『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第7回 カンポット胡椒アチェ王国起源説 

『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第7回です。
(前回の投稿は11月4日 以下から飛べます。)

 13世紀アンコールの地での胡椒栽培が、その後のカンポット胡椒栽培につながっているのだろうか。ポストアンコール時代の少ない史料から、カンボジアの胡椒の変遷をうかがい知ることは簡単ではない。けれど、胡椒がポストアンコール時代のカンボジアでの産物だった記録はほとんどないし、栽培方法も大きく違う。
 そして、カンポット胡椒栽培の起源は、アチェ王国だとする記述がインターネットからは多くみつかるのだ。

アチェ王国とカンボジアのつながり

 カンポット県で現在コショウ園を運営している欧米系組織のホームページを調べると、カンポットのコショウはインドネシアのスマトラ島西部にあったアチェ王国から伝わったと書かれているものがいくつも見つかる。アチェ王国は、マレー世界の中で強力なムスリム国家を築いていたことで知られる海洋国家で、17世紀にその最大の勢力を誇った。19世紀にはオランダからの侵略に抵抗しアチェ戦争が起こったことでも知られている。アチェ地方は現在はインドネシアに組み込まれているけれども、今でも独立運動が盛んな場所でもある。

アチェとカンポット位置関係

 調べてみると、ポストアンコールの時代、たしかにマレー世界とカンボジアの関係は盛んだったようだ。
 17世紀ごろから、平野部の少ないマレー半島やマラッカ海峡沿いの地域では、増加する人口に対して食糧を自給できず、米は輸入に頼っていた。米の大輸出国であるタイでは、華人(潮州系)、さらにはオランダ東インド会社が貿易を支配していたため、マレー人にとって自由に貿易ができるカンボジアは重要な米の仕入れ先だった。また東南アジアと東アジアを結ぶ中継地としても、マレー社会にとって大事な場所となっていった。『越境者の世界史』[i]という本の中で遠藤正之は、カンボジアでのマレー人の活動を次のように記述している。

 一六四二年一月にラーマーディパティ一世がカンボジア王として即位した。王は同年一一月、有力な交易勢力だったマレー人及びムスリムが少なからぬ割合を占めていた華人との関係を強化することを目的に、イスラームに改宗した。その結果、王は交易による利益を拡大することができ、王権は大幅に強化された。
 マレー人は宮廷内でも重要な位置を占めた。政治的にも重要な地位を占めるに至った。
[ii]

 ここに出てくるカンボジア王や宮廷とは、ポストアンコール時代で、このときの首都はプノンペンの北にあるウドンだった。

 1821年にベトナムを訪問したクロフォードという人物が書き残した記録によれば、シャム湾沿岸の港であるコンポンソム(現シハヌークビル)とコンポートに、合計四~五〇〇〇人内外のマレー人が居住し、ジョホール、パハン、クランタン、トレンガヌなどのマレー諸国に米、ラック(カイガラムシの分泌する色素による染料)、綿布、絹、手工業製品を輸出していた。[iii]

 このように17世紀から19世紀にかけて、マレー人・華人を含む多くのムスリムがカンボジアで交易を行っていた。つまり、マレー世界であるアチェがカンボジアともつながりがあった可能性は十分にある。 

 さらに。ベトナムやカンボジアのムスリムが使うチャム語は、マレー系の言語で、その中でも特にアチェ語ととても関係が深い[iv]。チャム語は、ベトナム中部に栄えたチャンパ国の末裔が使う言葉で、チャンパ国がベトナム北部から勢力を拡大してきた後黎朝大越(ベトナム系の王朝)によって倒された15世紀後半ころ、多くのチャンパの人たちがカンボジアに移住している[v]。彼らがアチェとカンボジアを結びつけていた可能性もある。

アチェ、カンポット

 ファームリンクカンボジアというコショウ栽培組織が出している資料に、次のような記述がある。

 カンボジアでの集約的なコショウ生産は、インドネシアのアチェ戦争(一八七三~一九〇八)をきっかけにしている。アチェの王は、多くの収益を上げていたコショウのプランテーションをオランダに奪われてしまうことを恐れて、一八七三年から一八七四年にかけてそれらのプランテーションを燃やしてしまった。その後、そのアチェの生産の一部がカンボジアのカンポット地方に移された。[vi]

 カドーダイカンポットペッパーというやはりカンポットでコショウを栽培している会社のマイケルウィンターズという人物のインタビューが、2016年4月に記事になっている。「カドーダイ」の「カドー」とはフランス語からカンボジア語化した言葉で意味は「プレゼント」、「ダイ」は「土地」「大地」という意味で、転じて「地球」の意味も持つ。「大地からのプレゼント」あるいは「地球からのプレゼント」と訳せばいいか。マイケルウィンターズは自身のカンボジアのコショウとの出会いを語った後、カンボジアのコショウの歴史について次のように話している。

 最初は中国の貿易商人によるものでした。アンコールの時代、アンコールワットは中国と伝統的な貿易関係にありました。王宮と関係があった、えーと中国人、うまく発音できないんだけれど、とにかく彼が最初にコショウについて書き記しています。
 コショウがカンポットで栽培されるようになったのは、ヨーロッパとの貿易と関係しています。オランダ、イギリス、スペイン、ポルトガルが世界のあちこちで貿易のための取引を展開していました。
 インドネシアにアチェと呼ばれる場所があります。アチェとオランダとの間で紛争がありました。アチェの王はオランダ人にコショウを取られるのを恐れて、自分のコショウの木のほとんどを焼いてしまったというのです。その後、そのコショウの木の一部がカンポットに移植されたそうです。1870年代後半の頃の話です。これは、コショウについて面白い本を書いているマージェリーシェファーという素敵なアメリカの女性から聞いた話です。
[vii]

 ここに出てきたマージェリーシェファーが書いたコショウについての面白い本とは、この連載の以前の回でも参考資料としている『胡椒 暴虐の世界史』のことだ。この『胡椒 暴虐の世界史』の中には、アチェとオランダとによるアチェ戦争への言及がもちろんある。アチェ戦争はオランダによるアチェ王国への侵略戦争で、1873年に始まり、オランダは30年かけてアチェを制圧する。しかし、アチェの王がコショウを焼き払ったことや、コショウの木がカンボジアに移植されたことは『胡椒 暴虐の世界史』の中では語られていない。

 マイケルに「カンボジアの胡椒はアチェから来た」と教えたというマージェリーは、どうしてそのことをはっきりと『胡椒 暴虐の世界史』に書かなかったのだろう。胡椒の生産地としてカンボジアは特に重要ではなかったからだろうか。

マージェリーシェファー著 『胡椒 暴虐の世界史』の原著
日本語訳は白水社2014

[i] 弘末雅士編『越境者の世界史』春風社 2013

[ii]220ページ 遠藤正之/著 「第10章 19世紀カンボジアにおけるマレー人観の変容」弘末雅士編『越境者の世界史』

[iii] 223ページ 遠藤正之/著 「第10章 19世紀カンボジアにおけるマレー人観の変容」弘末雅士編 『越境者の世界史』

[iv] http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Aceh の中の“Demographics”の項、およびhttps://ja.wikipedia.org/wiki/チャム語 

[v] 73ページ 桃木至朗・他/著 『チャンパ 歴史・末裔・建築』めこん 1999

[vi] http://www.farmlink-cambodia.com/docs/Le%20Poivre%20de%20Kampot.pdf 翻訳は筆者

[vii] http://myartisanbusiness.com/podcast/kadode-kampot-pepper-bursting-onto-the-market-from-a-standing-start/ 翻訳は筆者

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