帰りたくないと泣いた人たち
朝日新聞元エルサレム支局長渡辺丘さんが書いた『パレスチナを生きる』という本の中で紹介されている話し。日本若手起業家たちがパレスチナのガザ地区で実施したビジネスコンテストで入賞したパレスチナの女性ふたりが、生まれて初めてガザ地区を離れて2017年に日本を訪問した。11日間の滞在を終えて帰国する際、日本ロスの思いにひとりの女性(27歳)が空港で涙を流したという。
彼女たちが日本で過ごした短い日々は、彼女たちがそれまで過ごしていたガザの日々とあまりに違った。ガザでは慣習上、女性が乗ることができない自転車に、彼女たちは日本で初めて乗った。結婚前の女性がすることはあり得ない街の夜歩きも、彼女たちは楽しんだ。カラオケ店の個室で、アルコール抜きで好きな歌を熱唱して踊った。(『パレスチナを生きる』渡辺丘著 朝日新聞出版 2019 276ページ)東京の23区の6割ほどの広さに200万人が暮らすガザに戻れば、今度いつそんな楽しみを得られるのか。イスラエルの封じ込め政策のせいで、ガザは天井のない牢獄と形容される。失業率は5割を越え、イスラエルが建設した国境の壁際でデモをすれば撃たれ、常時爆弾に怯えて暮らす。自分の家がある日突然ブルドーザーで破壊される。
日本とガザ。同じ日々、同じ時間なのに、その社会環境はあまりに違う。
その話を読んでいて、ぼく妻サンワーが初めてカンボジアを出て海外に行ったきの話を思い出した。それは彼女が大学1年生、18歳、1999年。フランス語の研修生に選ばれた彼女は、パリ郊外での語学短期コースに参加した(選ばれたくて、必死に勉強したそうだ)。約2ヶ月の研修中、彼女はとても楽しく過ごした。最初は、フランスの人たちが怖くて仕方なかったけれど、すぐに彼らも同じ「人間」なんだと思うことができた。
彼女の母親は厳しかった。「あれをしてはダメ、これをしてはダメ」。その束縛から離れた日々、彼女は自由の味を知ったんだ。研修を終えて帰国するパリの空港で、「これで二度と海外にくることはできないだろう」と思った彼女は、それが辛くて大泣きしたのだそうだ。1999年、カンボジアの若い世代にとって、海外に出ることはまだ夢のような出来事だった。研修中、妻と渡仏した研修生のうち、数名が行方不明になっている。つまり、難民としてフランスに移り住んでいた親戚を頼って、フランスで生活する可能性に賭けたんだ。
どちらも、キーワードは「自由」だ。自由の味を知ってしまった者にとって、自由のない場所は辛い。こんなつらい気持ちになるなら「自由」なんて知らないほうがマシだったとすら、思う。
2020年コロナ禍に巻き込まれ
コロナ禍で、以前は簡単に越えられた境界が、越えられない、そんなことが起こっている。
ぼくの場合。
昨年3月に所用があってカンボジアの首都から東京に来た。一緒に来日した妻は、仕事の都合でぼくよりも2週間前の便でカンボジアに戻った。教育関係の仕事をしている妻は、2週間の待機後、仕事にもどった。ぼくが戻る数日前に、カンボジア政府が入国にPCR検査陰性の証明書を課すようになった。当時、PCR検査は日本国内では容易には受けられなかった。調べてみたら、関西方面でPCR検査をやってくれる医療機関があったようだけれど、その料金はかなり高額だった。
ということで、ぼくは様子見のつもりで、予定していたフライトを予定保留にしてしまった。
その後、コロナの状況はますます深刻になっていった。日本では緊急事態が宣言されたし、カンボジアの入国の規制も、どんどん厳しくなっていった。入国時に3000ドル(約30万円)の支払いが求められ、そのお金は入国後の待機ホテルの部屋代や食事代、あるいは入国時とその2週間後(さらには必要に応じて)のPRC検査費用に使われることになっていた(現在は、2000ドル、約20万円に減額されている)。その他、医療保険契約の義務も課せられる。飛行機代などを含めると、入国に必要な支払いはかなりの額になってしまう。
さらに、ぼくは下半身完全麻痺の車イス者だ。カンボジア入国後に入らなければいけない待機場所の環境がとても気になった。当然、介護ベッドはないだろう。ベッド上で数時間おきに排尿しなければいけないのだけれど、そのときに身体を起こして体勢を維持するのが難しい普通のベッドで何日も過ごすのは気が重い。さらに、2日に一回の排便ができるトイレだろうか?シャワーは浴びられるだろうか?介護はどこまで期待できるだろうか?
