あんた、さしずめインテリだな

2022年2月、ほぼ1年前に集まったカンボジアの地球科学関係の仲間たちと 彼らすべてが、みんなカンボジアのインテリ(候補生含む)で、もしかするとエリート(候補生含む)です。

 さしずめインテリ、うん、よく言ったものだなぁと思いますね。これ、渥美清演じる寅さんの決め台詞です。調べてみたら、1969(昭和44年)公開の寅さん映画第2作『続 男はつらいよ』で初めてこのセリフが使われています。山田洋二監督のシナリオでは「おまえ、インテリだな」と書かれていた。それを渥美清がアドリブでとっさに「さしずめ」を付け加えたとのこと。うん、「さしずめ」があるほうがダントツによろしいわけで、すごいなぁ、渥美清。

 そして、この「さしずめインテリ」は、その後渥美清が亡くなるまで続いた全49作の寅さんシリーズの中で、何回か使われているはずです。寅さんの決め台詞としては「それを言っちゃぁおしまいよ」が有名ですけれど、「さしずめインテリだな」もかなり強力な決め台詞としてシリーズに定着していたんじゃないかなぁ。

 

 さて、私、ときどき自分で自分に「お前さん、さしずめインテリだな?」と突っ込みを入れているんです。最近も、ある状況でこの言葉が頭の中にエコーしました。

 「さしずめインテリだな」ってエコーが響くときってのは、当然多少自分を揶揄しているわけです。インテリだからって、かっこつけんなよ、調子に乗るなよ、っていう状況なのです。

 デジタル大辞林によれば、「さしずめ」とは以下の意味とあります。

【一】名・形動]1 直接かかわること。また、そのさま。「色界法則には―な倫理的目的…なぞあるわけはなく」〈長与竹沢先生と云ふ人〉2 行き詰まってしまうこと。また、その状態。どんづまり。「死なでかなはぬ身の―と成り行く果ぞあはれなる」〈浄・重井筒
【二】[副]1 結局つまるところ。「―君しか適任者はいない」2 さしあたり今のところ。「―生活には困らない 

 うーむ、これはなかなか手強い言葉じゃないですか? 「さしずめインテリ」の「さしずめ」は、上記の中では副詞の1の意味「結局。つまるところ」でしょう。

 お前さん、なんだかんだいっても、要はインテリじゃないか、ってことですね。で、要はインテリだ、ってのは、つまり否定的には「理屈っぽいんだよ」ってことだったり、もしかしたら「知識で考えてんだよ」→「情緒が欠けてんだよ」かもしれないし、とりあえずはちょっとインテリを小バカにしているような感じ。一応、インテリは物知りと少し敬意をにじませながらも、「あーぁ、頭いいやつってのは面倒くさいよ」というような溜息が混じる、感じ。
 それが寅さんが「おまえ、さしずめインテリだな」に含意されている気分でしょう。

 インテリっぽく分析してみると、もともとのシナリオにあった「おまえ、インテリだな」と比較して「さしずめ」(=「結局」とか「つまるとこ」とか)が加わったことで、寅さんの言葉はぐっと奥行きを持つことになりました。「まったくインテリと話すってのは疲れるよ」という気分は、寅さんに限らず昭和40~60年代の庶民の多くに強く共有できる感覚だったのです。

インテリとは?

 インテリという言葉を調べてみると、その語源はロシア語のintelligentsiya(インテリゲンチア)で、もともとは19世紀の帝政ロシアの時代の「自由主義的な知識人の一群」を指した言葉でした。そこから、知識・教養を持った知的労働にかかわる社会層、知識階級、という意味で使われたのでした。

 友人Yによれば、「大学に行く奴は、それだけでインテリなんだ」ということになるそうです。
 情報リサーチというインターネット上のサイトで日本の大学進学率の推移(大学進学率の推移 (statresearch.jp) を調べてみました。寅さんが「お前、さしずめインテリだな」と最初に口にした1974年、大学進学率は男性が40%ほど、女性はまだ10%を少し上回る程度でした。2016年では、男性は60%弱、女性は50%を超えるあたりです(ふーん、まだ女性の方が10%近くも低いのだ!)。

 つまり、寅さんが「さしずめインテリだな」と口にした当時には、日本の若い世代ではまだ半数に届かなかったインテリ層は、21世紀の今ではまぁ人口の半分はインテリに属するのだと言っていいのかもしれません。

 さて、これを読んでいるあなたは、インテリですか?

