前回の投稿後、でも書ききれなかったことが気になっていますので、同様のネタでもう一回。今回は、尊厳、でもそれもかなり人それぞれじゃん?、さてどうする?という話です。
障害者の権利が社会に認識されるようになった歴史はまだまだ最近のこと
前回の投稿で、川内美彦著『尊厳なきバリアフリー 「心・やさしさ・思いやり」に異議あり!』(現代書館 2021)という本を紹介しました。1953(昭和28)年生まれの川内さんは19歳のときに頚椎損傷を得ていますから、それは1972(昭和47)年ごろとなります。2022(令和4)年の現在から振り返って、川内さんが障害を得た50年前とはどんな時代だったのか。
障害関連の投稿で、私がときどき取り上げる横塚晃一さんや横田弘さんら日本脳性マヒ者協会「青い芝」神奈川連合会が、脳性麻痺を持つ子どもが母親に殺された「川崎障害児殺し」での減刑を求める世間の動きに反応して「脳性麻痺児は殺されても仕方がない存在なのか?」と問うたのは1970(昭和45)年です。さらに、彼らが障害者の搭乗を拒否した川崎市営バスおよび東急バスに対して身体を張った抗議行動(川崎バス闘争)を繰り広げたのは1975(昭和50)年でした。バリアフリーや、ユニバーサルデザインといった考えがまだ生まれる前の時代です。
あるいは、重度の身体障害者、知的障害児・者、重症心身障害者を対象とした東京都の複合施設である府中療育センターの移転問題を機に起こった障害者の権利を求める運動(府中療育センター闘争)は、1970(昭和45)年に始まっています。このときの交渉で、東京都側は「(障害者)本人の移住の自由よりも公共の福祉が優先される」と公言しています(杉本章著『障害者はどう生きてきたのか 戦前・戦後障害者運動運動史【増補改訂版】』現代書館2008、88ページより)。
21世紀ももうすぐ最初の四半期を迎えようという現在、障害を理由に公共交通の利用を拒否したり、住居者・生活者である施設の利用者が障害を持っていることを理由に、彼らになんの相談・通知もなく療育センターの移転がお役所内だけで決定されたりすることは、もはや許されないことです。
それでも、例えば世話することの大変さ、さらにはそれに伴う貧困問題などを背景にした障害児・者殺しは現在でも起こり続けています。その際に被害者である障害児・者ではなく、加害者である保護者や介助者に対して「かわいそう」という同情の声が上がるのことは、現在でも起こり続けています。
「働かざる者、食うべからず」という物言いがあります。Wikipedia日本語版によれば、この言葉が広がるその源は、キリスト教新約聖書に出てくるキリストの発言ということらしい。ここでの「働かざる者」とは、「働けるのに働こうとしない者」であり、働きたくても働けない弱者のことではないと解釈されているそうです。
さらには、ロシア革命の指導者であるレーニンも社会主義の考え方として「働かざる者、食うべからず」という主旨のことを記述しています。この場合の「働かざる者」とは、労働者から搾取する資本家たちを指していました。
そして、21世紀、この「働かざる者、食うべからず」は生産活動を行えない弱者や、さらには生活保護を受けている人たちを揶揄する言葉としてよく登場します。真面目に働いて税金払っている人がいる一方、社会福祉の保護を受けて楽して生活している人たちがいる、という論法で、「働いていない人」「保護を受けている人」を責めるという文法があちこちで使われています。
つまり、生産性の罠は以前から、そして今もなんら変わることなく私たちの社会をむしばんでいる。
そして川内さんは、障害者の権利が(今以上に)まだほとんど認められていない時代から、バリアフリーが整備されつつある一方で障害者ら弱者への風当たりも止むことのない現代までの半世紀の目撃者です。その彼が、最近の日本社会での障害者への関わりを批判して『尊厳なきバリアフリー』という著作を世に出したのです。
尊厳とは何か・・・・改めてしっかり考えてみると
川内さんは「尊厳」と言葉を説明する際に、「自己決定」という言葉を使っています。例えば以下のようにです。
