価値とか意味とかから、自由な生活

せきたさらい=さんのアコーディオンソロ・コンサート@近江楽堂、東京オペラシティ 新宿初台 2021年3月13日土曜日 ぼけぼけですいません。

さらいさんのコンサート

1人、演奏している、アコーディオン、室内の画像のようです
さきたさらいさんのソロコンサート こちらはさらいさんのFB投稿からコピーさせていただきました。
やっぱり演奏しているシーンをご紹介しないとね。

 2021年3月13日土曜日夕刻、アコーディオン弾き、せきたさらいさんのソロコンサートに出かけてきました。お客さんは30~40人ほどの小ぢんまりとしたコンサートでした。やっぱり生演奏はいいですよねぇ。ヘンデル、バッハというクラシックから、日本の歌謡曲や、アイルランド、ブルガリアの伝統音楽という多彩な音色を楽しみました。
 さらいさんがおっしゃった一言。
「海外の曲によっては、その地では歌詞とともにある。けれども、私はその歌詞の意味がわかないまま、その曲を弾いてしまうことがある。だから、地元の人が聞けば、ヘンテコリンなアレンジメントになってしまっていることもあるかもしれない。でも、それも音楽の楽しみ方としては、ありなんだと思うんです」
 なるほど。たとえば中島みゆきの「わかれうた」。「途に倒れて だれかの名を 呼び続けたことが ありますか 人ごとに言うほど たそがれは 優しい人好しじゃありません」という、凄まじい歌詞とともに、あのメロディがある悲しい歌なわけですけれど、歌詞を抜きにすれば、あの曲を楽しいダンスミュージック調に編曲することも可能なんですね。気だるいレゲエ調もありかも。きっとそれはそれで、曲が新しい生命を吹き込まれたりすることもある。
 そんな音楽の越境もあるのだなぁって、サライさんのアコーディオンを聴きながら、思ったりしたのでした。

売れたほうがいいけど、きっとそれは「生きる意味」とは関係ないよね

 さて、今日のタイトル、「価値とか意味とかから、自由な生活」。生活は、人生にしてもいいと思ってます。「価値とか意味とかから、自由な人生」。最初に種明かしをしてしまいますと、つまりは「価値のない生活」でも「意味のない人生」でも、いいんじゃない?ということが書きたいのです。実は、どんな生活、誰の人生であろうと、実はそこに価値や意味なんてないんじゃない?と、考えてみたいのです。

 たとえばさらいさんの人生。幼いころからピアノに親しんでいた彼女がアコーディオンに出会ったのは大学生のころと直接ご本人からうかがったことがあります(さらいさん、間違ってたらごめんなさい)。彼女は音大の学生さんというわけではなく、大学での専攻は音楽とは関係ないものだったんじゃないのかな(法学部みたいです)。
 でも、アコーディオンに魅せられて、そしてきっとなにかの縁もあって、彼女はアコーディオン奏者として生計を立てるようになっていった。そして、今回のソロコンサートは、毎年開いてきて、今回がちょうど第10回めだそうです。彼女からアコーディオンの演奏を習ったお弟子さんたちもずいぶんとおられるよう。さらに、音楽仲間も増えて、彼らと一緒の演奏の機会も多い。毎月、最後の金曜日には、吉祥寺駅近くのハモニカ横丁で、アコーディオンの流しとして演奏もされている。
 いやー、ステキな日々ですよね。もちろん、アコーディオンを弾きこなすには今でも厳しい練習は欠かせないでしょうし、コロナ禍で予定していた演奏会もずいぶんとキャンセルになってしまう昨今、ご苦労も多いのでしょう。それでも、好きなことに邁進して、食い扶持を得ていく。芸術家として自立し、自律している、彼女の人生、きっと羨む人もいるでしょう。

