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高校の同窓Mさんが《世界の平均年収過去40年の推移 Facebook》というデータと共に以下の投稿をFacebookの場にされたのです。(下線付きFacebookをクリックしていただければ、この40年の推移が動画で流れます。1990年代前半にはトップクラスに位置していた日本は、その後だんだんと降下して、2020年代に入ると圏外に消えてしまいます)
「これを政治の責任と言わず、なんという?
はまたま、自己中で日本の将来を見通さないで目先の金ばかり見てる、矜持のない政治家を野放しにしてきた国民の責任?」

それに対して私(村山)は以下のようにコメントをしました。
一度圏外に消えたイスラエルがまた上がってきたり。いい政治の成果?
つまり、この動きと政治の良し悪しは連動しているわけでもないのかも。
この平均年収の推移を見ていると、イスラエルがちらちらと顔を出します。そして2010年代には日本を追い越し、2023年では13位です(下の表)。世界的に見れば十分にリッチな国。でもイスラエル、良い政治をしているから国民の収入が増えているのか?私にはそうは思えない。それで上記のようなコメントをしたのです。

私のコメントに対して帰ってきたMさんからの再コメントが以下です。なるほど。
多少の上下は起こりうるでしょう。日本の場合、確実に凋落してますからここはちゃんと直視すべきではないでしょうか?
企業の保身、保護ばかり優先して国民個人を豊かにしようとはしてこなかった。そのくせ、議員の年金や歳費、議員定数といったところは変わらない。
こういう結果に国民は怒るべきで、それを投票行動に表さないと。そういう意識に走れない国、真の民主主義国家とは言えません。
このやり取りで、私、書きたいこといっぱいあるような気がしました。Facebookで返信を書くと長くなりそうなので、ブログで引き取って、そして私の土俵の上で以下書くことにいたします(Mさんからは快くOKをもらいました)。
追記:コメント欄に、このブログを読んでのメッセージもあります。そちらも読んで見てください。
注 SNS上での意見表面の限界
私はSNS(ソーシャルネットワーク、インターネット上のやりとり)での“つぶやき”というのが読むのも書くのも苦手ですし、どうも好きになれません。ですから字数制限のある媒体には手を出さないようにしています。なぜなら100字前後の文字量で、ちゃんとした意見を表現するのは難しいことが多いから。
実際、私がFacebookでコメントを書くと、平均的な文量よりもどうしても長くなりがちです。読まされる側からすれば、ちょっとめんどくさいかもしれません。ましてやこのブログは、友人のカブラキ氏によれば、長文の沼にはまる、ということらしい。
でも、伝わるように短く書くってホントにむずかしい(長く書けば伝わるのか?って、それもそのとおり!)。
で。MさんがFacebookに投稿したのも、短文です。さらに私の短いコメントに返してくれたのも、短文。確実に、Mさんはこれらの短文の背景となる思いや文脈をたくさん持っています。それらを省略して、ごく短く思いを書いた。
そして、その短文とそこで利用された資料が、私のハートを揺さぶったのです。その思いをFacebookの場で書くのは、無理。
だから私は私の土俵としてこのブログを活用して、私の思いを書く。別にMさんと論争しようと思って書くわけではありません。その点は、念のためここにはっきり書いておきます。このブログを読めば、Mさん、言いたいコトたくさんあるはず。でも、そこはとりあえず置いといて、として、では、以下、続きます。
政治は汚い、けれど一筋縄に白黒もつけられない
(Mさんが示したこのデータが、国民一人当たりなのか、就労者ひとりあたりなのか、細かいことはよくわからないまま書きます)まず、1人当たりの年収が1990年過ぎごろまで日本は世界の中でとっても高い国だった。バブルとか呼ばれた時代があって、社会の広い範囲で贅沢し放題?だったことがあった。
そんな豊かな生活を享受できたのは日本の政治が当時良かったからなのでしょうか? あるいは日本の国民の意識が高く、それが投票行為に反映されて、その結果として高い年収につながっていたのか?
