妊婦の血液にわずかに含まれる胎児由来のDNAを分析することで胎児のトリソミー症候群――染色体異常の一種であり、46本ある染色体のどれか一本が多く47本になったもの――を母子に負担をかけないで検査する方法(出生前遺伝学的検査)が2011年に米国で開発された。日本では2013年4月から運用が開始され、2017年9月までに5万組を越えるカップルが検査を受けている[i]。
検査では、ダウン症候群の判断も可能で、理由に中絶される胎児もいる。ダウン症候群に限らず、障害を持つことがわかっていてもその子を生むかどうかという判断は、妊娠した女性が最終的に行うのがいいのだろう。それでも、今後、胎児遺伝子の出生前検査が広く実施されることによって、多くの障害を持つ胎児が中絶されることになっていけば、中絶されずに生まれた障害児にかかる社会保障費用が問題視されるリスクを心配する声もある。障害者のひとりとして、ぼくにもそれは切迫感を持って迫ってくる。
核家族で、共働きも当たり前で、でも子育て環境整備は、もう長いことなかなか社会の現状についていかないこの状況下で、出生前検査を受けてみようかという思いが浮かぶことを、否定なんかできるわけはないけれど。
また「家族に迷惑をかけたくない」という理由で、延命措置を求めないことを事前に意思表示すること(リビングウィル)も増えている。これも人の世話になりがちな障害者としては、どうしても気になる。延命措置が無駄か否かを判断することは簡単ではない。「本人の希望」が尊重されるという。でも、本人の希望はいつでも代わり得る。
未来の自分に対して、過去の自分はどれだけ決定権を持つのかと考えれば、リビングウィルでの「延命措置の拒否」の危うさに気づく。明日の昼飯にラーメンを食べたいと今日宣言したって、翌日の昼になれば他のものを食べたくなることがあるのは、当たり前だ。それでも昨日の自分の宣言を、必ず守らねばならないのは変だ。リビングウィルは、病気や怪我で意思表示ができない場合に使われるとしても、「やっぱり生きたい」という心変わりを汲み取れない可能性が、どうしても気になる。
最首星子(さいしゅ せいこ、と読む)さんは重度のダウン症を持って生まれ、知的障害、視覚障害などの重複障害があり、言葉もしゃべれない。彼女の存在を、ぼくは、その父親である社会学者・評論家の最首悟が著した『星子が居る 言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』[ii]で知った。受傷後の病院のベッドでのことだ。この本は1998年に出版された。1997年8月にもうすぐ21歳だった星子さんは、2018年41歳になった[iii]。思考し表現する力を持つ最首悟の存在が星子さんとの出会いを作ってくれたことを、素直にありがたいとぼくは思う。なぜなら、最首悟の文章を通して、ぼく(読者)は星子さんとその家族の「不条理」な時間を垣間みることができるし、それが最首悟を鍛え、解きほぐし、社会化し、老成――「私はすこし若さを脱したのかも知れない」と最首悟は書く――させるのを、ほんのすこしは共有できるから。それは、最首悟だけでなく、ぼく(読者)をも深く思考させ、気がつくと、それは人生を豊かにすることにつながっている。父親の存在を通して、星子さんは液状化し、社会に滴り、潤す。彼女の生は豊潤で、星子さんがいる社会は、この一冊の本がある限り、より豊かだ。つまり、きっと本がなくても、やっぱり豊かなんだろうと思う。
そして、星子さんと同じような、無名の多くの「不条理」な存在を許容していい、いや、許容したほうがいい、という思いを、星子さんは私たちに静かに伝える。いや、彼女はナニも伝えてはいない。ただ、それを感じる人には感じさせてくれるんだ。ならば、感じようじゃないですか。
最首悟は星子さんとの暮らしを次のように表現する。
親の気負いもすこしずつ減じてきたこともあって、静かに不幸ということが日々定着してきたように思われる。言葉に対する感覚がすこしずれたとも思われるが、たとえば、「障害は個性だ」という感動的な宣言から、克己という心の働きをすこし抜いてみると、不便ということをはじめとして、現状を肯定できないさまざまな心の波立ちがあり、しかもそう容易く現状は変えられず、しかし何をすることもなくなってしまう幸福に比べれば、一日はきちんと過ぎて行く、ということをさして、不幸と言いたい気がするのである。[iv]
最首悟の書く「不幸」を読み間違えてはいけない。彼は続けて「幸福は思いがけないときに一瞬味わえるものでありたいとも思うのである」、「不幸はまさに多様である」とも書いている。星子さんとの不便の多い日々が過ぎていくことに、最首は満足感、いやそれは言葉が過ぎる、ならば、肯定感にも似たのを感じていて、それを定着した不幸と呼んでいる。もちろん、それは「よかったねぇ」とうなずけるものでは、けっしてない。読者の迂闊なうなずきは、最首の練達な文章によって厳しく戒められてもいる。でも、障害があるとかそんなこととは関係なく、ぼくたちも定着した不幸の中で生きているんじゃないか?それは最首悟たちの“不幸”よりは、小さいのかもしれないけれど。
そして、それでも、星子さんの不眠につきあい寝不足の日々を最首が次のように書くのを読むとき、ぼくは「星子さんがいてよかったですね」と最首悟にそっとつぶやきたくなる思いを止めることができない。
星子と暮らしていると、カッコウがいつ鳴き始めたか敏感になる。今年はまだ二回しか聞かない。雄は一匹しか里に降りてこなかったのだろうか。自然はゆっくりまわって変化しないでほしいと思う。[v]
まだ暗い夜明け前に鳴くカッコウの声は、遠くからもよく聞こえる。ぼくも暗闇の中、近づく朝を知らせるカッコウをずいぶん前に聞いたことがある。
暗闇の中、でも、やがて朝がくることに気がつかせてくれる 「…カッコォウ…」 という遠い、けれど確かな声。
あれを毎年のように聞き、山から里に降りてきたカッコウの数に心を砕ける。それは、かなり素敵なことだと思うのも、それは、やはりぼくの不遜だろうか。

[i] 朝日新聞デジタル2018年3月19日記事『「命の選別」なのか 新型出生前診断、開始から5年』より
https://www.asahi.com/articles/ASL3D5453L3DULBJ00P.html
[ii] 最首悟/著『星子が居る 言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』世織書房 1998
[iii] 神奈川新聞ニュースサイト カナロコ2018年7月25日記事『【やまゆり園事件2年】ダウン症の娘持つ最首さん「心失者」いない』よりhttp://www.kanaloco.jp/article/348423
[iv] 438ページ最首悟/著『星子が居る 言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』
[v] 154ページ最首悟/著『星子が居る 言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』

















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