中国の南部、南シナ海に浮かぶ海南島の人たちが東南アジアに広めた海南チキンライス。それはカンボジアにも伝わっている。カンポットの胡椒栽培を手掛けてきたのが、海南系華人のひとたちだった。(前回の投稿連載第21回には以下から飛べます)
カンボジアの海南系華人の人たちを探して出かけた、プノンペンにある小さな聖母宮。そこは海南島の自然神、水尾聖娘を祀る廟で、海南系華人協会が管理する場所だ。
そこでであったのが、何啓忠さん(72歳)だった。話をうかがいたいという私の頼みを、何さんは気さくに受け止めてくれた。
プノンペン 中央市場近くの小さな聖母宮で

「私の祖先は、百年ほど前に祖父と祖母が海南から移民してきた。祖父母はカンポット県にあるカンポントラッチの町に胡椒農園を持っていた。父もその農園を継いだ。私は胡椒農園の仕事がつらくて、若いころにコックになった」
「ポルポト時代に胡椒農園は奪い取られて、みんなサツマイモ畑にされてしまった。ポルポト時代には食べるものがなくて、私の両親は餓死した。生き延びた私は、ポルポト時代が終わるとプノンペンに出てきて、コックをやった。中華ではなく、フランス料理だ。今はもうコックは引退した。孫は七人いる。息子のひとりは上海で働いている」
「子どものころから、黒胡椒、白胡椒、青胡椒、全部よく食べた。豚肉や魚の切り身を醤油煮にして、それに白胡椒を入れて食べるのが好きだ。母がよく作ってくれた」
「誰がカンポントラッチで胡椒栽培を始めたかという話は、聞いたことはない。最初にカンボジアに移住した海南系移民の話も聞いたことはない。カンポントラッチ辺りでは今でも胡椒を作っている。カンポントラッチの華人学校に行ってみたら、なにかわかるかもしれない。海南系の学校で、私もそこの卒業生だ。訪ねてみればいい」
最近の中国資本の進出についても何さんに聞いた。何さんは、中国がカンボジアに進出してきて経済発展に寄与してくれるのはいいことだという。多くの犠牲者を出したポルポト政権が中国政府に支援されていたという過去は、特に気にはならないようだ。
インタビューを終え、廟に手を合わせる。廟守りがまずロウソクに火を灯し、その火で一纏めにした十数本の線香に火をつけてくれる。それを廟の中に祀られた聖人像の前に置かれた線香差しに数本ずつ供えてから、廟の前にひざまずいて手を合わせる。何さんが廟に置いてある太鼓を力強く叩き、それに合わせて私(筆者)は頭をたれた。ドーン、ドーンと太鼓の音が、町の喧騒の中に響きわたった。
カンポントラッチの海南系中華学校、そして海南協会会長

何さんの教えてくれたカンポントラッチとは、先に紹介したジャンデルヴェールの資料のなかで胡椒栽培が最初に始まった〝コンポン・トラチュ地方〟の中心地だ。何さんと出会った数日後にカンポントラッチの海南系学校、覚群学校、を訪ねた。
覚郡学校は想像していたよりもずっと大きな学校だった。カンボジア華人の子どもたちだけでなく、地域の多くのカンボジアの子どもたちが通うマンモス校で、中国本土から中国の若い教員が数十人も派遣されていた。校長自身も若い頃に中国本土から渡ってきた人で、カンボジア女性と結婚し、この覚郡学校で教師をしていて校長にまでなったという。そんな彼は、カンポントラッチの胡椒栽培の歴史はよく知らなかった。
昔のことが知りたいならこの人に会うといいといって、校長はカンポントラッチの海南協会の会長を紹介してくれた。会長の家は町中の写真屋だった。そこを訪ねると、校長から電話連絡をもらった会長が店の前まで出て快く迎えてくれた。会長に話を聞いた部屋には、中国語で書かれたポスターもあればカンボジア北東部の町クラチェ辺りのメコン川に生息するカワイルカの木彫りの像もおいてあり、中国とカンボジアが均衡を保っていた。
会長の今は亡き父親は70年ほど前、18歳のとき海南からこの地にやってきた。70年前といえば、日中戦争が終わったころだ。海南島も日本軍統治時代に多くの住民が家を焼かれ、殺されている。さらにその後には、中国内戦の混乱もあった。日中戦争から内戦時代にかけての時代に、中国を去って東南アジアに向かった華人は多かったようだ。
会長の父親は最初に胡椒農園で労働者として働き、やがて自分の胡椒畑を持った。
いつごろ海南の人たちがこの地に移住し始めたのか、誰が胡椒を持ち込んだのかといった話は、会長も聞いた覚えがまったくないという。カンボジアで暮らす海南系の人たちの社会の中には、彼らの祖先がいつカンボジアにやってきたというような話は残っていないようだ。それとも、そこにもポルポト政権時代の影響があるのかもしれない。ポルポト時代には多くの華人がその出自を隠したし、そのときに名前を変えた華人も多かった[1]。以前に語り継がれてきた伝承も、そのときに途絶えたのかもしれない。
700年前に中国から伝わった胡椒!!????