インテリが感じる肉体労働者への憧憬

 ことさら自分を知識階級と誇る気にもなれませんけれど、でも、私は自分のことをインテリだろうと思っています。途上国への開発支援に、特に教育という分野でかかわることで収入を得てきたというその働く分野はやっぱり一種の知的労働だったろうと思うのです。そして、開発支援という業界は、学歴社会という一面を強く持っています。
 なぜなら、経済発展の後発国であればあるほど、学歴がものを言う社会になりがちなので、途上国では日本以上に大学卒、修士卒、博士卒、なんてことが売り物になる。たとえば今私が暮らすカンボジアでも、役所で高い立場に出世するためには、修士や博士がともすると必須だったりするのです。そして、その彼らと一緒に仕事をする際には、こちら側の学歴も実はかなり相手には意識されているのです。

 ですから、私が20代後半で青年海外協力隊に参加した際に、ケニアで世話になったJICA職員は「もし開発支援の仕事をしたいのであれば、大学院で修士を取った方がいい」というアドバイスをくれたものです。彼は自分自身は大学卒の資格しか持っていなかった。そして仕事をするうえで、「あぁ修士や博士を持っていたらなぁ」と思ったことがあったのです。
 大事なのは、まずは資格だと。だから彼は「研究対象はなんでもいいから、修士を取れ」というようなことまでおしゃった。「文学でもいいから」とさえ、彼は言ったものです(実際には、文学で修士や博士を取るのは日本ではことさら大変なことですけれど)。
 その助言があったから、協力隊の任期を終えて帰国後、日本での社会復帰に失敗した私は30歳で逃げ込むように国際開発系の大学院に進学したのです。

 海外支援の仕事は、ときには体力勝負みたいな面がないわけではありません。でも、肉体労働だったわけでもない。実際に、身体勝負の仕事をしている人から見れば、私のやってきたことなどまさに「インテリの机仕事・理屈仕事」だっただろうと思うのです。

実はインテリに優しかった?寅さん

 知的労働だろうと、肉体労働だろうと、そこに上下や貴賤はあるはずもありません。それでも、寅さんの「さしずめインテリ」という言葉には、インテリではない寅さんのインテリへのあこがれと、インテリに負けてなるものかという自負心と、さらにはインテリではない自分を卑下する劣等感も含まれている。

 一方で、インテリである私には、肉体労働への憧憬もあったりします。そして、パソコンに向かって机仕事をしたり、会議という何やら「無駄」とも思える行為に時間を費やしている自分を、たとえば日の当たるところで汗をかいていない「もやし」のような存在と少々軽く見る気持ちもあったりする。だから、「さしずめインテリ」と言われると、少々気恥ずかしい思いがするのです。そうなんです、俺、もやしっ子でさぁ、と頭をぼりぼりかいちゃうようなイメージ。でも、インテリであることを否定するのもカマトトっぽい。そうなんです、インテリなんです、もやしなんです、と潔く認めるしかない。

 寅さんシリーズの後半では、寅さんの甥っ子である満男(みつお)の存在が物語の中で大きな位置を占めるようになっていきます。満男は、インテリ候補生であり、だから映画の中ではときに弱弱しく煮え切らないという、インテリのマイナス面を象徴する存在であったりします。それでもそんな満男に対して、寅さんは優しい。その励ましは、実は満男だけではなく、人口の半分を占める(男の)インテリへの、山田洋次(寅さん映画の監督さんね)の励ましが反映されているようでもあります。