1964(昭和39)年生まれの私は、しらけ世代の最後半の世代です。
1960年代から70年代にわたって続いた学生運動時代の後の無気力世代。あるいは、大人たちからすれば何を考えているのかわからない新人類と呼ばれたのも、私の世代です。
そして、「政治は汚い」というネガティブな考えは、私一人ではなく、世代に共通した思いだったように思うのです。つまり、私(たち)は若い頃からずっと、日本の政治が良い政治とは思えたことはなかった。
私(たち)の世代の政治に対するネガティブな印象に貢献したのが……。
1976(昭和51)年、私が12歳のころにロッキード事件と呼ばれる大汚職事件が明るみになりました。大企業に政治家が買収され、権力者が金をばらまき、そして政策が決まっていったという事件で、歴代総理大臣のひとりである田中角栄が逮捕され、1984(昭和58)年には有罪判決を受けています。この収賄事件を巡って、国会の証人喚問では関係者が「記憶にございません」を連発し、この「記憶にありません」という便利な一言は当時の流行り言葉にすらなった。
このロッキード事件前後から病気で国会に出席することができなくなった田中角栄は、それでも地元新潟の選挙区から立候補し続け、常にトップ当選で議席を維持し続けた(当時は小選挙区ではなく、中選挙区制で、一選挙区から数名の当選者が出ました。その中の最高票獲得者をトップ当選者と呼んだのです)。
私の父は新潟の雪深い山奥の出身です(そこは田中角栄の選挙区ではありませんでしたけれど)。彼にどうして新潟の有権者は田中角栄を当選させるのかと小6のころの私が尋ねても、「雪深い村でも道が良くなった、トンネルが通じた」みたいなことをゴニョゴニョと言うだけでよくわからない。そのときの疑問は長く私の中に残りました。
この事件の長い渦中は、私の小学校高学年から高校、そして浪人時代が重なります。それほど政治に強い興味があったわけではありませんが、政治は汚いものだという印象を私は持ったのです。 ただ、政治は汚いという私の印象は、その後大きな転換点を迎えます。
高校生のころに出会った本多勝一(新聞記者)に私は大きな影響を受けています。その彼の著書、『そして我が祖国・日本』(1983/昭和58年 朝日新聞出版、初出の単行本は1975/昭和45年発行)の中の第4部、田中の選挙区(当時の新潟三区)レポートは中でも超印象的な内容でした。田中が総理就任以前から続いた田中金脈政治が明るみになり田中が総理大臣から失脚し(1974年12月)、さらにロッキード事件が勃発し逮捕された後の保釈中という状況での1976年の選挙を取材したそのレポートは、その後も1986年まで10年間の選挙で田中をトップ当選させ続けた田中支持者たちの論理を明確にすくい上げていたのです。
田中先生の危機だからこそ、それまでの恩に応えるために、田中をトップ当選させる理屈。その価値観では、むしろ田中を落選させたら人でなしであって、人として恥ずかしいことだったのです。この感覚は、冬になれば雪深く孤立していた地域の人たちだからこそ生まれたもので、東京などの都会からは理解しきれない怨念のようなもの。
私がこのレポートを読んだのは文庫本になってからですから、18歳か19歳か。それまで持ち続けていた「なぜ田中角栄が当選するのか?」という不明に対して、目から鱗がボロボロ落ちて理解できた、あのときのある意味爽快な気分は忘れられません。
田中を当選させる側の気持ちを知ったからといって田中的な政治世界の汚職を支持したりすることは一切ありませんでした。けれど、政治が一筋縄ではいかないことはすっごく腑に落ちました。勧善懲悪なんてない。社会の複雑さは若い私の想像以上で、とっても手強い。簡単に白黒つけた気分になってはダメなのだなぁと、腹の底の擦り傷はずっとそのまま大事に取ってあるのです。
年収の高い社会目指す政治はもう限界があるでしょう?