会長宅を辞し、カンポントラッチの町から車で20分ほど走ったところにあるカンポット胡椒協会事務所に向かった。昼どきで、事務所には誰もいない。事務所の前には小さなビニールハウスがあり、その中では黒胡椒を乾かしていた。見張りがいるわけでもなく、のんびりしたものだ。
事務所の前でうろうろしていると、事務所の隣家の人が胡椒協会の職員に電話をかけてくれた。しばらく待つと30歳ぐらいのノッチという名の男性がやってきた。彼は華人ではないという。彼の家族は2000年頃から胡椒栽培を始め、彼自身も胡椒を栽培に携わっている。
ノッチさんから話を聞いているところに、今度はカンポントラッチ胡椒協会の会長が現れた。会長の車はランドクルーザーで、指には大きな金の指輪をつけている。いかにも羽振りが良さそうだ。60歳は超えているだろう。彼は海南系華人で、カンボジアに渡ってきた祖先から数えて四世代目にあたるそうだ。話を聞かせて欲しいと頼むと、これからすぐにカンポットの町の銀行まで行かなければならないので5分しか時間がないという。
私が一番聞きたかったこと、いったいカンポットの胡椒はどこからやってきたのか、と尋ねる。すると会長は「700年前に中国から渡ってきた」というではないか。700年前といえば、それは周達観がアンコールの地の胡椒について記録を残したときのことだ。しかし、胡椒を周達観たちが持ち込んだわけではない。食い下がって質問を続けようとしたけれど、会長は「もう時間がない」とそそくさと運転手付きのランドクルーザーの乗り込むと行ってしまった。
カンボジアの胡椒業界では、周達観はいつの間にかカンボジア胡椒の元祖になってしまっているのだろうか。会長の車を見送りやや呆然としていると、ノッチさんがポルポト時代が終わってすぐに植えた胡椒の木から今でも胡椒を採っているといいはじめた。1980年ころ、つまり37~38年前に挿し木した胡椒の木だ。もちろん彼自身が挿し木したのではなく、古くから胡椒栽培を行っていた人からそう聞いているのだそうだ。
樹齢40年の胡椒の古木?
それをぜひ見せて欲しいとノッチさんに頼んだ。車に乗り込み、ノッチさんの案内でその古い胡椒の木があるという胡椒畑に向かう。この辺りは平らな土地が続いている。カンボジアでよく見る水田は見当たらず、雑木林の中に野菜畑やサトウキビ畑があり、そして胡椒畑も点々とある。これだけ平らだと乾季の水やりはさぞ大変だろう。
ノッチさんはなんの迷いもなく道を示し、やがて一つの胡椒畑の近くで車は停まった。畑の胡椒全部ではなく一部だけが古いのだと告げると、ノッチさんは胡椒畑に入っていく。「この辺りの木だ」とノッチさんが示す木は、他の木と比べると確かに太い。
この古い胡椒の木の話を聞いた後、改めて胡椒の木について調べてみた。通常、胡椒の木は挿し木してから20年程度の寿命しかないという。ノッチさんの言葉が正しいのであれば、あの胡椒の古木の樹齢は40年近くで、通常の胡椒の木よりもずっと高齢ということになる。
もしかしたらノッチさんが教えてくれた木は40年近い歴史は刻んでいないのかもしれない。それとも、胡椒の木にも古木があるのか。ワインブドウの木は寿命50年といわれるけれど、なかには樹齢100年を超え収穫量は減っても高品質のブドウをつけるような古木がある。
ノッチさんが紹介してくれた木の本当の樹齢はわからない。しかし、カンポントラッチ周辺でもポルポト時代後、それほど時間をおくことなく胡椒栽培が再開されたのは確かのようだ。そして、今では胡椒栽培を受け継ぐノッチさんのような若い世代が育っている。

タケオの町中にある海南チキンライスレストラン
