さしずめインテリ  続き

若いころは、私、寅さん映画、ダサいなぁって思ってたんです。今もダサいとは思うけれど、でも、良い部分もあるって思ってます。寅さん映画を否定するって、インテリ度が高すぎるって感じがします。

大学出=インテリ、と言っていいのかどうなのかは、さておき。

さらに、インテリとエリートの違いもひとまず置いておいて。

「さしずめインテリ」というタイトルで書き始めた、その本題に今回はさっさと入ることにします。

似た者同士で集まってしまう

 私の周り、インテリばっかりだなぁと日々つくづく感じるのです。
 古い友人たち、たとえば高校の同窓生たち、大学の研究室仲間、彼らは当然のように自分と同じようなインテリなのです。高校は進学率ほぼ100%近い進学校でした。

 私、住んでいた家の近くの公立小中学校に通いました。けれど、父が転勤族でしたから、すでに(というか中学校在学中に)その学区からは離れました(中学校は越境で、転校無しで卒業まで通い続けましたけれど)。ですから、中学卒業と同時に、その地域とも縁がなくなった。町を歩いていて、クラスメイトと出会うなんてことは、ない。そんなこともあって、小中学校のときの友人知人で、今でも付き合いがあるのはごくごく少数です。
 うん、その少数は、ちょっと高校・大学の友人とは“香り”がちがうかもしれません。彼らは大学や専門学校出身ですけれど、インテリ臭はそれほどしないような気がします。

 違う世界の人という点では、青年海外協力隊時代の仲間にそういう人たちが多くいました。いわゆる技術端の職人気質を感じさせる人もおられた。

 でも、私、諸所の理由があって、青年海外協力隊時代の人たちとはまったくと言っていいほどその後の交流はありません。一人、とても気の合う職人がいて、きっと友人としてつきあい続けたと想像するのですが、岩登りを主とする“山や”だった彼は、協力隊から帰って数年後に落ちて死にました。私がフィリピンで悪戦苦闘しているときでした。
 体脂肪率がめちゃくちゃ低い体をして、片手の小指や薬指一本で懸垂してしまう彼でした。「みんなが思うほど危険はないのだ!」と、岩登りについて熱弁していた彼だったのに。ま、それはまた別の話。
 とにかく、とても無念です。

 その後、大学院に進学し、途上国の教育支援という仕事に進み。そこで会う仕事仲間たちは、支援する側(日本側)も、支援される側(途上国の役人や先生や)も、やっぱりインテリが多い。途上国の役人なんて、多くの場合インテリの中でも特にエリートという立場の人たちだったりするわけです。すごくプライド高い人も少なくない。

 そういう生活の中で、結局自分が知り合う人たち、語り合う人たち、同じような“香り”・“匂い”の人たちがどうしても多くなっていく。

 さらに、今の自分にとって親しい人たち、好ましい人たち、を思い浮かべてみると、インテリの中でも、どちらかといえば左翼系が多い。ここでの「左翼」とは、せいぜい「右翼でない」という程度の意味であって、では右翼とはとなば、「国粋主義」「民族主義」に親和性が高い、あるいは安部元首相が好きとか、その程度の意味で使っています。私にとって好ましい人は、社会平等などに多少は意識が向いて、弱者が気になったり、不平等が気になったり、ということに親和性が高い人が多いと感じるのです。

 となると、例えばFacebookでまわってくる情報も、そういうものが多くなる。

 つまり、私の接する世界は、インテリ臭、さらには反「国粋主義」っぽい色が濃い。

ウクライナのことは気にならない?

 そう考えるとですね、おそらく世の中にはインテリ臭がなく、あるいは「国粋主義」的色合いの濃い場というのがきっとあるのだと想像するのです。そして、その世界のことを私はほとんど知らない、かかわらない。

 さらには、世代って境界もあるのだろうと感じます。今年59歳になる私が日々接する情報や、そこで涵養されていく世界観とはまったく違うものを、違う世代はその世代に共通するものとして育てているに違いない。

 先日、20代半ばの、やはりインテリ若者が私を訪ねてきてくれて、とても楽しい数時間を過ごしたのです。彼女が言うには、彼女の周りには「ウクライナのこととか興味ない人がほとんど」だと言う。もちろん、それは彼女の主観であって、実際のところ彼女の周りの人たちがどれだけ“今のウクライナ戦争的”なものに関心をもっているのかいないのかは簡単には判断できません。
 けれど、その若者がウクライナ戦争的なことが気になっていて、その関心を周りの人たちと共有する機会がないと感じている、というのは確かなわけです。
 ふーん、そうかぁ、と改めて思ったのです。その人が日常に接している、もやーっとした価値観の集合体というのは、私が日々接する価値観の集合体とはきっとかなり違うのだろうなぁと。

「さしずめインテリ」警報

 話一気に変わって。
 ここ数か月、あるインターネット教室のようなものに参加していました。信頼する友人から勧められた「編集」をキーワードにした集いです。出されるお題に順番に応えていくというスタイルで、自分の「編集力」を上げようというプログラム。
 ここでは編集とは何か、ということは触れずに話を進めます。その集い、授業料はそこそこのお値段がします。4か月で10万円ぐらい。安くはないでしょう?