たとえ自分でできないことが多くあったとしても、何をどうするか、誰にその実行を任せるかを、自分で決めて実現していく。自分の暮らし方の決定を人に委ねないことこそ自己決定による「自立」であり、これは人としての「尊厳」の問題なのである。(前掲書 15ページ)
さらには「やさしさ」や「思いやり」という健常者多数社会からの障害者に向けられる視線と対比される形で、「尊厳」と「人権」をペアにして取り上げています。その背景には、国連が定めた障害者権利条約(日本政府は2014年に批准)の第一条〈目的〉の文章があります。
障害者権利条約 第1条 目的
この条約は、すべての障害者によるあらゆる人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し、及び確保すること並びに障害者の固有の尊厳を促進することを目的とする。(攻略)(前掲書 19ページ)
川内さんにとっては〖「あらゆる人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有」を求める自己決定〗こそが「尊厳」なのです。だから〖「あらゆる人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有」を求める自己決定〗にブレーキをかける他者からの行為は、たとえそれが「思いやり」や「やさしさ」という好意に基づいたものであったとしても、断固拒否しなければならないことになる。
その一例が、前回の投稿で紹介した空港のでの事例(危険とも思われない傾斜の通行を止められ、必要とは思われない介助を強いられたケース)なのです。著作『尊厳なきバリアフリー』の中には、これ以外にも川内さんの尊厳が損なわれた事例がいくつも紹介されています。
たとえば、駅でホームへの移動や列車への乗降の介助サービスについて川内さんは触れています。ホームと車両ドア間に簡易スロープを渡してくれることが最近はよく見かけますよね、あれです。あのサービスは現在では多く行われているけれど、あれ多くの場合、依頼から実施までの時間がなかなか読めません。この「時間が読めない」というのが、自己決定を妨げる、つまり尊厳にかかわる問題になるのです。特に大規模駅ではその傾向は顕著で、私自身の経験でも30分超えて待たなければいけないことはよくあったのです。健常者がどんどん改札を通っていくのに、自分はただ待つしかない。いつ介助サービス担当者が来るかはまったくわからない。あれは嫌なものです。(待つのが嫌で、最近私はあのサービスを使うことはめったにありません。エレベーター整備のおかげでホームにはたどり着けるし、ホームと車両間の段差が大きい場合は、周りの人に支援を呼びかけます。そっちのほうがずっと早いからです。)もしあなたが健常者だったら、「お待ちください」と言われてから30分以上、なんの説明もなくただ待たなければいけないという経験はほとんどあり得ないでしょう? 小さいことだけれど、あれも尊厳にかかわることなのです。
今ほどバリアフリー化が進んでいなかった川内さんが若いころには、「おみこし」と川内さんが呼ぶ駅員4名に車イスを担がれて階段を上り下りする介助が多くの駅で必要でした。おみこしされる心情を川内さんは次のように書いています。
担がれている間は、しばしば周りの人たちからは好奇の目で見られ、さらに自尊心が傷つけられる。担がれ運ばれるのはモノではない。感情のある生身の人間なのだ。(前掲書 84ページ)
人間だから当然、尊厳を持っている。担いで運ぶ人に完全に依存させられ、モノのように運ばれ、周囲からじろじろと見られたり、恐怖の体験(村山注 運ばれる途中で落とされる危険のこと)をさせられたりするのは、人間としての尊厳を無視した扱いである。(85ページ)
あるいは、新幹線の予約にまつわるあれこれ。詳細はここでは書きませんが、つまり“普通の健常者”が受けられるサービスが、障害者に対しては提供されない、不便なままの状態が長い年月放置されているような状況があります。公共交通機関が障害者への「不平等」な状況を(おそらく優先順位が高ければ改善できるにもかかわらず)放置し続けるのは、平等を促進することを謳った権利条約に反しているわけです。そんなことに直面するたび、川内さんの尊厳は傷つく。