人類の歴史の中では、胡椒の香りとそれがもたらす富に魅せられた人々によって、血が流れたり弱者が搾取されたりしてきた。しかし、それは胡椒の罪ではない。胡椒は柔軟に境界を超えてきた。それはまるで虫や風によって運ばれる花粉や種のように、胡椒がもつ香辛料としての魅力が人を誘い、胡椒を越境させ、その生物的繁栄につながっているかのようだ。胡椒は、場所と天候は選んでも人は選ばない。それを摘むのが何人であろうと、胡椒には関係がない。適した環境と十分な世話があれば、胡椒は伸び繁り咲き実り、生産者や流通者の生活の糧となり、消費者の食卓を豊かにする。
開かれた地平を胡椒は原産地のインドから現在のカンボジアの土地に渡ってきた。その経路や変遷がどうあろうと、生産者が誰であろうと、現在カンボジアで生産される胡椒が素敵な香りを持つことに変わりはない。
プノンペンとカンポットの中間点に位置するタケオの町の中心部に立つ独立記念塔のすぐ近くに、見目も美しい海南チキンライス風の鶏ご飯を出す食堂があり、毎朝多くの客が訪れている。私も仕事でタケオに滞在するたびに、この店に通っていた。
その店で働くお年寄りに話を聞きたくて、2019年のある日、タケオを再訪した。その店に到着したのはもう昼前。それでもチキンライスは一皿だけ残っていて、まずはそれをいただく。相変わらず美味しい。
店で働く人たちに、この家のお母さんにお話を聞けないかと頼み込む。奥から出てきてくれた女性は、思ったとおり、彼女がこの店の初代だという。
彼女はカンポット出身だそうだ。両親が華人ということはないですか?と聞くと、両親とも「カンボジアの人でした」と彼女は答えた。海南チキンライスのつくり方は家族から伝えられ、ポルポト時代後にタケオに移り住みここで食堂を開いたそうだ。今は娘や孫たちが主になって食堂を続けている。海南チキンライスを家族から教わったというのだから、その始まりは華人なのではないだろうか。でも、両親の祖先に中華系の人はいませんでしたかと尋ねても、彼女は聞いたことはないと首を振った。けれども、その食堂の家の中には、カンポットの海南協会会長自宅で見たのと同じように、吉を呼ぶ漢字のポスターとカンボジアの置物が同じ部屋でひっそりと調和していた。
おそらく、彼女はぼくの質問を“はぐらかした”のだと思う。彼女の家の中の漢字ポスターも、美味しい海南チキンライスの存在も、彼女の祖先に華人がいることを示していた。でも、それを見も知らない外国人にわざわざ伝える必要は、彼女の側にはまったくないんだ。彼女が過ごしてきたカンボジアの現代史から、それが彼女が学んだ生きる知恵なのかもしれなかった。
[1] 後日、友人のチョムランの父方の祖父も中国からの移民だったことを知った。彼もポルポト時代を経て名前を今のチョムランに変えていた。「この人も中国風の名前だったのよね。えーと、リー、そうそうリーよ」とチョムランの相棒ロマニが笑いながら夫の以前の名を私に教えてくれた。前に登場した胡椒の頭領ティさんもポルポト時代に名前をカンボジア風に変えている。

















コンポントラッチ なつかしいです。カンボジア胡椒の発祥地かも、、だけでなく、実はカンボジアスポーツクライミングの発祥地の一つかも。2006年頃プノンペンで在留外国人のクライマーグループを指導していた米国人ベンジャミンティプトン氏は、コンポントラッチの岩場をよく講習会場に選んでいました。http://www.angkorclimbers.net/archives/TozanJihou/4.pdf 今でもこのシャークスフィンと呼ばれる石灰岩の岩塔は、プノンペンのクライマーたちに好んで登られています。夫がベンに巡り合わなければ、シェムにクライミング人工壁を建てることもなかったと思うので、コンポントラッチは、思い出深い場所です。
伊藤明子さん
いつも読んで頂きありがとうございます。
そうですか。コンポントラッチは、カンボジアのスポーツクライミング発祥の場とのこと、なるほど、あのへんには塔のように立ち上がる石灰岩があっちこっちにありますものね。ベンジャミンティプトン氏と伊藤さんご夫婦との出会い、本当に人と人の出会いで物事って動いていくものですよねぇ。