アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』をプノンペンの映画館で見たのです。

海洋生物学を専攻する大学生の恒夫は、ある夜のバイト帰りに坂道を猛スピードで下ってくる車椅子の女性、ジョゼを助ける。坂道の上から降りてきたジョゼの祖母曰く、散歩中に目を離した隙に、誰かが車椅子を坂道に向かって押したのだという。アルバイトとしてジョゼの相手をするように依頼された恒夫は留学費用のためにその依頼を承諾するが、ジョゼの可愛らしい容姿とは裏腹な高飛車な言動に閉口してしまう。一度はアルバイトを辞めようとしたものの、ジョゼに言われるがままに様々な場所へと外出に付き合わされるうちに距離を縮めていく。しかし、ジョゼの祖母の死を切っ掛けに、二人の関係性に決定的な変化が生じ始める。ジョゼと虎と魚たち – Wikipedia より)

 という物語、アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』を昨夜プノンペンのイオンモール2の映画館で鑑賞してきました。私、ほとんど前情報ないまま見たのです。帰宅してから調べてみると、この『ジョゼと虎と魚たち』というのは、原作は1985(昭和60)年の田辺聖子による短編小説です。さらにこの小説を素にした実写版日本映画が2003年に、そのリメイク版韓国映画が2020年に作られていました。あぁ、私が『ジョゼと虎と魚たち』という映画のタイトルを、どこかで聞いたことあったなぁと思ったのは、この以前に撮られた映画があったからだったんだなぁ。

 さて、私は原作も、以前に公開されている実写版もリメイク版も未体験です。昨夜、帰宅後にインターネットでちらっと調べたぐらい程度の情報しかありません。ですから、ここではあくまで、アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』を見た上で思ったことを書きます。

 さて、映画の醍醐味の一つには、自分の知らない世界への越境があるのだと私は強く思うのです。2時間前後の旅、それが映画鑑賞ではないかと思うのです。
 それでいえば、このアニメ版『ジョゼと虎と魚たち』を見る多くの健常者にとって、それは主人公の大学生男子の目を通して垣間見る「障害の世界」への小旅行になるのだろうと。
 そしてそうであれば、さて、彼ら(健常者ら)にとってこの映画を見る前と後とで、彼らにとって異界であっただろう「障害の世界」への理解・認識はどれほど変わったのだろうかと考えるわけです。昨夜、ベッドの中でそれを考え始めましたら、案の定、なかなか寝付けなくなってしまったのでありました。なぜなら、さて、実のところ、あの映画を見た人たちにとって「障害の世界」への新しい学びはほとんどないのではないだろうか?と想像するからなのです。

 とすれば、越境という視点から振り返ったとき、アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』という映画はそれほど刺激的には思われない。もしかしたら純愛物語を目指したアニメ版『ジョゼと虎と魚たち』という映画では、障害、は単に消費されただけなのではないだろうか。そんな考えが、私の昨夜の眠りをかなり阻害したのでありました。

越境として映画体験

 たとえば、仮定として、日本の大学生男子がたまたま縁あってカンボジアの女の子と出会い、そして恋に落ちるという日本映画があったとしましょう。想定されている観衆は、まずは日本の人たちとします。
 とすれば、その観衆はその映画を通じてそれまで知らなかったカンボジアを何か知ることになる。あるいは、それまで知っていたカンボジアのことを再確認するとか、さらには新たなカンボジアの側面を知るとか、そんな刺激があることで、映画を通じてカンボジアへの越境疑似体験をすることになるのだろうと想像するのです。
 カンボジアの女の子をわざわざ物語に登場させておきながら、もしカンボジアというキーワードへの越境疑似体験がないとすれば、では、なんのためにカンボジアを登場させたのか?ということになる。そして、映画の作り手がその回答を用意していないとすれば、ならばカンボジアである必然性も理由もなんもないよね、と評価されることになるでしょう。別に、タイでもベトナムでも、アフリカでもどこでもいい。もしかしたら、貧しい途上国のひとつとしてのカンボジアが、単に消費されただけ、なんじゃないのという批評は、どうしたってあり得る。

