日本の凋落について、ちょっとだけ語ってみること

 メールで本ブログを受け取っておられる方々。ぜひ、タイトルをクリックしてブログの本サイトに飛んで読んでくださいませ。冒頭の写真も見られます。

「これを政治の責任と言わず、なんという?
はまたま、自己中で日本の将来を見通さないで目先の金ばかり見てる、矜持のない政治家を野放しにしてきた国民の責任?」

 多少の上下は起こりうるでしょう。日本の場合、確実に凋落してますからここはちゃんと直視すべきではないでしょうか?
 企業の保身、保護ばかり優先して国民個人を豊かにしようとはしてこなかった。そのくせ、議員の年金や歳費、議員定数といったところは変わらない。
 こういう結果に国民は怒るべきで、それを投票行動に表さないと。そういう意識に走れない国、真の民主主義国家とは言えません。

追記:コメント欄に、このブログを読んでのメッセージもあります。そちらも読んで見てください。

2件のコメント

Mさん(高校同窓の松田修一さん)から、Facebookでこのブログ投稿に対してのメッセージが届きました。こちらに転載します。

以下、松田さんからのメッセージ

Murayamaさん、
プログを拝読しました。僕はブログをやってないのでここになるべく簡潔にコメント書きます。
まず申し上げたいのは、村山さんの言いたいことは自分の中でもおおよそ共通しているので「つまづかないで」ください(笑)。もちろん言葉足らずの文章というか、コメントですから、僕も思いをどう理解しようが、どう膨らませようが、村山さんの自由ですが、おおよその部分では思っていることは同じだと思います。ちょっと誤解されてるかなとか、僕もそう思っているのになあぁと思うところもありましたが、そこは長くなるので書きません。今度日本に来た時に話しましょう。
僕がブログを読んでもう少し申し上げたいことは2点。
一つは、物理的に豊かな国になったにも関わらず、それが心の豊かさに結びつかず、終身雇用が壊れて生まれたのは非正規雇用の低賃金と就職難。組織の中では相変わらずプライベートな時間の中にゆとりがなく、欧米のような長期のバカンスも、定時退社での家族との団欒もままならず、さまざまなことに思考を巡らす間もないほどに窮屈な労働環境のまま。しかも賃金は上がらず、物価の上昇やら税や社会保障費の値上がりで実質の所得は目減りを続け、貧困の格差が広がってしまっているということ。僕のいう”凋落”とはここまでのことを含んだものだということをご理解願いたい。単に数字の上下で言っているわけではありません。
もう一つは、「真の民主主義」とは国民が社会を考え、政治の力の大きさとあり方を考えた上でそれを投票行動に反映させていくことだと思っています。格差社会を広げる一方でぬくぬく自己保身の政治に対し意思表示をせず、投票率が半分に満たず、組織の投票が幅を利かせて単に選挙をやっているから民主主義国家なんだという自己欺瞞的な空気に対して「真の民主主義ではない」と申しました。
基本的人権の尊重を謳うのが民主主義国家の基本であり、国民一人一人の理想やエゴがどうであれ、それを否定してほしくない。政治を選ぶ目は弱者にとって安全/安心な社会のためであってほしい、あるべきだと僕も思います。弱者を追い詰め、発言を奪っていくような政治を認めてはいけない。でも今の国内外の社会では、強い権力や財力を持った人間や組織、そして国家が力にモノを言わせるばかりで歯止めのかけようがない。20世紀の経験を活かせない、これが人類の性であり、末路なのかもしれませんね(ちょっと悲観しすぎですか…?)

