残り時間の勝負について

プノンペンの中心地に位置する公立学校の中に、人工芝のグラウンドがあり、そこでプノンペン硬式野球部(プノンペンゴールデンバッツ)のメンバーがいい汗流しているのです。(本文とは直接の関係はありません)

小三治さんが亡くなって思う、自分の残り時間

 柳家小三治さんが亡くなりました。数日前には、高座に上がり声も大きく元気だったそうです。きっといつものように長いまくらとすっきりした古典落語を披露したのでしょう。その数日後の急逝ということです。ある意味、あっぱれ、羨ましい最後だったと多くの人が感じられているんじゃないでしょうか。

 自分には、あと残り時間はどれぐらい残っているのだろうと、ときどき思います。ウルトラマンのカラータイマーは残り3分を知らせてくれますけれど、でも3分前に判ってもなぁ。そういえば、先日の震源地千葉、最大震度5強を記録した関東地方直下型地震では、地震前に激しく地震警報アラームが携帯電話から響き渡ったそうですね。あれ、確かに「うむ、地震がくるのだな」という心構えはできますけれど、その前にやっぱり警報アラームそのものにドッキリしなくてはいけないわけで。無駄とは思いませんけれど、でもじゃぁどれだけ何に役立っているのか?アラームでドッキリと、地震でドッキリと、いかほど違うのか?

 あんな直前の警報で、地震に対して何をどう対応せよというのかという声もあるようですけれど、おそらくあのアラームで身構えることで、倒れる家具から身を守ったり、赤ちゃんを抱きかかえたりという利点はきっとあるのでしょう。
 一方で「直前すぎて、どう役立てればいいのか?」という疑問があるとして、では、どれだけ前の警報なら役立つというのか? 30分前なら、危険な場所にいる人はより安全なところに移る余裕はできるでしょうか。多少の余裕が生まれることで、地震によるパニックを抑えられるだけでも効果はあるでしょう。
 半日前ならどうでしょう?朝には「午後には大きな地震が起こる可能性が高いです」とお知らせが流れる。そのニュースを知らせるアラームもあんな緊急性をアッピールするものではなく、もっと和やかなものになって、「地震注意報第一報をお知らせします」と。30分毎に第二報、第三報と流れ、本震の数時間前には「注意報は今後警報となります」と代わり、「予想時刻には誤差がありますので、今後はいつ起きてもおかしくありません」となり、やっぱり直前には「警報アラーム」が鳴り響く。うーん、これ、心構えはできますけれど、ものすごく落ち着かない1日でありますね。仕事どころじゃなさそうだな。

 早めの地震注意報が可能になったとして、そうなれば病院や介護施設、保育園や学校、さらには各関係役場ののスタッフが、注意報発令からどれだけ苦労されるのか、想像すると目が回りそうです。その他、公共交通は安全を期して早めに止まりそう。警報発令後は、飛行機の発着もダメかな。とにかく、地震予知が半日前には可能となったとしたらしたで、その対応で人々の暮らしは地震前からかなり混乱しそうですね。

 地震ですらそうですから、人生の残り時間があんまり明確にわかっても、やっぱり困惑することが多々ありそうです。
 残り時間、20年ぐらいです、ならいいけれども、「あと3日ほどで、あなたの生命活動は停止します」と言われてもねぇ。その段階でそこそこ元気なら、奮発して鰻でも食べるかしら? すでに床に伏せてそれなりの日時が経っていれば、やれやれ期日が定まりほっとした、って思うかな。
 個々の「残り時間」つまり「XDay」が決まったとしても、その社会的影響は権力者でもない限り、通常それほど大きくはないはず。電車やバスは止まらないし、特に避難が必要な人もいない。ただ当人の周りの人や家族にとってはXDayが近づく日々というのはどういうものだろう。明日が彼/彼女の去る日とはっきりわかってしまうとしたら…。それはそれで、やるせないだろうか。

 いたいや、小三治師匠の突然の訃報に触発されて、なんともつまらないことを書いてしまいました。どうやらXDayがはっきり分かるとしても、当人だけが知っていればいいことのようですね。周りに知らせることは多くの場合回避していいのかなと、思う。