 吉岡秀隆が子ども時代からずっと演じた満男は、高校卒業後は浪人の後に大学生(城東大学の経済学部経営学科らしい)となり、そして就職して靴のセールスマンとなりました。大学に進んだという点では、満男も立派なインテリです。さらに、2019年に公開された寅さんのいない寅さんシリーズ『お帰り寅さん』(こちらは寅さんシリーズ50作目)では、満男は脱サラして小説家となっています。小説家、まさにインテリっぽい仕事ではないですか!で、今思うけど、満男って、監督の山田洋次の化身でもあるんでしょうね。この前の段落で、「山田洋次が、世の中のインテリを励ました」という主旨のことを書いたけれど、実のところは自分をインテリだと強く自覚していた山田(東京大学法学部卒業)は、映画の中では満男となって寅さんに励まされて、気持ちよくなったりしていたのだと想像します。

 インテリすなわちエリートではない 

 インテリと似た言葉に、エリートがあります。

 エリートとは「選ばれた人」という意味で、つまり「社会や集団の中で,すぐれた素質・能力および社会的属性を生かして指導的地位についている少数の人たち」(出典:デジタル大辞泉)のことです。日本でなら、高級官僚なんかが、すぐにエリートの代名詞として思い浮かびます。
ですから、前出の満男がエリートかと問われれば、それはちょっと違う感じです。満男はインテリだけれど、エリートではないでしょう。

 私自身も自分をエリートだとは思わない。むしろ、エリートから離れたところに居たい、と思ったりしているつもりです。エリートというのは、私にはどこか「恥ずかしい」存在。ふむ、なぜだろう? エリートは、つまりは支配層ですから、それぞれの社会で大事な存在であるわけです。エリートが良い人たちか、悪い人たちか、で、その社会のありようはきっと大きく違う。ですから、ぜひエリートの人たちは人間味あふれる「良い人」であってほしい。
 けれども、どうも、いつの世も、どの社会でも、エリートというと、どこか冷徹で、効率主義で、つまり人間味という点ではあまり魅力的ではないように見える。それが“エリート=恥ずかしい”という構図が生まれる理由です。

 「あなたは、エリートだね」という言葉は、もちろん誉め言葉ではあるのでしょうけれど、でも「冷たい人だね」という批判も込められた言葉にもなりやすいわけです。そして、インテリの中でもトップレベルの人たちが、エリートであるらしい。

 さて、もし今寅さんが健在ならば、寅さん映画には「おまえ、さしずめエリートだな」というセリフが作られていたでしょうか?

 インテリ話、長くなってしまいました。実は本題にはまだ入っていないという…。やれやれ。では本題含めて続きは次回にということにいたします。ではでは、またまた。

 

 

2件のコメント

中学生の時から新聞配達で家計を支え、高校は定時制に行って10代半ばにして既に自活していた父は(勿論その頃は労働者階級に典型的な職業しか選べなかったであろう)その後お金を貯めて東京の最難関私大の文学部に合格・卒業するという成功をおさめた。恐らくこういう経緯があったために彼は自分がインテリであることを誇りにしており、それが鼻につくと感じていた反抗期の息子(私)は最難関とされる大学や文系学部全般を色眼鏡でしか見ることができなかった。しかし勉強は出来る方だったので、労働者階級に下野(?)する勇気も持てず、必ずしも得意ではなかった数学が必須となる理系に進路を選び、苦しみました。という個人的経験から、「やっぱ自分がインテリだってのは、アタマをボリボリしながら認めるような類の話」なのだと認識できて、ホッとしました(笑)同時に、国家の機関で「エリート」のフリをして生きるのも性に合わなかったので、今のところ結果オーライです。

植田さん、いつも読んでくれてありがとうございます。

私の父も、新聞配達をしながら大学にいったくちです。(植田さんと私を“私たち”という言葉でくくるのは少々強引ですけれど) 私たちの父母の世代は、そうやって大いに苦労して進学した人たちがかなりおられる、もちろん今だっておられるわけですけれど、その比率は昔ほどは多くないのではないか。
そんな父母の世代が、自ら勝ち取った“インテリ”の立場を“誇らしく思う”のは、それなりに理解はできる気はします。私の父が、どれだけインテリを誇らしく思っていたかはわかりませんが、母によれば父のプライドはかなり高かったとも聞きます。

頭ポリポリと「はい、インテリなんです」というのは、インテリ比率が高まってしまったことも背景にあるのかもしれません。インテリじゃ、飯は食えんぜ、みたいな。

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