 もちろん、物語の題材にされるすべてのものが「消費」される対象でしかないという言い方も可能です。でも、どうせ消費されるのであれば、消費されることが不可避であるとするならば、せめて食べごたえはあったほうがいいじゃないですか。スカスカなものを食べるよりも、歯ごたえのあった、味がしっかりしているモノを食べたほうが、食べた気がするというものです。

 カンボジアであれば、アンコールワット的なものにちらっと触れるだけなら観光パンフレットの表紙並みの情報でしかなくて、やっぱりポルポト時代に象徴される歴史も意識されるのがせめてものフレイバーでしょうし、できるなら21世紀も四半世紀過ぎた今の視点からの過去への現代的な意味付けにチャレンジしてみてよね、と期待したりするのが観客の“贅沢な”願いだったりもするわけです。
 もちろん、それがその映画の主要なテーマではないにせよ、です。純愛や夢を諦めないということが映画のテーマだとしても、その背景に「この物語でカンボジアを使った理由」を納得させてくれれば、それはカンボジアを使ったことの必然性となっていく、のではないでしょうか?あるいは、作り手のカンボジアへの愛情、あるいは憎悪、そういった唯一無二の何かを味わってみたいと思うのが、鑑賞者にゆるされる贅沢というものです。

 とすれば、アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』で、障害のある女性がヒロインとして登場する背景としての、つまり映画を見るであろう圧倒的多数(健常者)にとっての異界「障害の国」への疑似越境はどんなものであったろうという問いの立て方があっても、いいでしょう?そして「障害者」としては、障害が登場する映画を見る以上、どうしたってそういう視点から自由にはなれないのです、私は。

障害世界への越境体験としてはなんとも食い足りない

 さて、映画を振り返ってみたとき、果たしてどこに越境体験があったのかしら?映画を見た健常者たちは、主人公(大学生男性)を通して新たな視点の疑似獲得があったのだろうか? ベッドの中で指折り数えてみたのですけれど、はて、それはホントにあったのか、と思うほど、ほとんど何もないように私には思えました。つまり、映画は健常者の視点からほとんど離れることはなかったのです。

 数少ない事例としてあげられるとすれば、なるほど、車椅子では海辺の砂浜というのはほとんど走行不可能なのだということはちらっと描かれます。さらに、もうちょい書くと、(車イス者に限らず)障害を持つということは「(健常者からすれば簡単に手の届く)屋根の上の赤風船に手が届かない」ということなのだということも、一応描かれます。私がちらっと読んだ映画評の中には、そんな障害者の気持ちを、障害者を知らなかったであろう多くの映画鑑賞者(健常者)に伝えたという点で、この映画を評価する向きもありました。でも、私には物足りない。

 私にしてみると、詳細な部分、ディテール、が足りないと思えます。

 例えば、家の外では車イスを使い、家の中では(いざ)って(つまり下半身を床につけたまま手を使って這って)移動する20代のヒロインの生活が描かれています。けれども、下半身麻痺者にとっての重大事項であるトイレと風呂については、そのシーン、あるいはトイレの中や風呂場の一片の映像も、流れることはありません。
 自宅で閉じこもり生活を送っていたヒロインが、主人公(大学生男子)と電車を乗り継いて海に出かけるというのは、この物語で大事なシーンとして2回描かれます。そこでも途中トイレに関するシーンは一切ありません。
 そんなの必要ないじゃない、という声もあるかもしれません。けれども、障害者視点では、やはり重要だと思うのです。多くの健常者に越境して障害世界を味わってもらうには、やっぱりあってもいいじゃないだろうか、その表現の仕方には千差万別の工夫があっていいだろうけれど、と思うのです。一切無視は、切ないのです。

 さらに、その海へ向かうのに電車を使うシーン。ホームの乗り降りに駅員がボードを毎回取り付けてくれるシーンは映るのです、けれどボード支援の手配をしてもらうシーンはありません。ボード支援をお願いすると、駅によってはずいぶんと待たされるということも描かれません。