八〇歳までは生きなくては!(ローンがあるのです)

 さて、自分の残り時間。ぼくは今57歳なので、そうね、確率としてはあと20年ぐらい残っている可能性が五分五分ぐらいか。
 私事で恐縮(するぐらいなら、こんな内容のブログは書かないのだけどね)ですけれど、浅草の滞在地を確保するにあたって、生まれてはじめてローンというものを組んだのです。そのローンが払い終わるのが80歳のときなのですよ。まだ23年も先のこと。

 ここで障害者の抱える問題への理解促進のために、ちょっと横道にそれます。
 通常、住宅ローンを借入時の条件として、団体信用生命保険への加入が求められるんですね。お世話になった不動産会社のスタッフが「だんしん」が云々と言っているのがこの団体信用生命保険の「団信」であることを、ぼくは最初わかりませんでした。だんしん? なんのこと? もちろん、すぐにその場で「だんしん、ってなんですか?」と聞きましたよ。なるほど。もちろん入ろうと試みました。
 ところが、脊髄損傷による下半身完全麻痺、障害者手帳1級というので、そのローンで入れるはずの団信からは門前払いを食うことになりました。幸い、団信なしでもローンは組めたけれど、残念ながらローン支払い終了前に死んじゃえば、借金は残る。団信に入れなかったことを伝えると、「生命保険に入っておけばいいですよ」と不動産会社の若人は白い歯をキラリとさせて言ってくれました。なるほど、生命保険ね。

 しかしながら、再度の「ところが」でした。だめだめ、どの生命保険もやっぱり障害者手帳1級を正直に伝えると、そこで交渉終了!「残念ながら」ということになるのでした。なるほどね、障害者になるってのは、こういうことかと、改めて学んだわけです。

 以前にもこのブログで書いたとおり、ぼくの障害は業務中の事故と認められて、労働災害保険(通称、労災)が適応されました。その結果、事故当時の給与の8割ほどの額が支払われています。これは、本当にありがたい。東を向いては拝み、西を向いてはお礼し、北を向いてはお礼し、南を向いては拝む、というぐらい、ありがたい。
 ぼくの働き方は、これまでずっと「自由業」に近い雰囲気がありました。自慢ですけれどぼくはボーナスというものをもらったことがないんです。そんな自由業に近い働き方で、それでもいろんなご縁があって、収入を「月給与」という形にしてもらっていたことなど、障害を得てから振り返れば、かなりツキがあったと思います。
 労災となったのは、朗報だったのですけれど、でも、そうかぁ生命保険はむずかしいかぁ。ローンの団信もダメ。つまり次の大きな「災害?」への対処は、障害者はかなり脆弱な状況なわけです。健常者ならば問題にならない事項で、障害者は家族に資産も残せない。

 というわけで、今のところ、ぼくは「八〇歳までは生きなければ」と思ってはいるのです。もしXDayがその前にくるなら、死後のさまざまな準備のために1年ぐらい前にはそれを知りたいなぁ。

野望 カンボジアのブルーバックスを作る!

 さて、じゃ、20年残っているとして、何をするか。それはね、いろいろ予定が詰まっているのです。

 一番大きな野望は、カンボジア語で本を書くこと。一冊書くというよりも、自分で書くことも含めて、カンボジアで理科本シリーズを出版できたらと思っています。大それたイメージを書けば、カンボジアのブルーバックスの創設です。(ブルーバックスというのは日本の講談社が発行している理科学に特化した新書シリーズです。1963年に創刊され、現在まで2000以上のタイトルが世に出ています。)

 さて、このアイデア、上手くいくかなぁ。最近、日本では出版業界はかなり斜陽産業?という印象もありますよね。特に紙の媒体、つまり紙の本、はどんどんその需要が減っている。そのうち、本は紙ではなく、電子媒体が主になるかもしれない。

