フィリピン小学校低学年 理科の授業で

フィリピン 街角であった子どもたち (本文とは関係ないです)

 海外で教育支援を行うとき、国語や社会といった科目よりも理科や算数・数学は比較的あつかいやすい。国語や社会はそれぞれの国の背景が色濃く出て、わざわざ他所からやってきた支援者が口出しするのはむずかしい。理科や算数・数学は、その内容は世界共通だ。
 実際、日本の教育支援でも、理科と算数・数学は支援内容の花形だ。青年海外協力隊でも派遣職種のなかで理数科教師は大きな柱のひとつで、これまでの派遣数もかなりの数に上っている(ぼくのそのひとりだった)。

それでもヨルダンで教えられている理科には宗教が絡んできたように(9月29日投稿 「ビックバンも偉大なるアラーの仕業」https://incessant-crossingborder.com/%e3%83%93%e3%83%83%e3%82%af%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%82%e5%81%89%e5%a4%a7%e3%81%aa%e3%82%8b%e3%82%a2%e3%83%83%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e4%bb%95%e6%a5%ad)、理科が世界共通と言い切れない場面に出会うことがぼくには何度もあった。

 フィリピンの小学校で見た理科の授業も興味深かった。

 低学年の授業。クラスの子どもたちが花、蝶、ミツバチ、カマキリといった手作りのお面をかぶって順々に歌いながら黒板の前に登場する。そして、最後には花と蝶とミツバチとカマキリ、みんなは手をつないで歌い踊って大団円を迎える。
 配られた授業案には、目的として「生徒が身近な自然に親しむこと」と記されていた。

 海外を回っていると、様々な場面でフィリピンの芸能力の高さを眼にする。世界中のホテルの綺麗なバーで演奏し歌うフィリピンの人たち。そんなフィリピンの人たちのパフォーマンスの高さは、こうやって小学校時代から培われていくだなぁと思わせる、その理科の授業での生徒たちの堂々たる演技だった。一緒に授業観察していた地方教育事務所の指導員は、生徒たちの手作りのお面と踊りの完成度を褒めた。

 けれど、理科の授業としてはどうだろう?子どもたちの作ったお面は、自分たちで植物や昆虫を観察して作ったものではなかった。植物が光合成を行い、その生産物を蝶やミツバチが食物とし、さらに肉食のカマキリが蝶やミツバチをエサとする。そういう食物連鎖につながるエピソードも語られてはいなかった。何よりも、ぼくには植物や昆虫の擬人化が気になった。

 幼い子どもたちの発達の過程で、知識がいくつもつながり組織だっていくことで可能になる「推論」を通して「素朴理論」と呼ばれる原理、まだそれほど厳密なものではないけれど、が子どもには作り出されていく。たとえば、植物も動物も、人間と同じく生きている。けれど、花が話すことはないし、昆虫が歌い踊ることもない、というのも「素朴理論」のひとつだ。そして、理科教育ではこの素朴理論を基に、科学理論を積み上げていくことが大事になる。
 ところが、擬人化は、むしろ子どもたちの持つ「素朴理論」を壊すことになる。特に幼い子どもたちにとって擬人化は好まれるだけに、あえて理科の授業のなかで植物や昆虫を擬人化してあつかうのは良くない判断だと、ぼくは思った。(もちろん、物語の中での擬人化を否定するわけではありませんよ。)
 しかし、この考えは、理科を専門とはしない小学校の、ましてやフィリピンの先生たちの文脈にはなかなか合わないだろう。

 理科の視点からの疑問はぼくの頭のなかで渦巻いて、授業後にどうコメントしたものか、とても迷った覚えがある。

 こんなとき、やはり、否定することはまず避けるべきだと思う。しっかりと誉めてあげなければ、せっかくがんばって授業を作った先生を傷つけることになる。

 さらに、ぼくが持っている理科の文脈で語っても、それはフィリピンの先生たちの心に届かない可能性がある。例えば「理科教育における擬人化の問題」について語り、あるいは「食物連鎖」の観点から、カマキリが蝶やミツバチを食物として捕らえるストーリーを入れることを提案しても、それはフィリピンの先生たちのリアリティからは遠い可能性があると思った。

 実際の状況を省みると、その後、どれだけ継続してその先生たちに関われるのかも、何を言うかには大いに関係する。その後も何回もコミュニケーションがとれ、“指導”できるのかどうか。継続して関われないのに、相手が消化できないことを伝えるとすれば、それは“支援にきた側”の自己満足に終わってしまう。

 ぼくにとってこのときに大事だったのは、一緒に授業観察をした指導官との意見の共有だった。彼/彼女にぼくの思ったこと、その背景を、どれだけ理解してもらえるか。
 この場合ならば、まず理科とは何か?自然と親しむとは、どういうことか。なぜぼくが擬人化を問題にするのか。低学年にとって、身の回りの自然を“観察”する力をどう伸ばすか。
 そういういった観点から、一緒に観察した授業を振り返ったとき、何が問題となり、どう良くしていく可能性があるのか。
 実は、このとき実際どんなコメントをしたのか、思い出せない。コメントに困ったことだけが、強く記憶に残っているんだ。
 今ならば、指導官との協議・意見交換をするためのいい題材をもらったと判断して、その場では思いっきりその授業の良かったところを強調するぐらいでいいと思っている。

 どれだけ、相手の“リアリティ”に届く支援をするか。それ抜きに実のある支援を実現することは難しい。支援する側に「伝えたいことがある」のは当然だ。けれども、伝えたいことをどう伝えるかは、けして簡単ではない。支援する側は、徹底的にそのことを肝に命じなければいけないと思う。実際、自分の経験を振り返れば、自分の「伝えたいこと」が前に出すぎていたことが多かったことに、赤面する。

 理科の支援では、理科実験が支援の肝になることも多い。けれど、途上国で理科実験を紹介する支援を数多く見ていると、相手(支援される側)の“文脈”あるいは“リアリティ”ではなく、支援する側の“文脈”、“リアリティ”で支援のストーリーが展開しているケースが多いように思える。
 短時間の関わりで、相手の文脈やリアリティを知ることは、もちろん簡単ではない。でも、支援前に、できるかぎりその社会の情報を集めるのは当然の態度だと思う。直接関係する分野でなくとも、支援先のことに触れた本などを手にとったほうがいい。子ども向けの絵本なども、貴重な情報源だ。

 理科は世界共通。まずその概念を疑ってかかるところから、理科支援をする側は始めるといいんじゃないかな。

1件のコメント

都築です。今日書かれたこの内容にはほぼ全面的に共感します。自分自身も、関わりの時間がまだ多くないですが、先方の文脈を理解し、自分がこれまで日本でやってきた文脈とを付き合わせながら、先方に従ったり、折り合いを付けたり、こちらの文脈で進めたりすることを選びながら支援活動をしていくことが必要だと考えています。以前、「宣教師が熱帯の人に靴を履かせるような押しつけはしない」と書いたのは、全く「相手の文脈を理解し尊重する」と同じことを行ったつもりでした。

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