 それでも、その彼女の生活や人生に、意味はあるのか?価値はあるのか?
 ご本人には意味も価値もあるかもしれない。彼女の演奏を聴いて豊かな時間を過ごすぼくにとっても、彼女の音楽を聞くことに意味も価値もあるかもしれない。でも、どれほどの意味が、価値があるのか?と根本的に考えていくと、意味も、価値も、だんだん曖昧になってくる。もっと多くの観客を集められる奏者もいるでしょう。CDだって、出したり売れたりしたほうが、彼女の意味や価値が高まる、という考え方だってある。
 でも、そんなふうに考えていくと、なにか大事なものが薄まっていくようにも思うのです。より高い価値、より豊かな意味、そんなふうに追求していくことで失われていく心の余裕のようなもの。
 今のままでいいじゃない、価値や意味があろうとなかろうと。アコーディオン弾きにならない人生もあったかもしれないし、アコーディオン弾きになっても、なかなか人に聴いてもらえないってこともあったかもしれない。それはそれで、良くも悪くもない。さらいさんは、さらいさんで、それでいいじゃない。そんな風に考えたいなぁと思うのです。

『生きているのはなぜだろう。』というかなり過激な絵本

 『生きているのはなぜだろう。』池谷裕二作、田島光二絵、株式会社ほぼ日から2019年に出版された本が、今、ぼくの手元にあります。池谷裕二さんは、1970(昭和45)年生まれの脳研究者です。

 熱力学第2法則。エントロピー増大の法則ともして知られる、この熱力学第2法則は、つまり、「分子や原子の運動は、乱雑になる方向に一方的に進む」という事象を説明するものです。ぼくのまわりの事象でいえば、積み上げた本は、なにかの拍子に崩れて床に広がってします。床に広がってしまった本たちが、放っておいたらなにかのひょうしに積み上がるということは、絶対にない。だから、毎度毎度、ぼくは車イスの上という不自由な状況で、床に広がった本をエネルギーを使って積み上げ直さなければいけません。ほぼ毎日やっているこの作業、熱力学第2法則のせいなのです。世界は無秩序の方向に進んでいる、これがこの法則です。今のところ、この法則の否定に成功した科学者は誰もいない。割れた石が、放っておくともとの大きい石としてひとまとまりになることはない、ということの反論を実証した人も発見した人もいないのです。

 で、池谷裕二さんが『生きているのはなぜだろう。』という、子ども向け(?)の絵本で書いているのも、この熱力学第2法則についてです。
 割れた石はけして元の大きな石にはもどらない。けれども、ぼくたちヒトは、指先を怪我をしても、治る。怪我する前と(一見同じ指になったように)もどる。『生きているのはなせだろう。』では、指が治る理由を「秩序」という言葉で表現します。
 『生きているのはなぜだろう。』の中には、こんな一文があります。

 宇宙は、ビックバンという爆発ではじまって、いまもずっと広がりつづけている。
 広がりながら、熱が冷めて、薄まって、どんどん終わりに向かっていく

 そして、水を溜めた洗面台の底の栓を抜くとできる渦が、秩序に則って落ちていく水がより早く落ちるための小さな秩序だと説明するのです。そして、ヒトの、そんな渦のような小さな秩序なのだというのです。

 ぼくというちっぽけな秩序は、宇宙全体から秩序が消えるのを早めているんだ。
 宇宙が、終わりに向かうために。


 生きることでちいさな秩序をつくりだし、
 宇宙から秩序がなくなっていくのを助けている。

 どうでしょう?あなたは、この本に書いてあることに納得することができるでしょうか?

 『生きているのはなぜだろう。』では、この理屈から次の言葉に行きつきます。

 そう、だから生きなくては

 やっほー、そう来ましたか。でも、「だから」って言われてもねぇ、だとも思います。宇宙が老いていくために、物質がばらばらになっていくことを早めるために、ぼくたちは、すべての生物は、すべての天体も、存在している。それを“理由”として説明されても、生きていること、生きなければいけないことを、納得するのは多くの人たちにとっては簡単ではないだろうなぁ。ぼくもよくわかんない。
 そんなことを、この本を開くたびに思います。でも、ビッグバンからすべてはつながっていて、自分もそのつながりの一部なんだ、って考え方は、壮大で悪くないとも思います。想像するだけで、面白いじゃないですか。

「役に立たない」という壁

 『生きているのはなぜだろう。』に書かれていることが、ぼくたちの生活している意味だとすれば、そこに生産性による価値の違いが入り込む余地はないでしょう。それとも、小さな秩序を作り出せる人、たとえば新しい機械や、芸術や、をつくり出すことで、宇宙の老いをほんのわずかでも早められる人が、価値があるという理屈も可能になるかしら。
 それとも、ミジンコ、サンマ、ニシキヘビ、アルマジロ、キリンなどの生き物と同じように、人の生きる意味も、個々人にまで分別せずに理解すればいいことなのか(ここでの登場生物は、『生きているのはなぜだろう。』より、です)。