 そんなご時世の中、でも、ぼくは本は未だに紙で読んでいます。そして、カンボジアのブルーバックスも、もちろん電子書籍も考えなければいけませんけれど、でもぼくは紙の本での出版を第一に考えているのです。
 もちろん、悲観論は山程ある。そもそもカンボジアの本文化は脆弱です。人々は本を読みません、買いません、だから売れません。著作権?なんですか? インターネットには、自炊したと思われる本のコピー(自炊というのは、紙本を自分でスキャンしたり写真をとったりして、電子情報化してしまうことです)がよく流れます。街のコピー屋に持ち込めば、一冊そのままコピーしてしっかり製本もしてくれます。そんなふうですから、本を書いて作って儲けが出るのか、というのがまず大問題です。儲けが出なければ、そんな事業は長続きしない。

 そんな悲観論の中に、僅かな希望もあります。それは、カンボジア社会がようやくたどり着いたように見える平和な日々です。その結果、若い世代の中に、本を手に取る人たちが生まれつつあるのです。さらに、中間層の拡大と教育への(ちょっといびつな)関心の高まりがあります。「ちょっといびつ」と形容したのは、教育の目的がどうしても学歴という資格競争に偏っているためです。勉強そのものの魅力、新しい知識を得る喜びや、さらなる探求・研究つながっていく本来あるべき(そしておそらく世界中の学校教育がその域に達しきれない)教育のゴール/目的と、カンボジアの人たちが教育に求めるものとは、やっぱり乖離があるように思えるのです。

 それでも、カンボジアではようやく本を手に取る喜びを知る人が生まれつつあるんじゃないだろうか。特に意識するのは、20代10代の世代、特に都市部の中間層の子息たちです。5ドルぐらいの値段であれば、本を購読してもいいと思う人たちは、きっと育ちつつある。
 40代50代にとっては、本を購入するというのは「もったいないこと」でした。どうしても必要なら、コピー本で済ませればいい。日本に留学したカンボジアの学生に対しての日本の大学の先生方からの評価のひとつは「彼らは本を買わない、読まない」です。「英語で書かれた専門書(日本語の本は読めない留学生がほとんどですから)を紹介しても、購入する子はほとんどいない」とある大学教授は悔しがるのです。ゼミの教科書で使うとしても「大学図書館から借りて、必要なところだけコピーする」のだそうです。「ちゃんとした専門書を座右の本として、一生大事に読み込んでほしいのだけれど、本を購入して帰国する学生はほとんどいないんだよね」。

 カンボジア語(クメール語)の本はますます少ない。もちろん、ここにも教育を否定したポルポト時代の影響が大きく残っています。まず、書き手がいなかった。さらに、80年代には、紙さえ不足していた。ぼくがカンボジアで仕事を始めた2002年、本屋の棚にならぶクメール語の本はほんの僅かでした。またそんなクメール語の本の多くが、翻訳本でした。
 カンボジアで理科の教科書を作るというのは、英語で書かれた理科の本を翻訳してパッチワークのように組み合わせるという作業と同義でした。オリジナルに文章を書いて作られた理科関連の教科書の存在を、今までのところ、ぼくはまだ知りません。

 今、プノンペンにある大きめの本屋さんに足を運べば、クメール語で書かれた本は20年前と比較して数十倍はある印象です。特に増えたのが、児童書です。児童書のなかには、まだ半数は翻訳ものですけれど、でもカンボジアのオリジナルものも増えています。

 で、私がイメージする理科本シリーズも、カンボジアの人に向けてオリジナルに書かれたものです(オリジナルが海外でも、それをカンボジアの人向けに翻訳したものを含む)。といっても、理科本ですから、そのコンテンツの多くは世界共通の理科ではあるのです。でも、そんな世界共通の理科コンテンツを、カンボジアの読者のために書く。そこが大事だとぼくは思っているのです。理科というコンテンツを、カンボジアの人のために翻訳するということです。ここでの翻訳は、日本語からクメール語、英語からクメール語という意味に留まりません。

 たとえば、以下のような事例です。
 クメール語では、「風」と「空気」は、どちらもខ្យល់(クチョール)という単語です。「空気の約80%は窒素で、約20%が酸素です」という日本語を翻訳したとき、クメール語では「風の約80%は窒素で、約20%が酸素です」と読まれてしまう可能性があります。
 あるいは、クメール語では「土」も「土地」もដី(ダイ)という言葉を使います。Google翻訳では、「土壌」も同じくដីと訳されました。 「激しい風がふきあれて、その土地の表面を覆った肥沃な土壌はほとんど吹き流されてしまった」をクメール語に直訳したときに、それを読んだ読者、こちらが期待するように読んでくれるかどうか?