 図書館のシーンでも、本棚の上の方にある本に車イス者は手が届かないという描写のひとつぐらいあっても良かったとおもうのですけれど、ありません。
 障害者手帳も一切出てきません。詳細をいえば、障害者手帳を持っていると、公共交通利用の際、介助者と車イス者と二人であわせて大人ひとり分の料金でいいのですけれど、そのことも描かれません(車イス者がひとりで乗車するなら、片道100キロ以内の利用であれば、大人ひとり分の料金がかかります、100キロ以上だと車イス者ひとりでも半額料金/こども料金と同じになります)。
 一方、ヒロインをつれて電車に乗るのは初めてである男子は、しかし電車を降りる時バックで車イスを引きながらスロープを下ります。これも、ありえないでしょう?そんな技術、これまで障害世界にまったく縁のなかった男子が知るはずはないのです。だから、ここは下りのスロープを普通に車イスを押して出ようとして、ヒロインから「バカタレ、下るときは後ろ向きに引くものだ!」と怒られるシーンが無くてはいけません。そういうシーンがあれば、障害世界の旅も新鮮になるというものではないかしら。
 あるいは、ヒロインは、最後、一人暮らしを始めたと思われるのですけれど、新しいアパート探しに苦労するエピソードもありません。実際の世界では、障害者の一人暮らしでの住まい探しは、かなり難航するものです。

 そういう詳細は、健常者にとってはそれほど重要でないのだろうと想像します(私も健常者時代はそうでした)。だから、健常者視点に立つ限りは特にがんばって描かれることはない。純愛ストーリーに不必要な部分は、邪魔なだけなのです。でも、だから、障害者目線からすれば、そのような詳細が描かれないまま積み上げられる純愛ストーリーは、障害は設定として消費されているだけ感を強くもたらすのです。つまり、アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』には、健常者と障害者の偶然の接点からの恋愛物語を描きつつ、せっかくの健常者による「障害世界」への越境経験に深みを与える機会はことごとく無視されていくのです。

 もちろん、「障害世界経験は物語のテーマではない」というエクスキューズはありえます。そして、それは私にとってはやっぱり単なる言い訳です。ふーん、そう。そうやって多数派は少数派の「不幸」をつまみ食いするんだよね、と意地悪のひとつも言いたくなるわけです。

「虎」、つまり怖い対象とは、何か?

 さらに、もう少し突っ込んでみましょう。

 映画の中では、「虎」も大事なメタファーです。なにせタイトルにも使われているのですから。
 「虎」とはつまり、車イス者であるヒロインから見た「世間に広がる怖いもの、敵たち」です。それはストーリーの前半で祖母が語る「家の外は野獣ばかり」からもうかがえます。
 私は読んでいないのでさらっとした書けませんけれど、田辺聖子の原作では、この「虎」として、どうやら若い車イス者女性にとっての、世間一般の男性の存在があるらしいのです。つまり、原作には若い女性(特に弱者である障害のある女性)への性的嫌がらせがテーマの一つにある。しかし、青春純愛物語に書き直されたアニメ版『ジョセと虎と魚たち』には、その若い車イス者女性への男たちによる性的嫌がらせの痕跡はほとんど残っていません。しかし、目を凝らすと、そのかすかな残滓は見つかります。

 たとえば、主人公の健常者大学生男子がヒロインと出会う場面。急な下り坂でコントロールを失って車イスから投げ出されたヒロインは大学生男子に抱きとめられ難を逃れるのですけれど、その際にヒロインが見せる(助けた)男子に対する「ベタベタ触りやがって」という過剰とも思える反応です。さらに、ヒロインが急坂を下り落ちた理由は「どこぞの男が車イスの背中を押した」という祖母の言葉もそうです。50歳になってから車イス者となった私にとって、悪意を持った知らない誰かから背中を押されることで急坂を下り落ちる車イス者という状況設定は、そんなひどいイタズラ、あり得ないでしょうという意味でちょっと想像できません。けれども、それはあくまで50歳車イス者男性としての私個人のリアリティでしかなくて、10代や20代の女性車イス者であれば、ありえる設定、つまりそんな嫌がらせが日常のリアリティである可能性は十分にあるのです。
 最後に純愛の二人は互いの気持ちを告白しあいハッピーエンドを迎えるのですけれど、口づけ後にヒロインがつぶやく「(口づけとは)思っていたよりもずっといい」という一言は、つまりヒロインが口づけ(に象徴される肉体的性接触)へ嫌悪感を抱えていたことも想像させます。