 この今日のブログの論考の背景には、もちろん心の弱くなった人たちが呟き続ける「生きていても仕方がない」がある。中途障害者や、あるいは生まれつき障害を持って生まれてきた人があるとき自分の“障害”に気づいたときにぶちあたる、「役に立たない」という壁。
 どうやったら、その壁を否定できるかというぼくの問題意識が、『価値とか意味とかから、自由な生活』というタイトルにはあります。

 障害者の存在の意味を語ろうとする際に「多様性」を持ち出す文章もある。生物は種の保存のためには、多様性があったほうがいいという説明の仕方。説明そのものに間違いがあるわけではないけれど、ぼくはこの説明の仕方は好きじゃない。
 だって、理由なんかいらないじゃない、って思うのです。ひとりひとり、健常者が生きている「理由」を問われることがないのと同じように、障害者の生に「理由」をつけて語り理解する必要もないと思う。

 それでいえば、宇宙が早く老いるために、というのは、理由として上げられているけれども、あまりに壮大過ぎて、理由として理解しづらい、そこがいいのだろうと思う。

心弱くなったとき

 心弱くなった人たちがぶつかる「役に立てない」、「迷惑をかける」、「生きる意味がない」、「生きる価値がない」という壁。

 拙著『超えてみようよ!境界線』(かもがわ出版 2021年)では、「価値があるの?」と問うことそのことが、価値の罠にハマることだと書いた。価値という定規に乗せれば、必ず価値の高いと低いは生まれる。だから、価値なんて気にする必要がないってことを証明しなくちゃいけない。
 有力なのは、ひとりの生の価値を、他者と比較することの無意味性じゃないのかな。比較、つまりは競争。比較も、競争も、別に存在してもいい。けれども、生の価値を競争するのは、無理じゃないかな。共通目盛りを作ることは、不遜だということ。ぼくたちは誰一人、他者の価値を評価しうる目盛りをつくり出すだけの、他者に対する優位性など持っていない。

 意味はどうだろう?生きる意味。宇宙が早く老いるのに役立つという意味?でも、そうなれば「どうして宇宙が早く老いる(秩序)ほうがいいの?」という問いが成立しちゃうだろう。
 自分の生きる意味を考えることが無意味だとは思わない。考えたい人は考えるといい。そして、それがその人の人生をより豊かにすることにつながっていけばいい。万が一、自分の人生の無意味性に気がついて、そのことが絶望につながってしまったときの「自死」の問題を、ぼくは今のところ否定しきれない。ただ「他殺」はだめだ。つまり自分の生の意味を考えることは許されても、他者の生の意味を考えることは、先に書いた「他者に対する優位性など持っていない」につながっていて、だからダメってことになるんじゃないかな。

 原始的に、種の保存のためという理由をあげる人もいるだろう。でも、ぼくは人間はそういう古い脳に蓄えられている衝動では生きられない生物に進化しちゃったと思うんです。子どもが欲しいと思うことも、けして本能ではなくて、学習だと思う。「自分の遺伝子を残したい」という思いも、もはや衝動ではなく、学習。衝動を理由に子孫を残す行動は、もはや犯罪になる可能性が高い。
 現実問題として、人々が生殖し子孫を残さなくなったら、ヒトという種は絶滅するだろうけれど、総人口80億を数えようという今日、個々が心配しなくても大丈夫。あなたが産まなくても、だれかが産んでます。

 つまり、あなたが子孫を残していても、残していなくても、どっちでもいいのよ。大した問題ではない。そして、子孫を残している人の価値が高いというのも、政治の話でしかない。

 結局、いきつくのは「意味のない人生」、「価値のない人生」を肯定する価値観を大事にすることなんじゃないのかなぁ。ただ生まれる、それでいい。やがて、死ぬ。それでいい。もちろん、その生と死のあいだの宇宙からみればあっという間の時間に、喜びや苦しみもあって、たくさんの物語もあって、それでいい。それを自覚できても、できなくても、どっちもいい。

 

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