 カンボジアでは中高校の生物を含む理科の先生でも「ガラパゴス諸島」という単語に親和性がありません。ダーウィンの進化論への理解が浅い先生が多いからです。ですから、もしダーウィンの進化論を記述する際にガラパゴス諸島に触れるとすれば、日本の人向けに書くよりも丁寧に記述したほうがいい。

 つまり、もしぼくが理科本を書くとして、例え日本語で書くとしても、日本の若者向けに書くのか、カンボジアの若者向けに書くのかでは、同じコンテンツだとしても、その書きぶり、記述内容は絶対に変わるのです。そういうことも含めた「知識の翻訳」であり、「知識の伝達」が必要なので、それがクメール語のオリジナルというぼくの考える「カンボジア版ブルーバックス」のイメージです。

 おそらく、この野望の成否は、編集力にあると想像しています。広い意味での「編集力」は、カンボジア社会の大きな弱点です(個人的意見ではありますけれど、ね)。この場合の編集力とは、成果品の意義・対象・役割を強くイメージし、そのイメージに向かってモノを制作し展開していくプロセスマネージメントのことです。狭い意味では、もちろん、文章構成や、校正、デザイン等々、も含まれます。出版業界が猛烈に拡大している日本では、その多くが分業制になっている。けれども、今のカンボジアに必要なのは、なんでも屋としての編集者、編集力です。
 もし野望への過程で、編集力が強化できれば(よい編集者を作り出すことができれば)、きっと夢は達成できるでしょうし、その後の可能性も広がるでしょう。もしそれができなければ、数冊は世に出せるかもしれませんが、それまでです。本を作るということは、それはある程度の数の読者までそれを届けるシステムが必要です。いわゆる流通。さらに収益の回収。新しい技術の利用が早い途上国では、収益の回収としては現金だけではなく、電子マネーの活用もおそらく重要事項でしょう。

 ね、あと残り時間が20年あっても、おそらく大忙しなのです。間に合うのか?
 まだまだ余裕はある気分でいつまでもいると、あっという間に時間切れになりそうです。ここ数年、いよいよムチ入れのときが迫っている。ワクワクします。さて、どうなるのか? 乞うご期待。

ポスト新型コロナに舵を取りたいカンボジア政府、でも今年も水祭りは中止です。

 カンボジアでは、新型コロナ感染者数は、7月ごろの連日千人前後から、最近は連日200人程度に落ち着きつつあります(検査数を減らすことで、陽性者数を低く抑えようとしているという「うわさ」もありますけれどね)。カンボジア政府は、来月あたりには全国の学校を順次再開する方針を表明しました。観光業界も、海外観光客の受け入れを熱望しているというニュースも流れています。市民へのワクチン接種も順調に拡大しています。学校再開と合わせて、広い経済活動の再開をも匂わせつつ、その一方でカンボジア政府は来月に予定されていた国民的お祭り「水祭り(ボート祭り)」の中止を最近発表しました。ぼくの勝手なゲスの勘ぐりで書けば、おそらく政府と個々の政治家には、水祭りを支援するための予算があんまりないのだと思います。だからさっさと中止を決めたのだろうと想像します。

 そんなカンボジアで、ぼくも最近少しずつ人と会う機会が出てきました。先の日曜日は、半年前にプノンペン入りして以来初めて、硬式野球仲間の練習に顔を出してきました。練習といっても6名ていどの集まりで、軽くキャッチボール、トスバッティング、内野ノックという限られたメニューですけれど。でも、やっぱり見ているだけでウズウズしてくるのでした。早く、広いグラウンドで、思いっきりバットを振って打ちたいなぁ(って、ぼく自身はそれを見て楽しむだけなんですけれど)。