松田です。Facebookへのコメントありがとうございます。
村山さんの何かを絶対と言わず、さまざまなありようをさまざまな視点で眺めようということには僕は深く共感を覚えます。
村山さんが転載してくださった上述のコメントに対し、村山さんから下記のようにコメントをいただきました。それに対するコメントをさらに自分のFacebookに書きましたので、村山さんのコメントと共にこちらにも転載させていただきます。

(村山さんから)「でもさ、松田さんが書く広い意味での凋落は、政治だけのせいなのでしょうか?政治よりも、むしろ日本社会の嗜好みたいなところが強く関係しないだろうか?それを打破するのが政治の役目なのかしら? 政府や企業や、そこが上から指導しないと変われない社会だとしたら????それは気持ちいい変化ではない。
その点で、ブログの最後に書いたように、その社会にはその社会にふさわしい程度の政治がある、ということなのではないかしらと思ったりもする。
末路云々ではなく、その社会・多数が選択する生き方?」 

(以下、私からのコメントです。ちょっと長くてすみません)
村山さんのおっしゃる通り、この凋落にはさまざまな側面がありますから、当然その背景や原因を考えるにはかなりいろんな面を考慮・考察しなければいけないと思います。

僕は政治の指導がないから凋落したのだと政治だけに責任を問うつもりもありません。ただ政治の力は大きいです。金も権力も個々で対抗できるものはほぼほぼありません。その責任は重大だし、国民の生き死ににもかかわ るものですが、政治家自身にその自覚は乏しいとしか見えないし、政治家を選ぶことの重さが判っていない国民が多いようにも思います。
「その社会にはその社会にふさわしい程度の政治がある」というのもうなづけますが、「弱者にとって安全/安心な社会」の実現には自分の生活も大事だけど、自分達より生活に窮している、あるいは社会の中で不便な現実に直面している人たちに政治が向き合うことを政治に要求する、そして監視する目が必要です。
日本社会の嗜好いわゆる国民性ですよね、或いは、風土、歴史といったものの上に今の現状がある。それも政治ばかりの責任とは言えないというのは確かですが、かといってそれを考察し理解するだけで留まっていいものだろうか。今の日本の状況は、国民とも共々政治が一と時ばかりの国益やら保身に終始するのではなく、対局的に未来を予見し、悪い結果にならないように策を講じていれば、もう少し良い結果になっていたであろうことが数えきれないほどあります。
この諸々を含んだ”凋落”の現実を私たちが受け止め、より良い方向に持っていこうと思っても、その多くの実現には政治の力が必要で私たちにまずできるのは政治の選択だけです。
今の凋落が許されるのも限界にきていて、政治の選択に対して自律した考えを持ち、それを投票行動に示して少しずつでも変えていかないところまで来ているとは思いませんか。
考えなければいけないことがたくさんありすぎてその中で何を優先して政治を選ぶか迷う前以前に、政治家としての矜持を政治家に求めなければならないというのも情けない話です。
「政府や企業や、そこが上から指導しないと変われない社会だとしたら????それは気持ちいい変化ではない。」というのもその通りだと思います。僕も気持ちいい変化を求めたいです。
ただ、私たちが思うより、政治や企業のトップはずっと策略的、もっと悪く言えば狡猾で、私たちを一定の枠の中に収め、彼らにとって都合に良い社会を作ってきたのではないかと僕は思い始めてます。
個人の自由だとか、ハラスメントを問題視して人権を守る方向に動いているように見えますが、トップダウンとか、生徒が教員の書いたシナリオの中で整然と収まっていることをよしとする風潮は戦前戦後、実は変わっていないのではないかとも思えるし、上に従わなければ放り出される不安ばかりを駆り立てる社会制度はむしろ終身雇用の昭和よりはタチが悪くなってきているようにも思えます。
そんな中で「気持ちのいい変化」とはなんなのか。上と下が同じ方向を向いてということなのでしょうか。現状が村山さんのいう「その社会にはその社会にふさわしい程度の政治」なのだとしたら残念ですが、それが現実のように思うし、"凋落”は加速度的に進み、どこでその歯止めがかかるのか、わからない状況だとすら思います。
「社会・多数が選択する生き方」はそれぞれの国や地域で違っていて当然で、これが絶対というものはないと思いますが、現状を見る限り「弱者にとって安全/安心な社会」実現のために、政治へ国民の目が向かっているとは思えないのが残念です。

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