 そのプログラムは楽しかったです。払った分、元を取らなくちゃという貧乏性の私でありますから、それなりに真剣に取り組んで、一応、元は取ったと思う。細かいことはさておき、不満はない。

 さて、この集いに参加しながら、私の脳内にはわりと頻繁に「お前さん、さしずめインテリだね」という寅さんのセリフがエコーしたのです。もちろん、そのプログラムに参加している人たちの背景はかなり多様です。仕事をすでに引退した人、「編集」というキーワードに直接関係する仕事をばりばりやっている人、「編集」とは直接関係なくとも興味があった人、まだ学生中の人(大学生、高校生、中学生も!)。
 それでも、そこはインテリ臭が高い場だったように私は感じました。そこで語られる言葉のいくつかは、『若きウェルテルの悩み』という感じもしなくもない。さらに、多くの自負心やプライド、背伸び、その背景にある不安や孤独なども、ときどきかすかに流れてきたりする。それは、けっして嫌なものではありません。真剣に生きている人が醸し出す、気持ちのよいミントの香りでもあったりする。
(ちなみに、『若きウェルテルの悩み』を持ち出したのは、単にふっと頭の中に浮かんだだけのことです。今調べるまで『若きウェルテルの悩み』が18世紀に書かれたゲーテの恋愛小説だったこともよくわかっていませんでした。単にこのタイトルの響きが、インテリの上滑りした悩みっぽいなぁと私が思っていたってだけのことです、おふざけと思っていただければありがたい)。

 そして、こうして偉そうに書きつつ、私もその中の一員であるわけです。不惑(40歳)はとうに昔に通過し、天命を知る(50歳)からそろそろ10年、もうすぐ耳順(60歳)になる人間一人として、左翼インテリは惑ってばかりだし、天命もわからんし、なわけです。
 そして、編集教室に集ったおそらくわりと似たような人たちの集団(前に書いたように、かなり多様なんですよ、おそらく「国粋主義」系もおられるはず)の一人としてある私の頭の中で、ふと聞こえてくる「さしずめインテリだな」。
 頭ポリポリなんですよね。どこか居心地がよくない。この感覚はなんなんだろうなぁ、って探っているんですけれど、なかなか言語化できないの。

 それでもあえて言葉にしてみると、限られた世界の中で、ちまちまやっていると、ときどき私の中のアラームが鳴る、そんな感じのことなんじゃないかと。
 それでも、振り返ると、実はいつだって自分という殻の中でちまちまやっているわけだ。特に50歳で障害を得てから、私は以前の足で稼ぐ、尻軽を売りにする、という生き方スタイルは路線変更を強いられ、どうしたって書斎派になっています。となると、余計にちまちまやっている感強いわけ。その点では、そのインターネット教室の顔も知らぬ人々との交流だって、自分の小さな殻の外に出るいい機会なのです。

 もしかしたら、そういうちまちました小さな外部ですら、面倒くさくなっている? 「さしずめインテリ」には、頭でっかちという意味合いもあります。で、私自身の頭でっかち化が進んでいる? 実は、私の中の「さしずめインテリ」警報は、そのインターネット教室に向けられているのではなく、直接私自身の「頭でっかち化」に向けられているのかもしれない。
 ふむふむ、なるほどなぁ。
 油断すると閉じている自分を自覚して、開くことをやっぱり意識しないとね。

インテリ寅さんは可能か?

 インテリ好きのする、って批判というか、批評の仕方があります。

 たとえば、私の愛聴するソウル・フラワー・ユニオン(SFU)、そのボーカルである中川敬さんは、阪神淡路大震災の際に率先して被災地でボランティアでコンサートを開いた。そのような活動が、TBSでニュースキャスターをやっていた筑紫哲也(故人)に高く評価され、彼の楽曲が筑紫哲也のニュース番組で流れたりしました。

 その後、何かの評論で、SFUや中川に対する「インテリ好きのする」という批評を目にしました。なるほど、そういう面はあるかもなぁ。私がSFUが好きなのも、彼らの音楽には社会へのするどい批評と、弱者への強い関心があるからです。SFUや中川のインテリっぽい部分が、私のさしずめインテリの琴線に触れるのだ、と言われれば否定する必要もない。

 そうやって私の愛聴する音楽を振り返ると、ふむふむ、インテリっぽいものが多いかもね。ときどきFacebookで紹介しているJAZZサックス奏者仲野麻紀さんも、インテリ度高いとか、そういう事例は多いかもしれません。

 さらには、読書などもそうです。テーマが社会格差だったり、貧困やら不平等やらだったりすれば、そこで書かれることは割りと非インテリの世界のことなんですけれど、その文章を書いているのはやっぱり(左翼系?)インテリだったりする。

 で、開き直れば、インテリの何が悪いのよ、と思う。

 先に書いた、私を訪ねてきてくれた若者は、まわりから「あなたは考えすぎよ」って言われるとちょっと愚痴っていたのです。私はその人に「考えすぎて、何も悪いことはないじゃないのかなぁ」という主旨のことを伝えたんだけれど。

 考えるためには、それなりに情報を集めること、その情報を判断すること、が求められます。そして、その訓練を受けてきたのが“インテリ”じゃないのか? だとすれば、インテリ、いいじゃん。みんな、インテリを目指せよ、という気もする。

 寅さんがインテリになると、寅さんじゃなくなってしまうのだろうか? それとも、インテリ寅さんは可能で、つまりは情に熱く、理にも厚く、そんなインテリはあり得るのか? 

 目指したいと思う。

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