 ということで、ではでは、またまた。
 

 
 

 

6件のコメント

 記事の内容を越えて、
今日の記事の体裁は視野が狭くなった小生には
とても読み易かったです。
ありがとうございました。

 カンボジア版 ❝ブルーバックス❞ の構想は素晴らしいですね。
相応のエネルギー(知力、体力、資力、etc.)がいることでしょうが
今までの仕事の集大成の表現の1つとして是非実現されることを期待します。
それが形になる頃には、呆け爺は恐らくもう地上に存在しませんが・・・。

 先月、昔の同僚との急な永遠の別れがありました。
有明にある病院から本人の声で電話がかかったのは9月7日夜でした。
話している数分のうちに意識が混濁してきてまともな話しは出来ませんでした。
緩和棟に転院した当日だったらしいです。
数回、見舞いに伺いました。
妹様から『危ない!』の連絡を受けたのは9月15日未明でした。
未明の東京湾の光の景色は皮肉なほどきれいだった。
妹様に付き添い、ご遺体とその日に帰宅しました。
彼岸の時期で葬儀が遅くなり、9月22日でした。
10月31日に七七忌を行うと先日連絡を受けました。 

 逝くのがいつかと、分かるのも、分からないのも凡人には困ります。
村山さんの計算だと、呆け爺に残される時間はあと5年です。
個人的には、せめて、1カ月ぐらい前に分かるといいなあ。
そうだ、野の花が咲き終わる頃には
最終の終活作業の準仕上げにかからねば・・・。

足を引きずってでも
野に出られるうちは野に出ます。
今日は、高尾に3茎咲いていたアケボノシュスランを
見に行きます。
艶が出たかなあ。

ではまた。

何でも屋の編集力 カンボジアに本当に欲しいと思います。私はクメール語の勉強のため、小学校教科書の理科と算数を少しずつ読んでいます。算数教科書の方には、学年をまたいでちゃんとまとめている編集者がいるのではないかと思います。例えば、小数について、使われている用語や導入の方法は、5年の0.01でも、6年の0.001でも同じです。でも、理科の場合は学年ごとばらばらみたいな気がします。例えば4年では、双子葉植物・単子葉植物という単語について英語をクメール語読みにし、その二つを葉脈の形から区別する方法を教えていますが、5年では、「子葉は2片に分かれている植物と分かれていない植物があります」と、学年は進んでいるのにかえって易しい言葉だけで大豆とトウモロコシの種子の違いを説明をしています。4年の生物分野を執筆する先生と5年の生物分野を執筆する先生2人を前にして守備範囲の確認をする編集者が欲しかったですね。英語を小学校の用語として採用するのはどれとどれ、この言葉はみんな知ってるよね、ということがわかっていれば、ブルーバックスの著者も、(翻訳者も?)執筆しやすいのではないでしょうか。

ono hisashi 先生
コメントありがとうございます。メールで届くブログは読みにくいと思いますので、どうぞそのタイトル部分をクリックしてくださいませ。そうすると、お手持ちのデバイスに適したサイズで表示されるので、読みやすいと思います。どうでしょう???

終活……、やっぱりちょっと寂しい言葉ですね。
先日亡くなった柳家小三治さんは、死ぬ直前まで「死ぬつもりはまったくなかった」とご家族が話されているという記事も読みました。来月以降も高座の予定が入っていて、小三治師匠も楽しみにされていたそうです。
そういう逝き方は、理想的ではありますよね。
とにかく、どんなふうに往くのかもふくめて、はい、その点につきましては私たちはなかなか予定が立ちません。まぁ、だから「終活」なんて言葉も出てくるのでしょうけれど。
残していく身となれば、「こんなもん置いていかれても、残された人たちは困るだろう」と思うのはよくわかるし、残される身とすれば確かにそう処理したらいいか迷うモノも多い。
それでも、あんまり綺麗サッパリというのも、どうなのでしょう、寂しい面もあるのかもしれません。
それに、そもそも予定がたたないわけですから、綺麗サッパリ終活しても、そのあとも長くこの世のお世話にならなければいけないってこともあります。その際に、綺麗サッパリ期間が長いのも、本人もつまらない??かもしれませんし。
先生の日頃のお言葉の端々に、XDayを意識されながら過ごされているのはよくわかるし、それになんとなく共感もありますけれど、はい、先生はあと15年は大丈夫。霊視しました(ウソです)。ぜひ、これからも素敵な写真を投稿してくださいませ。

