『みみをすます』、さらにはカンボジアに必要な編集者、編集力とは?

今月出版になる拙著『超えてみようよ!境界線』(かもがわ出版)を作って下さった編集者の山家直子さんと、都内某所で。ダウンサイズしたこの写真なら公開していいとようやく了解していただきました。

編集者 山家直子さんとの出会い

 Pippo著『一篇の詩に出会った話』(かもがわ出版 2020)という本をいただきました。

 11人の方に、Pippoさんが「好きな詩はなんですか?」と問いかけることで始まる会話が綴られています。地味な本ですけれど、あたたかい本。
 下さったのは、かもがわ出版で編集者をされている山家直子さんです。彼女と始めてお会いしたのは昨年の3月、都立大学駅前の近くにある「すぎの木」という喫茶店でした。2014年に障害を得てから、試行錯誤の上、なんとか書き上げたものを、カンボジアで自分でデザインして刷って、帰国時に日本に持ち込み、応援をしてくださった方々に無理やり送りつけたのでした。その中のおひとりが、山家さんと私を結びつけてくれたのです。

カンボジア教科書民営化の顛末

 話は飛びますけれど、カンボジアで理科教育の応援をしていたとき、教科書の改定作業に私もかかわる機会がありました。今のカンボジアでは建前はどの出版社でも公開されているカリキュラムに沿って教科書を作り、(一応、教育省による検定はあることになっていますけれど)出版することが可能です。
 私がカンボジアでのODAプロジェクトに関わり始めた2002年には、教育省が作成する国定教科書が唯一の認められた教科書でした。それが世界的な自由主義の謳歌の波にのって、世界銀行やアジア開発銀行の開発融資の条件として、それまでの公的機関の民営化がくっついてきました。その一環として、教育省下にあった出版部とその付属印刷所も民営化され、さらにどの民間出版社であっても、公開されているカリキュラムに沿って教科書を作ることが、2009年ごろだったでしょうか、可能になりました。このとき、日本のODAによる中学高校理数科教科書改定支援プロジェクトが実施されていましたけれど、もし多くの出版社が教科書を作成するようになったら、日本が支援した教科書が使われなくなるかもしれない云々という議論があって、結局そのプロジェクトは途中で中止になりました(私は、そのプロジェクトにはかかわっていませんでしたけれど)。

 でもですね、当時のカンボジアには教科書作成に乗り出せるだけの体力を持った出版社なんてなかったんです。しかもですね、第9年学年(中学3年)と第12学年(高校3年)終了時に実施される、国家試験では、それまで国定教科書の中の内容がそのまま問題として出題されていました。ときには、文章をそのまま暗記して回答するようなケースも。もし他の教科書を使う学校があったとしても、その学校の生徒は国家試験に対してかなり不利になるんじゃないかということが“予想”できました。しかも、始めての教科書検定。一体、その基準はどんなものになるのか。
 というわけで、2021年西洋正月の時点で、旧教育省出版部が発行する教科書だけが唯一のカンボジアの学校教科書です。教科書作成にチャレンジする出版社は、民営化の掛け声が“暴力的”に吹き荒れて10年経っても、だたのひとつもありません。あのときの、さまざまな議論は何だったんだ?と思わないでもない、私であります。

 おそらく、国家試験の改定がなされない限り、教科書の一社独占はつづくだろうと思います。カンボジアの国家試験のことを書き出すと、また長くなりますので、それはまたの機会といたしましょう。
 とにかく、そんなカンボジアで、私も「地球科学」の高校教科書の改定作業をアシストしたことがあります。というところまで、戻ります。

カンボジアに足りないのは、編集力だ!

 そのときに感じたのが「編集力」の欠如でした。でも、編集、って一体なんだろうか。実は私もよくわかっておりません。でも、あぁ、教科書を作る際の弱点は編集にあるのだろうな、ということは、何故かわかってしまったのです。
 おそらく、羅針盤としての編集者がいない。単に、トピックごとに執筆者を割り当てて、それを集めて、束ねる。ところどころイラストを入れるとか、校正する(といっても、文章校正ではなく、誤字校正)ということが「編集」でした。すると教科書ができる。そんな感じ。でも、一緒に作業しながら、いや、違うだろう!と思ったのです。「こんな方針で」「こんなことを意識して」という船長がいない。出来上がりのイメージをクリアに持っている者がいないまま作業しているみたいな感じ。

 それでは、一体、世の編集者は何をしているのだろう??と当時の私は思ったのでした。それが明確になれば、技術移転が可能になる。カンボジアの人たちに「編集っていうのはねぇ、校正のことじゃないのよ」と伝えられる。
 それから日本にくると、何人かの方に「編集者って何する人なの?」と尋ねました。本を作る関連の資料も見ました。でも、うーん、なかなかはっきりとクリアにならない。実は、編集者それぞれに、それぞれのやり方があったりする?しかも、フォント、紙、表紙、ページ数、予算、イラスト、…言い出すと細かい細かい。つまり、編集者ってのはそういう細かいものをまとめ上げて一冊の本にするという指揮者(コンダクター)のような、つまり職人芸。抑えるべきことはあるけれど、そこから先は感性の世界。なるほどなぁ、そうだよなぁ、なんてことがわかってきました。つまり小手先の技術は伝えられても、本質的なところまで伝えるには、技術移転のむずかしい分野なんだなぁってことがわかってきました。
 なるほどなぁ。

