海外開発支援での「価値観の押しつけ」はダメ? 無色透明はありえないという話。(ミャンマー政変にも刺激されて書きました)

「価値観の押しつけ」現場の証拠写真かもしれません  学校内の教員研修プログラムに参加して ルワンダ

何度でも書きます 「迷惑」を見直せ! と。

 人を支援する。
 いろんな場面が考えられる。日常でなら、道を歩いていて、電車を待つホームで、バスの中で、見知らぬ人をちょっとお手伝いする、あるいはお父さんや赤ちゃんの布オムツを替えるとき、お母さんやお孫さんには届かない棚の上にしまわれた鍋を取るとき、それを面倒くさそうに行うのか、微笑みを含んだ表情で行うのか。一声かけるのか、無言で行うのか。病気や怪我の友人を病院に見舞うのだって、励ましというひとつの支援かもしれない。

 自分の以外の人に支援されずに今の生にたどり着いた人は誰一人いない。「育ててもらった」、「助けてもらった」、そのことにことさらひれ伏す必要はない。だって、それは持ちつ持たれつ、だから。育ててもらった恩は、いつか自分が誰かを育てるときがきたらその育てる相手に返せばいい。そんな繰り返しが数十万年繰り返されて、ぼくたちはここにいる(ホモサピエンスの起源は諸説あるものの、せいぜい数十万年。地球創生の46億年の歴史から見れば、ごくごく最近のこと)。 

 いつから、そんな支援の一形態に過ぎないことが「人に迷惑をかける」ことになってしまったのか。特に、高齢あるいは中途障害によって「できていたことができなくなった」ケースや、さまざまな理由で「通常できると広く認識されていることが、できなかったり、できても時間がかかったり」というケースへの支援が、迷惑と表現されている。それは支援を求められた側がそう思い(「迷惑だなぁ」)、さらには支援を求める側がそう思う(「申し訳ないなぁ」)。
 そのことが行き過ぎると、「(迷惑をかけるなら)死んだほうがまし」、「(迷惑をかえてまで)生きていたくない」につながる。他者のある行為に対して「迷惑だなぁ」と強く思う人ほど、自分がその行為をするような状況になった際に「迷惑をかけてしまった、情けない、死にたい」と思ってしまう傾向が強いようには思うから、その意味では自業自得と言えないことはないけれど、でも、そんなことが多く再生産されている社会は、きっと生き難いのだろうと思う。
 生物の営みの歴史は弱肉強食と理解されることが多いけれど、社会性を持った生き物が弱者を共存させているケースは、猿でも象でもクジラやイルカ等々、多くが報告されているようだ。ぼくが最近知ったケースでは、四肢障害を持って生まれたニホンザルのメスが、野生の中で26年生き、子どもも育てたそうだ。ぼくは未見だけれど、『障害を持つ母猿モズの子育て日記~日本猿・母の愛~』というDVDもある。
 つまり、新しい脳(大脳新皮質)を持ち、前頭葉を発達させた生物であれば、弱肉強食とかを社会を理解する際に持ち出すのは、なんとも“野蛮”なことなんだと、ぼくは思っています。

社会開発支援での“価値観の押しつけ”問題

 さて。
 先日、友人が若い世代に国際協力理解の講演をした際に、海外でのボランティア経験のある若者たちから、支援のアプローチに関して相談を受けたそうだ。
 たとえば、支援する側が支援される側に「もっとこうしたらどう?」、「こんなやり方を導入したらどう?」という提案をする。けれども、そんな提案がなかなか受け入れてもらえない。そんなときはどうしたらいいのだろうか、という質問だ。
 回答としては、たとえば支援される側のリーダーをまず説得して、提案を理解してもらうことから始める、なんてことが期待されていたのかもしれない。実際にそういう手法が効果的なことは多いだろう。

 友人によれば、若者たちは、「(提案が)自分たちの価値観の押し付けになってしまう」ことに気をつけなければいけないという意識は強いのだそうだ。つまり、違う価値観を持つ者(あるいは集団)が、支援する側と支援される側とに分かれるとき、支援する側は自分たちの価値観を押し付けることには慎重であるべき、と若者たちは思っているらしい。
 きっとそれはこれまでの強者が弱者に価値観を押し付けてきた人間社会の歴史から学んでいるわけだよね。強者の価値観を押し付けられた弱者は、反抗すれば弾圧され、従えば自分たちの価値観を失い、主体性をなくし、強者に従属するものとなってきた歴史が連綿と続いてきたということを、21世紀の若者が学習しているというのは、ちょっと感激するよね
 どんなプロセスで、彼女ら/彼らはそれを学んだんだろうと、興味あるなぁ。