尊厳、いろいろ
前回の投稿を読んだ方から次のようなコメントをいただきました。
「(空港の傾斜の事例を受けて)私も同じ経験をしたことがあります。この程度の傾斜なら前向きで降りても良いと思うことはありますが、やはり飛行機会社のスタッフに後ろ向きで移動させられました。それでも、川内さんのようにそれを拒絶はできませんでした」
はい、私もそういう経験よくあります。小さなことで言えば、エレベータに同乗してくれる人が降車時に押してくれる開くボタン。これ川内さんも著書の中で触れていますけれど、ボタンを押すことでこちらの車イスの移動経路を狭くしてしまっているケースが多いのです。「先に降りてください!」と、相手のメンツをつぶさずにいかに陽気に伝えるか、毎度苦心するのです。
一方で、私自身は自分の尊厳が大きく損なわれた経験……、すぐには思いつかない。
そういえば、以前、車イス者ひとりで搭乗することを成田空港の搭乗手続きカウンターで拒否されたことがありました。コロナ禍で、あちらにはそれなりの理由はありましたけれど、けれど私には本質的な問題とは思えないことでした。あれは…尊厳の問題だっただろうか? とにかく、時間の浪費等も含めて涙がでるほど悔しいことではありました。
川内さんの自尊心が傷ついた駅での「おみこし」、駅に限らず私も同様におみこしされたことが各所であります。あれはね、私は特に自尊心は傷つかないんですよね。少々怖いのは確かですけれど、もうそこは委ねた以上は任せるしかないわけで、あんまりびくびくしてもどうしようもない。でね、つまり私はかなり堂々と運ばれてしまいます。殿様状態的気分。
そのほかでも、どうやら川内さんと私とでは、自尊心が傷つく状況が必ずしも同じではないようです。先に紹介した方の事例(大した傾斜じゃないけど、後ろ向きに移動させられた)も、この方の尊厳が傷ついたかどうかは不明です。「わざわざ後ろ向きにしなくても、前向きで平気なのになぁ」と思うぐらいで済んでいるのかもしれません。
さて、この個々の感覚の違いはどのように考えればいいでしょうか?
ひとつの仮説は、川内さんにくらべて私は“奴隷根性”が染みついている、です。多数者・強者に遜り、彼らからの「思いやり」「やさしさ」というお恵みをもらうことに慣れさせられ鈍感にさせられた者、それが私である。障害者の権利獲得の意識の高い川内さんは、奴隷根性に毒されることなく生きてきたので、尊厳の問題にも敏感なのだ。
このダメな私、優れた川内さんという仮説は、その意味を反転させることも可能です。つまり、川内さんは過敏すぎる、というように。彼はそんな意見があることに自覚的で、だから自らを頑固もの、瞬間湯沸かし器と揶揄してみせる。反転させた文脈でいえば、私はまぁ世渡り上手ということになりましょうか。
しかしですね、「頑固者」「ひねくれ者」の一見空気読めない抗議・要求がどれだけ世界の弱者の権利を前に進めてきたかという歴史を知れば、どうしたって川内さんを過敏すぎるとする「意味の反転」を許容するわけにはいかないと私は強く思っています。つまり「意味の反転」はダメ、できない。それこそ他者(強者)にオモネル奴隷的態度だ。
ただ、じゃぁ私が「奴隷根性」の持ち主か。黙って余計なお世話をありがたがって受けるのは、ダメなのか。ここは簡単には言えません。もしかしたら、川内さんが気にしないことでも、私にはとっても気になってしまうことがあるかもしれない。その場合、私の尊厳は傷つくけれど、同様の場面で川内さんの尊厳は傷つかない。そういうことはきっとあり得ます。
その際には、今度が川内さんが奴隷根性なのか? そういう考え方は、なんか嫌らしい気がする。尊厳、人それぞれ、ってことで理解すればいい。
さらに、いろいろと勉強することで、これまで気にならなかったことが気になる、つまり「権利に目覚める」ってこともある。それはそれで、素敵なことです。
加えて、人間ですから、同じことでも気になるとき、気にならないとき、ありますよ。むしろそれが当たり前。だから「尊厳」のスケールはいつも伸び縮みしています。
キーワードは「自己決定権」か