問い合わせて確認すればいい、と思われる方もいるかもしれない。けれど、たとえ問い合わせてどこかから回答が得られたとしても、現場に入って「大丈夫と言われた」と伝えて通るってもんじゃない。担当者が変われば、対応は様々。経験上、そういうことは避けられないのはわかっている。
そんなわけで、日本で静かに過ごしているうちにもう1年が経ってしまった。気楽に東京とプノンペンを行き来しようと思ってカンボジアでの生活を選択していたのだけれど、あっという間に境界が高くなってしまったんだ。ふーむなぁ、なるほどなぁ。こういうことって、起きるんだねぇ。
越えてしまった、越えられなかった
そういう高い境界を越えるとしたら、一度越えたら、今度は戻るのは簡単ではない。「もうここには簡単には戻れない」と境界を越える際に涙を流した、ガザの女性や、若いときの妻や、彼女たちの気持ちはとてもよくわかる。
この一歩を踏み出したら、もう引き返せないかもしれない。国境に限らず、そういう選択をせざるを得ないときが、人生にはあると思います。それは、多くの場合、取り返しのつかない「別れ」を伴う。過去と未来のあいだの高い高い境界。そんな境界は、越える以前よりも、越えた後に、その高さはさらに増す。ぼくにも数回、そんなことがありました。
でも、あの一歩を踏み出さなかったら、どうなったんだろう。「踏み出せばよかった」という思いに一生苦しむことになったのか。それとも、踏み出さなかったという過去のことは、やがて忘れていってしまうのか。うん、きっとそうだったろう。そして、実は忘れてしまった「あのとき」が、きっとぼくにもあった。まぁ、それも人生、それが人生。130億年の宇宙の歴史から見れば、越えようと越えまいと、まぁ、たいした違いはなかったのよ。芥子粒の流す涙の小ささよ。
桜が散るころ、帰ります
自分の涙は芥子粒よりも小さくとも、他者の涙は琵琶湖よりデカかったりする(琵琶湖って、ちょっと涙のしずくの形に似てますよね)。自由を知って「帰りたくない」と泣いた無数の人たちがいることは、覚えておきたい。そして、自分が境界を越えるときは、そんな涙をちょびっとばかり思い出したい。
あるいは、「別れ」の辛さ。去って、振り返って、越えてしまった境界の高さに驚く側もあるけれど、高い壁の向こうに去ってしまった人を見送った側の辛さも思い出したい。新しい世界の興奮に紛らわすことができる寂しさと、日々続く日常にぽっかり空いた寂しさと。それを比べることにそれほどの意味もないのだけれど、けれど去られた者の変わらぬ日常は、きっと一層寂しい。親しき人の死を思えば、それは簡単に想像できるだろう。けれど、死んだ人は、もうどこにもいかない。それも本当だ。そのヒトを失うことは、きっともう二度とない。いつでも一緒にいれる。きっと、そういうものなんだなぁ。そこに境界はないよね。距離もないよね。
さて、ぼくはそろそろカンボジアに帰ろうと思っています。待機中に待ち受けていることに対する不安がなくなったわけではありません。今の状態が続くと、そうそう簡単に行ったり来たりもできない。ま、それでも、そろそろ潮時。今年の桜は早いと聞きます。桜が散るころ、帰ります。大丈夫、とりあえず、あっちでもこっちでも、ぼくは自由ですから。


















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