「通訳される」ってことについて あるいは通訳される技術

良い通訳になるために勉強中の人のノートから

コミュニケーションで避けられないフィルター

 ぼくは「英語」がけして得意ではなかった。学生時代から、こつこつと単語を覚るのが苦痛でしょうがなかった。そもそも、英語が国際語だなんて、とても大きな不平等じゃないか。
 けれども、とにかく仕事を得るためには、英語を勉強するしかなかった。ある程度できないと、結局、苦労するのは自分自身だ。
 幸い、ぼくには「伝えたいこと」「話したいこと」はたっぷりとあった。そういうわけで、ぼくの英語は実践、実践、また実践の中で、必要に迫られて使ってきたものだ。考え方としては、日本語と同じで、どうやって誤解なく伝えたいことを伝えるか。米国で通用するイディオム(言い回し?)は、多くの途上国では通用しない。だから、そんなものを身につけている暇はなかった。愚直に、とにかく意図を伝え合う言葉が欲しかった。

 これまで通訳が必要だった場面も多い。日本、ケニア、フィリピン、カンボジア、ルワンダという長期で仕事をしてきた国の中で、一番通訳のお世話になったのは、カンボジアだ。彼らの母語であるカンボジア語を、なさけないことに今でも上手に使えない。なんとか片言という程度で、仕事で意思を正確に伝え合うには全然足りない。そんなわけで、英語が苦手な人とは、どうしても通訳を入れて意志の疎通を図ることになる。
 これでも、仕事の合間に家庭教師を自腹で雇って、カンボジア語を勉強したことはある。そして、なんとか片言話せるようになったカンボジア語だけれど、家庭教師はぼくの言いたいことをわりとちゃんと聞き取ってくれたのだけれど、それが教室の外に出て実践しようとすると、なかなか通用しないんだ。話すのはなんとかなっても、聞き取りはますますむずかしい。
 カンボジア語のアルファベットも、何回も覚えて、何回も忘れている。語学学習に関しては、ただただため息しかでない。

 けれども、たとえばぼくにとってもっとも分かりやすい日本語であっても、ペラペラ話せれば意図が伝わるかというと、実はそうでもないことが多いと感じる。こちらが伝えことが相手というフィルターを通して少しずつずれていく。だから、相手がどんなフィルターを持っているのかを理解することは、とても重要だ。そのフィルターで濾し取られてしまう情報が何か。それがわかったら、濾し取られてしまうような要素はできるだけ含まないようにして、こちらは表現しなくちゃいけない。
 書く文章も同じだ。誰に向けての文章なのか。読み手は誰なのか。読み手が多数であるとすれば、その最大公約数はどの辺りにあるのか。その辺りの感覚を磨くことには、できるだけ敏感でありたいと思っている。

透明人間みたいな通訳者が欲しい

 通訳を入れてコミュニケーションをするときには、ふたつのフィルターが存在することになる。まず、通訳者のフィルター。さらに通訳を通じてコミュニケーションをとっている対象者が持っているフィルター。その両方を通過して、こちらの伝えたいことが対象者に伝わらなければいけない。
 ぼくの理想の通訳者は、ぼくが言ったとおりの意図をそのまま伝えてくれる人だ。けれども、これがなかなか難しい。ほとんどの通訳者は、ぼくが言ったとおりには訳さずに、通訳者自身が理解した(と思っている)内容を通訳者自身の説明を加えて相手に伝えてしまう。通訳者の責任で相手に理解させようとしてしまうんだ。

 通訳者なしの状況を想像してみよう。ぼくがある問いを相手に投げかける。けれども、その問いが相手がわかりにくいものであれば、ぼくはぼくの問いの意味を再度ぼく自身の言葉で補って相手に説明し、問いを理解してもらうように努力するだろう。
 この補う部分を、多くの場合、通訳者がやろうとしてしまう。けれど、そうなれば、当然通訳者というフィルターを通って生き残った“意味”や“意図”の中で補足が行われる。もちろん、それで済むことも多い。特に、スピーチのようにちょっとかしこまった発言を通訳を通して相手に伝えるような場合は、ずれはそれほど気にならないことが多い。
 けれども、インタビューのように相互のやり取りを通して、そのコミュニケーションを深化させていきたいときには、できれば通訳者は透明人間のように存在してほしいのだ。けれども、透明人間になれる通訳者と巡り会えることはごく稀だ。きっと透明人間になるには、そういう訓練が必要なのだと思う。通常の仕事では、たまたま英語がうまいスタッフに通訳役をお願いしてしまうことがほとんどだ。そして、そんなスタッフは、英語がうまいだけであって、通訳としての特別の訓練は受けていないことがほとんどだ。透明人間になる技術は持っていない。
 そんなときは、せめて不透明な部分はこちらに聞き直してくれる通訳者がいい。通訳者が判断することを最小限にして欲しいわけです。察してももらいたくないのです。

聞きたいことだけを通訳者に通訳させてしまう話者にならない工夫

 通訳する側に立てば、透明人間のように通訳したくても難しいという状況もあると思う。特に「察して欲しい」という会話者だ。相手に理解を委ねるような話者の通訳をする場合、もし聞き直す回数が多くなれば、それは「下手な通訳」と受け取らてしまうかもしれない。わかった顔をして通訳者自身が消化したもので勝負したほうが、「良い通訳」と判断してもらえるってものだ。要は、相手が知りたい内容を読むというスタイルの通訳だ。
 実は、これが一番怖い。
 話者は聞きたいことが聞けたと満足してしまうけれど、実は、重要な部分は濾し取られてしまっている可能性が大きいからだ。「こいつに伝えてもわからない」、あるいは「ここは重要ではない」と通訳者が判断してしまっている、というケース。
 そんな通訳の入ったやりとりを傍から聴いていて、通訳を介在した会話にずれが生じていることがよくわかるときがある。下手な通訳者は、とりあえず両者が(違うレベルで)納得しあっていれば、それで済ます。そこで深い理解を求めて互いの誤差を指摘すれば、通訳者にとってはそれは地雷を踏むことになるかもしれないからだ。つまり、混乱。
 けれど、本当は、混乱する時は混乱したほうがいい。発話者が自分の発言、選択した言葉が、混乱を生むということに自覚的になるべきなんだ。そこから、探り探り進む。それが本来のコミュニケーションなんだけれど、そんなコミュニケーションを通訳するのはエネルギーが必要だ。いらいらした話者に対して、通訳者はどうしたって解決を急ぐ。そうなれば、スムースにフィルターを通る情報だけがやり取りされるようになる。つまり、混乱を恐れないのも良い通訳者だとも言える。
 あるいは、通訳者に混乱を恐れさせない話者が、上手に通訳を使うということなのか。聞きたいことだけを通訳者に通訳させてしまう話者にならないような工夫は、あっていい。

 通訳者を入れない場合でも、他者と理解し合うというのはなかなかの大事だ。
 そこに通訳を入れれば、ますますそれが困難な作業なのは言うまでもない。けれど、通訳者の質にあまりこだわらない人がけっこう多いようにぼくは思う。通訳を入れるコミュニケーションにも、技術が必要だと、ぼくは感じることが多いのだけれど、どうだろう。普段以上に、自分が使っている文章や単語に敏感でないとだめなんだと思う。そして、会話に関する勘のようなもの、感度のいいアンテナ、それを磨くこと。これはぼくにとって、終わることのないテーマだなぁ。

 

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