私は1990年から青年海外協力隊(現在のJICA海外協力隊、以下JOCV)に参加し、2年間東アフリカのケニアの田舎の中等学校の教師として過ごしました。JOCVに参加するときの面接では「JOCVは帰ってきて就職先は引く手あまただ」と言われました。バブルと呼ばれた好景気が続いていたのです。
91年に入ってケニアで活動中に、遠い東のほうの島国からなにやら大きな風船が割れたような大きくいびつな音が響き渡ってきました。
92年末に帰国した後の面接では「仕事を選んでいる余裕はない。就職はとても厳しい」と言われました。やれやれ、2年前とは大違い。面接担当の相談員というのは責任なしのなんとも楽ちんな仕事なんだなと思ったことを覚えています。
その後、日本社会への復帰に大失敗(就職したくて就職し損ねた、というわけではなかったですけれど)した私は、国際開発関係の大学院に逃げ込み、1990年代中盤以降は途上国での教育開発支援を生業とし海外で生活する時間が長かった。ですから、日本社会で暮らし続けてきた人たちほどは、日本の政治状況にシリアスには向き合ってこなかったと今振り返るのです。
その私でも、日本の政治が良くなったという印象を持つことは一度もありませんでした。
90年代前半の反自民連合(細川・羽田政権)はその成果を出す前に村山社会党が自民と連合したことで瓦解しました。その後、自民政権が再興し(橋本・小渕・森)、そして2000年代に入ってなにやら大人気だった小泉純一郎総理大臣時代があった(その後、安部・福田・麻生政権)。そして2009年から3年間の民主党政権(鳩山・管・野田)は、やはり成果を出す前に東日本大震災で終焉。その後、なにやら人気の安部政権が復活し、たしか戦後最長内閣を記録したのはまだ記憶に新しいところです。そして、管・岸田、石破現政権と続く。
この間、企業にとって雇用調整を容易に行える非正規職員増加を促進する派遣労働の拡大がどんどんと進み格差が広がり、今や貧困までが問題となっている現状は、Mさんが書いた「企業の保身、保護ばかり優先して……」の結果だったことは明らかです。
過去の政治に、いくら“もしも”を語っても現状は変わらない。そして、その“もしも”の結果が良いものになったかどうかも検証はできない。とにかく政治は結果責任。人々が安心な生活を営めない現実があるとすれば、それは悪政の結果と判断すればいい。
けれども、年収の高低と政治の善し悪しを結びつけて語るのはやはり乱暴という気がするのです。
たとえば、政府が(そしてそれを選ぶ有権者が)、収入で計れるもの以外のものに価値を見出し、それを実現する政治を実施した結果、年収が上がらないことはありえる。もちろん、日本政府(とそれを選ぶ有権者)は、そんな政治を目指してはこなかった。むしろ夢をもう一度と経済的豊かさを追いかけて、それが実現されていない(?)。ですから有権者としては政治にダメだしする、ということなのです。
でもこれから先は?
改めて、平均年収を上げるような価値観以外の新しい値観による政治が求められる可能性はないのか? もしそんな政治が将来行われるとすれば、そう簡単に日本がこのランクに再登場することはないでしょう。このランクだけに沿えば、凋落は維持となる。それは、それは良い政治?悪い政治?
Mさんの投稿にケチをつけるようなコメントをつけた直接の理由は、ガザでの虐殺戦争を続けるイスラエルが高所得国としてランクインしていたことです。戦争やって儲けている国が、良い政治をしているとは絶対に思えない。けれども、イスラエルのことがなくても、政治の善し悪しを語るのに、所得を持ってくるのか? スイスなどのようにずっと高止まりをしている国が、良い政治をしているのだろうか? (スイスは日本の自民党政権と同じく企業優遇の税制を引くことで高い所得を維持している。けれども物価はとても高く、そして全国民のうち10%の貧困層の存在が問題となっているとちょっと調べたら出てました。 なかなか完璧にはいかないですわね)
Mさんの「日本の場合、確実に凋落してますからここはちゃんと直視すべき……」、さらにそれに続く文章から、政治家/財界だけが甘い汁を吸って格差が拡大してしまっていることへの怒りは伝わってくる、なるほど、そこには共感はある。
でもさ、問題は新しい社会的価値観の創生に失敗してきたことが問題なんじゃないかな。 もし高所得を維持できなくても、それに代わる価値観の養成・醸造を政治が目指してきた結果としての高所得ランクからの脱落ならば、それを「凋落」と呼ぶ必要はなかったはずです。
人口問題、国防問題、年金問題、教育問題、移民問題………、とにかく政治を語れば百家争鳴、さまざまなご意見のある桜かな、ってことになっていきます。まぁ、それはここでは置いといて。
とにかく、せっかく凋落したのですから、そこからちょっと「高所得万歳」の価値観を変えていくのがいいと私は思う。人口が増えずに減ることも、今のところ社会の致命的損失にはつながっていないとも思う。それはそれ、海外からの労働力のこともふくめて、いろいろ手の打ちようはあるんじゃないかなぁ。
ポイント1:政治の失敗を示す一例として「高所得ランクからの脱落」を示すのは、「高所得の夢もう一度」へのベクトルを喚起することになっちゃいそうで、う~ん、ちょっと心配だなぁ。
真の民主主義国家……の「真」とは?
