顔つきという、人が作り出す境界もあるだろう。
マロリーの「そこに山があるから」の山が一般名詞ではないことはすでに書いたとおりだ。でも「なぜ越境するの?」と聞かれて、「そこに境界があるから」と答えるとき、その境界は、一般名詞として使ってもそれほど違和感ないんじゃないだろうか。だって、垂直移動する探検家・冒険家・登山家と違って、平行移動はもっとずっとポピュラーだから。ヒトは歩けば境界に出会う、のだから。
別にオレは境界があっても越境しないし、という方もいるだろう。でもね、きっとそれは無理なの。ヒトがひとりで生きられないのと同義で、越境しない生き方をヒトはできない、のだとぼくは思ってる。っと、角幡唯介さんをネタに、自分の言いたいことを書いてみました。


















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