つまり何をもってして尊厳を損なわれたと感じるか、これはよくよく考えれば考えるほど、なかなか一筋縄ではいかないように思われます。たとえば、障害者だけではなく、同じことはジェンダー(社会的性差の役割)でも同じようなことが起こっている。
「さすが、男らしい!」と言われて、うれしく思う人もいれば、イラっとする人もいる、というように。
昨今話題になっている、理不尽校則なども似ているところがある(ブラック校則という言い方がされていますが、ブラックイズマター#なんて言い方がなされるときに、ブラックを良くない形容詞として広く使うのはどうしたってセンスなしだとおもいます)。同じ校則でも、「まぁいいか」という消極的容認派もいれば、「不良化を防ぐ」「品行方正」などに価値を見出す積極的支持者もいる。けれども、自分の髪型や服装を自己決定できないという点では、あきらかに人権問題で、理不尽校則が苦しくて仕方がない人がいるのは間違いありません。
そういえば、夫婦同姓もそうですよね。あれも自己決定の否定です。だから別姓を求める声は高まりつつある。でも、同姓支持派はなかなかしぶとい。「同姓にしたい人は、それでいいですよ、別姓にしたい人だけそれが選択できるようにしましょう」ですら、許せない。あれも、他者の尊厳の否定だ。
川内さん的に言えば、尊厳を否定する人たちに対して「寛容」を求めるのは間違っています。うん、確かにそうだよね。これはもうルールの世界の話です。校則が緩くなるのが嫌だろうと、夫婦別姓に忌避感があろうと、理不尽校則や夫婦同姓の強制を認めるのはルール違反なのです。個々の内心など、関係ない!
でも、では具体的には校則で髪の毛のスタイル規制をどこまで認めればいいか?一切必要がない、と私は思うけれど、おそらく「学生らしいスタイル」ぐらいは書きたいという人も少なくないだろう。
他者の尊厳を重視していくと、きっと「きりがない」という声もあがってくるでしょう。人によって一様でない尊厳ひとつひとつに対応するのは、簡単じゃないよ、なんてことになる。
おそらく、それぞれの「尊厳」に関する主張を、川内さんが挙げている「自己決定」をキーワードにして検証することはとても大事なのでしょう。そして、自己決定同士がぶつかるような事例は、そうそうはなさそうです。たとえば介助では、かならず介助される側と介助する側がある。この場合の自己決定は、介助される側にあるのは明確です。「私は、私の自己決定権を行使して、あなたをこのように介助したいのだ」は、自己決定として通用しない。
さらに、おそらく「集合名詞を使った自己決定権には要注意」という予感も私にはあります。たとえば「日本国民の自己決定が妨げられるような外国籍者の参政権は認められない」というような。この場合の日本国民も外国籍者も、個々に解体されるべきではないか。そして、個々の自己決定が重要視されるべき。となれば、すべての住民に参政権があればよい、となります。
とすると、「障害者の権利」の障害者は、複数名詞ではないのか? うん、きっと違う。これも嚙み砕けば、「個々の障害者の権利」という意味じゃないかしら。だからここでの障害者も、権利・尊厳の問題は個々に解体されたうえで解釈していくしかない。そういうことなんじゃないかなぁ。
奴隷根性を持つ者が気が付けない「社会が隠ぺいしている権利」についてはどうする?つまり本人は「まぁ現状維持でいい、現状維持でありがたや」と思っているとして。
歴史に学べば、これも未来永劫変化しないということはない。人は変わる。啓蒙する人もいれば、その影響を受ける人もいる。先頭を歩く人は雨に濡れる。川内さん的な人たちがそうだった。けれども、実は川内さんだって、啓蒙されています(彼は米国で暮らした経験が彼に大きな価値観の変化をもたらしたと書いています)。
この「啓蒙」のリレーの列は長いんだねー! そして、おそらく列のどこに並んでも「雨に濡れる」。だって、あなたの後ろにも誰かが並ぶんだから。
他者の尊厳を尊重することは、面倒くさいことなのです。でも、それは仕方がないんじゃないかしらね。とにかく、しぶとく考えようと思います。

















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