私にとっての民主主義とは。
言論/表現の自由があること。公正な選挙(投票行為に広義での圧力・利益誘導がない)が実施されること。そのうえで投票率が7~8割はあるといいな。
厳選するとこんな感じ。そのうえで実現されるといいと私が思う社会は。
弱者にとって安心/安全な社会。つまり弱者の生存が脅かされない社会。弱者の安心/安全が保たれている社会ならば、弱者でない人々にとっても安心・安全なんじゃないかと思うのですよ
まぁ反例は出そうと思えば出せるのでしょう。なぜ弱者に限定するのか? なぜ万人としないのか?
例えば弱者にとって安心・安全を確保する引き換えに強者の生存には厳しい状況、が生まれないとも限らない。でもその場合、強者も弱者になってしまうわけで、そうなるとその人(元強者で現弱者)の安心と安全は確保される?
「万人」って嘘くさいでしょう。私は嘘くさいと思うんですよ。万人と言ったとたん、強者優先で弱者は後回しが許容されてしまっているのが、この世界の多くの社会の実情だから。だからまず「弱者」。ひとりも残さないと言って、まず強者から救う。だからさ、まず弱者からと言っちゃえばいい。
けれども、それは私の理想。それこそ万人の理想かどうかはよくわかんない。自由主義者的理屈では、機会が平等であればそれで良し。あとは強者が勝ち、弱者が負ける。その強者の利益を削ぐような社会は、活性を失ったつまらないものになる、ってことになる。そんな強者優先の社会を良しとする声も少なくない。
言論/表現の自由があり、公正な選挙が実施され、投票率が7~8割はあって、その結果としてなかなか弱者の安心・安全が確保される社会にはつながらないかもしれない。
つまり、私にとっては民主主義の達成と、理想の社会の実現は直接には結びついていない。結びついていったら嬉しいけれどなぁ、って感じ。でも、選挙結果は、その社会の民主主義の結果だからまぁしょうがない。
だからかな、Mさんの書く「真の民主主義国家」、につまずく。
例えば建国して80年近く、祖国建築に国家・国民をあげて努力奮闘し続け、その結果世界的にも高い個人所得を達成した国家がある。敵との闘いの中、ときには融和的な政策を取る政府に怒る国民たちが投票行動で取捨選択した結果としての今の政府があるとすれば、その国は真の民主主義国家のように思える。
イスラエルは真の民主主義国家だ。うん、イスラエル政府やイスラエル国民は、自らの社会の民主主義性を、「中東で唯一の民主主義国家」と売り物にする傾向にあります。
つまり、真の民主主義国家は、一国内では達成可能なのかもしれません。その国境が、アパルトヘイト(人種隔離政策)で囲われているとしても。
さて、我が祖国日本ではどうでしょう。将来、怒りに燃えた国民が移民排斥的な政党に投票することはないか?(実際にすでにこの状況は生まれつつありますよね)
“正しい”投票行動は、常に議員の年金や歳費を削減し、さらに議員定数を減らす、こととは限らない。そりゃそうだよね、投票行動での正しさってのは、先にあげた田中角栄をトップ当選させる行為にも通用するものだから。そこで優先されるのはたとえば国民個人を豊かにする政策とは限らない。つまり、怒りの矛先は、多様だろう。
だから真の民主主義国家の結果も様々で、もしかすればさらに企業優先の政治が闊歩しないとも限らない。そんな不安に私は捕らわれることがあるのです。
そもそも、真の民主主義国の「真」って?