昔の同僚様の件、寂しけれど、でも直前に連絡が取れたこと、逝かれてしまった方の優しさも感じました。そして、人生は続くよ、でございますよね。最終的には、淡々が美しいし強いと思っております。

ではでは、またまた。

村山哲也

伊藤明子様
いつも読んでいただきありがとうございます。
伊藤さんが書かれている理科のほうが編集が弱いという件、推測できます。きっとそのとおりでしょう。
いわゆる鳥瞰できている人がすくない。その背景には、鳥瞰する必要がないというカンボジアの学校教育システムの問題が浮かび上がってくるように思います。
学年ごとの進級テストが終わってしまえば、もうその学年のコンテンツが必要になることが少ないという状況。(カンボジアに限りませんが)同じ学年だけを何年も続けておしえる先生が多いということ。
想像するに、おそらく教科書の関係部署に算数のキーパーソンがおられるのでしょう。理科は、いない。

「英語を小学校の用語として採用するのはどれとどれ、この言葉はみんな知ってるよね、ということがわかっていれば、ブルーバックスの著者も、(翻訳者も?)執筆しやすいのではないでしょうか。」ここの部分、かなり本質的な問題です。たとえばクメール語表記も、同じ言葉でも人によって微妙に違うことがあります。日本だと文科省のどこどこかが一種のオーソリティとして言葉を規定しているはず。尺貫法などの事例もあり、どこまで親方日の丸が人々の使う言葉を統制するのかという問題はあるとして、それは横に置いて、つまりカンボジアにはそういうオーソリティーの機関と人材がない。理科で云えば、学会がないのも問題です。地球科学の支援をしていて、それを痛感しました。星という単語、プカーイ、は恒星の意も含みます。教科書では、恒星も、プカーイ。でも、惑星も見た目はプカーイで、恒星と区別がつかない。だから、プカーイという言葉ではなく、ちゃんと恒星と惑星と使い分けようとしたときのこと。でも恒星もプカーイだと。「恒」の字がつくプカーイがないと、先生方はおっしゃる。じゃ、なければ作ろうと。冥王星の準惑星も、新しい言葉なので、じゃ、作ろうと。
でも、作っても、本当にそれで流通するかどうかはなかなか微妙だったりします。よそでも別のあたらしい単語を作っている人がいるかもしれない。でもそれを最終的に話し合う場がないのです。
「教科書に載っけちゃえば、そっちが優先されるよ」なんて乱暴な会話を繰り広げたものです。ブルーバックスの著者も翻訳者も、柔軟にそしてどこか強引にやっちゃうことを求めないとものごとは前にはすすまないと思ったりもしています。そして、そのことが問題になれば、それはそれで「動機」が生まれるきっかけになるはずで。
ちなみにブルーバックスプロジェクトには、個々の協力者は別にして、正式に教育省と協力することはしない!と考えています。お役所がからむと、ものごとをすすめるのに時間がかかってしまうのが常なので。もはや私も個人なので、ゲリラ戦が基本です。

いやいや、道のりや長し。やはりこちらの生命的限りのほうが、いろいろな問題解決よりも早く来ちゃうのは仕方がないことのようでして。

村山哲也

衣 御大様

はい!強力なお仲間がいてとても心強いです。
まずは、御大の、「任務終了、元気」の報を、ゆっくりゆっくりと待ちたいと思います。
成功例、ぜひよろしくお願い申し上げます。ホントに!

村山哲也

コメント、いただけたらとても嬉しいです