 しかし、この映画の中で、(障害を持った)若い女性への“男たち”による性的嫌がらせは、まったく描かれません(わずかに、駅でヒロインにぶつかって謝りもしない中年男性がひとりいましたけれど)。それはこの映画が2020年に公開された若者向け純愛映画として、いわゆるフェミニズムに関しては無味無臭がよろしい、ということなんじゃだったんじゃないかというのは、ゲスの勘ぐりなのかなぁ。

 となると、この映画の中での「虎」が暗喩するものはきわめて曖昧です。油断していると、ヒロイン自身の勇気の無さといったものが、ヒロイン(障害者)にとっての「虎」であったという解釈も可能になりかねません。それなら、あえてこの映画の原作を田辺聖子の小説に求める正当性すら怪しくしかねないんじゃないかと、私はちょっと危惧します(原作を読んでいないので、この危惧はあくまで保留です)。そして、障害者も踏み出す勇気をと唱えるのなら、そんな説教は聞きたくないぜというのが、多くの障害者の気分だと私は想像します。少なくとも、そういう説教を健常者の娯楽のネタに使うなよぐらいは、言いたいということです。

 と、まぁ、天の邪鬼的な感想を書き並べましたけれど、純愛物語としては王道を行く映画です。若いカップルがクリスマス(この映画は日本では2020年クリスマスの時季に公開されています)のデートに見るには楽しいだろうなぁ。ウキウキしちゃうだろうなぁ。

若い女性車イス者が一人、多数の健常者に混ざって鑑賞していたのです

 ところで、昨夜の上映は、日本大使館などの共催による、プノンペンでの「日本映画無料上映会」のプログラムの一環でありました。日曜日の午後6時からの上映には、プノンペンの若い年代、そして家族連れが100人ほどが鑑賞していました。
 途中、話が少々込み入ってくると、場内のこそこそおしゃべりが多くなるとか、スマートフォンの明かりがちょっと目につく、さらには最後の口づけシーンでは場内に湧く照れた観客らの静かな歓声があがる等の「途上国での映画鑑賞する観客鑑賞の醍醐味」も私は楽しんできました。

 ひとつ嬉しかったことは、この映画の上映開始直前に、会場にひとりの若い女性車イス者が入ってきたことです。会場の構造上、彼女も私もスクリーン真ん前の第一列で映画を鑑賞したのです。思わず、ちょい離れた彼女に「一人で来たの?」と尋ねたところ、「そうだ、一人で来た、家はこの近くなんだ」と答えてくれました。残念なことに、彼女との会話はそれ以上は膨らまなかったのでしたけれど、映画終了後にもっと話を聞けばよかったと、私は今、かなり後悔しています。しまったなぁ。
彼女はアニメ版『ジョゼと虎と魚たち』を見て、どんな感想をもっただろうか?「素敵だった」だろうか?「彼氏ができて羨ましい」だろうか?「ドリームストーリーね、現実はもっと厳しいよ」だろうか?「カンボジアじゃ、あんなこと考えられない」だろうか? こんな私の陳腐な想像をひっくり返す新鮮な一言を、なぜちゃんと聞かなかったのだろうか? いかんいかん、もっともっと、敏感敏速に反応しなくては、と反省仕切りです。でも、障害当事者があの場にいてくれたのは、私の気持ちをかなり上げてくれたのは確かなのでした。

 今後、またどこかであの娘とすれちがえないだろうか?という楽しみが、できたことは確かなのでありました。

 

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