Mさんと比べて、私は「真の民主主義国」が行う政治に楽観的でない。疑心暗鬼が強い。広い意味で、大衆を信じ切っていない。「真の」という種類の形容詞を信じてない。
もしかたら、自分自身も信じ切れていないのかもしれません。断定や限定で語るのに苦手意識があるのかな。でも、疑うことは大事だとも思う。たとえそれが自分自身の考えであっても。
ポイント2:「真の民主主義国家」が必ずしも(私にとっての)良い社会につながるとは信じ切れていないのです。そして、やっぱり「真の」という表現の正しさぶりに怯えるのです。
あと、どんな政治であっても、その社会に似合ったものになっていくのではないかという気がして仕方がありません。つまり、政治内容はその社会が反映される。それは有権者の責任というふうにも思える(ちゃんとした投票制度が確保されていない社会はたくさんあるので、簡単に有権者の責任と一般化するのにも躊躇がありますけれど)。 日本社会の場合であれば、今のところ表現の自由はかなり確保されている。だから有権者の責任は重いよ。Mさんの「矜持のない政治家を野放しにしてきた国民の責任?」という問いには、そうだね、やっぱり国民の責任だろうね、って思うのよね。自民党(と公明党)政治を選択したのは日本社会であり、つまり私たちが「凋落」を選択してきた? それとも、やっぱり財務省の責任なのかしら? うーん、うーん。
















Mさん(高校同窓の松田修一さん)から、Facebookでこのブログ投稿に対してのメッセージが届きました。こちらに転載します。
以下、松田さんからのメッセージ
Murayamaさん、
プログを拝読しました。僕はブログをやってないのでここになるべく簡潔にコメント書きます。
まず申し上げたいのは、村山さんの言いたいことは自分の中でもおおよそ共通しているので「つまづかないで」ください(笑)。もちろん言葉足らずの文章というか、コメントですから、僕も思いをどう理解しようが、どう膨らませようが、村山さんの自由ですが、おおよその部分では思っていることは同じだと思います。ちょっと誤解されてるかなとか、僕もそう思っているのになあぁと思うところもありましたが、そこは長くなるので書きません。今度日本に来た時に話しましょう。
僕がブログを読んでもう少し申し上げたいことは2点。
一つは、物理的に豊かな国になったにも関わらず、それが心の豊かさに結びつかず、終身雇用が壊れて生まれたのは非正規雇用の低賃金と就職難。組織の中では相変わらずプライベートな時間の中にゆとりがなく、欧米のような長期のバカンスも、定時退社での家族との団欒もままならず、さまざまなことに思考を巡らす間もないほどに窮屈な労働環境のまま。しかも賃金は上がらず、物価の上昇やら税や社会保障費の値上がりで実質の所得は目減りを続け、貧困の格差が広がってしまっているということ。僕のいう”凋落”とはここまでのことを含んだものだということをご理解願いたい。単に数字の上下で言っているわけではありません。
もう一つは、「真の民主主義」とは国民が社会を考え、政治の力の大きさとあり方を考えた上でそれを投票行動に反映させていくことだと思っています。格差社会を広げる一方でぬくぬく自己保身の政治に対し意思表示をせず、投票率が半分に満たず、組織の投票が幅を利かせて単に選挙をやっているから民主主義国家なんだという自己欺瞞的な空気に対して「真の民主主義ではない」と申しました。
基本的人権の尊重を謳うのが民主主義国家の基本であり、国民一人一人の理想やエゴがどうであれ、それを否定してほしくない。政治を選ぶ目は弱者にとって安全/安心な社会のためであってほしい、あるべきだと僕も思います。弱者を追い詰め、発言を奪っていくような政治を認めてはいけない。でも今の国内外の社会では、強い権力や財力を持った人間や組織、そして国家が力にモノを言わせるばかりで歯止めのかけようがない。20世紀の経験を活かせない、これが人類の性であり、末路なのかもしれませんね(ちょっと悲観しすぎですか…?)