観察感激の拙著作成期間

 で。ここ10ヶ月ほど、私の目の前には本物の編集者、山家直子さんがおられたわけです。ふむふむ、こういう作業で本を作っていくのかぁ。ふむふむ、そういうこだわりってあるわけなのかぁ。と、私にはとても刺激的な時間でありました。
 山家直子さん、この場を借りて(って私のブログだから、特に誰からも借りてないですけれど)実地視察、本当にありがとうございました。勉強になりました。
 ということで、今月、私の本『超えてみようよ!境界線』かもがわ出版から出ます。乞うご期待、くださいませ。この件は、またご案内いたします。
 そして、私の次の夢のひとつは、カンボジアで本を出す、です。もちろん、カンボジア語の。数年かかると思ってますけれど、こちらも、乞うご期待。できれば、編集者育成もできればいいんだけれどなぁ。さて、どうなりますやら。

私の、一遍の詩に出会った話

 さて、山家さんにいただいた『一遍の詩に出会った話』を読みながら、自分ならどんな詩をあげるかなぁ、と考えました。いくつか候補はあるのですが、谷川俊太郎「みみをすます」がやっぱり出てきます。
 谷川俊太郎、世代としては私より二周りぐらい上ですけれど、戦後の東京育ちの雰囲気には、なにか相通じる感じが私にはあります。彼の母校、豊多摩高校は私の母校、西高から数キロ東にあります。豊多摩高校の北側を走る五日市街道は私の自転車での登校路でした。しかも、豊多摩高校には中学校時代に好きだった人が通っていました。そんな感じで、谷川俊太郎には関係ないけれど、でも谷川俊太郎、気になるんですよね。多作な彼の詩のなかでも、みみをすます、好きです。

みみをすます
きのうのあまだれに
みみをすます

と静かに始まるこの詩のなかの次の一段落

うまのいななきと
ゆみのつるおと
やりがよろいを
つらぬくおと
みみもとにうなる
たまおと
ひきずられるくさり
ふりおろされるむち
ののしりと
のろい
くびつりだい
きのこぐも
つきることのない
あらそいの
かんだかい
ものおとにまじる
たかいびきと
やがて
すずめのさえずり
かわらぬあさの
しずけさに
みみをすます

ここに怯え、怒り、でも、まだ何も自分の耳では聞いていないことが
恥ずかしかった(のだろう)あのときの私。
そうだ、

おともなく
ふりつもる
プランクトンに
みみをすます

ってところも、好きだなぁ。深い海の底の聞こえない音にも耳をすます。

みみをすます
きょうへとながれこむ
あしたの
まだきこえない
おがわのせせらぎに
みみをすます

と詩は閉じていきます。全部を読みたい方は、以下からどうぞ。
みみをすます (dcn.ne.jp)

2件のコメント

こんなところで何ですが、新年おめでとうございます。いつも新鮮な(自分にとって)情報をいただいて感謝しています。本年もよろしくお願いいたします。
カンボジアの教科書は時々MoEYSのFacebookに登場するので、実質的に国定と思っていました。一応、自由に出版することはできるのですね。分担執筆して束ねただけというのは、よく分かります。重複する図や内容が何度も出てくるのを見てます。Khim先生やMoEYSの方にもおかしいと言ったことがあります。国の決めたカリキュラムがあるのは知りませんでした。目にしているのかもしれませんが、クメール語なので気づかなかったし気づいても読めないと思います。近い将来、カンボジアで本を出されたいとのこと、とても期待しています。翻訳はお知り合いの先生方に依頼するのでしょうか。

都築功様
はい、改めまして、あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。

カリキュラム、ちゃんとありますよー!探せば、きっと英語版も手に入れることは可能だと思います。

教科書、20年近く前からかかわっているものとしては、以前よりはかなり良くなってきているんじゃないかなぁと思いつつ。小学校のカリキュラムが、ちょっと、うーむ、とも思っています。
私自身は、実は根が深いのが国家試験で。極論をいうと、国家試験を真の意味で改定すれば、あとは市場(教科書を含めて)が勝手に良くなっていく。つまり、試験改革がもっとも費用対効果の高い教育の質改善ではないかと思っています。理科だけよくなる、ってありえないと思うんですよ。国語は大事!
以前、日本のODA機関に「国語、つまりカンボジア語の支援プロジェクト、やりましょう!」と強く提案したんですけれど、蹴られたことがあります。カンボジア語がわからなくても、国語の支援はできると私は思っているんですけれどね。残念!

カンボジアでの本作り。はい、うまくいきそうだったら、色々とまたお力を貸してくださいませ。
翻訳。はい、そこはもっとも楽しみ、かつ、むずかしいプロセスです。先生に丸投げはできないと思っているのです。どう介入できるか。いくつか案は考えているんですけれど。
ひとつの段落があったとして、それを10人が読んで10人が同様にちゃんと解釈できるか。以前、みんなで翻訳作業をした際には、ここがなかなか達成できなかったんです。「読み方が悪い!」という声も必ず上がりました。「ちがう、書き方が悪い」。カンボジア語がわからないまま、そういうやりとりをする。「すべての言語は論理的である」。たいへんやり甲斐がある、魅力的なコミュニケーションの場です。

村山哲也

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