松田です。Facebookへのコメントありがとうございます。
村山さんの何かを絶対と言わず、さまざまなありようをさまざまな視点で眺めようということには僕は深く共感を覚えます。
村山さんが転載してくださった上述のコメントに対し、村山さんから下記のようにコメントをいただきました。それに対するコメントをさらに自分のFacebookに書きましたので、村山さんのコメントと共にこちらにも転載させていただきます。
(村山さんから)「でもさ、松田さんが書く広い意味での凋落は、政治だけのせいなのでしょうか?政治よりも、むしろ日本社会の嗜好みたいなところが強く関係しないだろうか?それを打破するのが政治の役目なのかしら? 政府や企業や、そこが上から指導しないと変われない社会だとしたら????それは気持ちいい変化ではない。
その点で、ブログの最後に書いたように、その社会にはその社会にふさわしい程度の政治がある、ということなのではないかしらと思ったりもする。
末路云々ではなく、その社会・多数が選択する生き方?」
(以下、私からのコメントです。ちょっと長くてすみません)
村山さんのおっしゃる通り、この凋落にはさまざまな側面がありますから、当然その背景や原因を考えるにはかなりいろんな面を考慮・考察しなければいけないと思います。
僕は政治の指導がないから凋落したのだと政治だけに責任を問うつもりもありません。ただ政治の力は大きいです。金も権力も個々で対抗できるものはほぼほぼありません。その責任は重大だし、国民の生き死ににもかかわ るものですが、政治家自身にその自覚は乏しいとしか見えないし、政治家を選ぶことの重さが判っていない国民が多いようにも思います。
「その社会にはその社会にふさわしい程度の政治がある」というのもうなづけますが、「弱者にとって安全/安心な社会」の実現には自分の生活も大事だけど、自分達より生活に窮している、あるいは社会の中で不便な現実に直面している人たちに政治が向き合うことを政治に要求する、そして監視する目が必要です。
日本社会の嗜好いわゆる国民性ですよね、或いは、風土、歴史といったものの上に今の現状がある。それも政治ばかりの責任とは言えないというのは確かですが、かといってそれを考察し理解するだけで留まっていいものだろうか。今の日本の状況は、国民とも共々政治が一と時ばかりの国益やら保身に終始するのではなく、対局的に未来を予見し、悪い結果にならないように策を講じていれば、もう少し良い結果になっていたであろうことが数えきれないほどあります。
この諸々を含んだ”凋落”の現実を私たちが受け止め、より良い方向に持っていこうと思っても、その多くの実現には政治の力が必要で私たちにまずできるのは政治の選択だけです。
今の凋落が許されるのも限界にきていて、政治の選択に対して自律した考えを持ち、それを投票行動に示して少しずつでも変えていかないところまで来ているとは思いませんか。
考えなければいけないことがたくさんありすぎてその中で何を優先して政治を選ぶか迷う前以前に、政治家としての矜持を政治家に求めなければならないというのも情けない話です。
「政府や企業や、そこが上から指導しないと変われない社会だとしたら????それは気持ちいい変化ではない。」というのもその通りだと思います。僕も気持ちいい変化を求めたいです。
ただ、私たちが思うより、政治や企業のトップはずっと策略的、もっと悪く言えば狡猾で、私たちを一定の枠の中に収め、彼らにとって都合に良い社会を作ってきたのではないかと僕は思い始めてます。
個人の自由だとか、ハラスメントを問題視して人権を守る方向に動いているように見えますが、トップダウンとか、生徒が教員の書いたシナリオの中で整然と収まっていることをよしとする風潮は戦前戦後、実は変わっていないのではないかとも思えるし、上に従わなければ放り出される不安ばかりを駆り立てる社会制度はむしろ終身雇用の昭和よりはタチが悪くなってきているようにも思えます。
そんな中で「気持ちのいい変化」とはなんなのか。上と下が同じ方向を向いてということなのでしょうか。現状が村山さんのいう「その社会にはその社会にふさわしい程度の政治」なのだとしたら残念ですが、それが現実のように思うし、"凋落”は加速度的に進み、どこでその歯止めがかかるのか、わからない状況だとすら思います。
「社会・多数が選択する生き方」はそれぞれの国や地域で違っていて当然で、これが絶対というものはないと思いますが、現状を見る限り「弱者にとって安全/安心な社会」実現のために、政治へ国民の目が向かっているとは思えないのが残念です。