 また他の場所で、援助における「(価値観の)押し付け問題」を議論したやはり若い世代の中からは「押し付けかどうか判断するのは最終的には受け取る側なのではないかという声があがったということを、違う友人からも教えてもらった。「押し付けかどうか、援助する側が勝手に迷うのは独りよがりかもしれない」(押し付けかどうかは)常に相互的な関係の中で捉えていくべき問いなのではないか」と考える若者たち、よく考えているなぁと思う。ぼくはその場で議論を聞いたのではなく、その結論の一端をちらっと「そんな話があったんだよ」と聞いただけなのだけれど、でも自分が若いときと比べて、今の若者は開発支援や国際協力への認識は高い人が多いなぁと感じることは多い。
 まぁ、年長者っぽく余裕をかますと、それは確かにちょっと観念的ではあるよね。机上で考えをこねくり回しているような拙さはあるのだろうと想像する。けれども、経験はこれから積んでいけばいいわけだから。まず妄想するのは、とっても大事なことだよ。

 ぼくは、そんな若者に「価値観の押しつけでない“提案”はありえるのか?」と尋ねてみたい。ぼく自身を振り返ると、開発援助の中でぼくがやってきたことに、自分の価値観から自由だったことは何一つない、といっても過言ではないと思う。常に、ぼくはぼくの価値観のいくばくかを、支援する側に「押し付けて」きたんだ。
 たとえば、「従うな、自分で考えよ」というようなことだ。「信じるな、疑え」というようなことだ。

たとえば、ミャンマーで教育支援をすることの“覚悟”?

 もう20年ほど前のこと。インターネットの中のある場で「軍事政権下にあるミャンマーの社会開発の支援に参加するか?」という議論をしたことがある。ある人は「そこで支援を求めている人がいる限り、自分は行く」と語ったし、ある人は「経済成長を促進する支援は、結果的に軍事政権を支えることにつながるから、(軍事政権を良しとしない)自分は参加を躊躇する」と語った。どちらも、うなずけるなぁと、ぼくは思った。
 ぼく自身は、まず躊躇があった。ぼくが関わるのはきっと学校教育支援だろう。理科教育かもしれない。とりあえず、軍事政権であろうと民主政権であろうと、学校の教育カリキュラムの大勢には大差はないだろう。特に、理科や算数・数学といった科目では。
 けれども、ぼくの価値観、「従うな、自分で考えよ」とか、「信じるな、疑え」なんて考えは、軍事政権にとっては危険だ(もしかしたら民主的な政権にとっても、政権維持には“迷惑”かもしれない)。もし、ぼくの価値観から影響を受けた若者がいつの日が、反軍事政権のデモに参加し、結果、虐げられることになったら?最悪、殺されたら? そんなことを考えた(これも妄想ではあるけれど)。今でも、そんな妄想は消しきれない。

 一方で、自分は歴史からは自由ではないとも思う。ぼくの価値観は、ぼくが自分で選択的に選んで身につけたものではなくて、20世紀後半に日本という場所で生まれ育ったことから自由でない。大きな影響を受けている。そして、そんな大きな歴史という波の中で、ぼくの存在なんて小さなプランクトンみたいなものだ。波に揉まれて漂っているだけ。
 だとしたら、求められれば、どこでも行こう、とも思う。自分が妄想するほど、ぼくの影響力なんて大きくない。縁のあった場所で、より良いと思うことを、結局、自分の価値観に則って、やるだけだ。ミャンマーに縁があったら、行こう(ハハハ、結果としては縁がなかったけれど)と思っていた。

 ぼくに若者たちの議論を紹介してくれた友人はこう書いた。

「異文化間のコミュニケーションとして国際教育協力を見た場合、援助される側の実践や価値観の変化だけでなく、こちら側、援助する側の変化にも自覚的であるべきだし、それを相手側と交流することが大事」

 異論はまったく、ない。ただ、この場合の「援助される側」も一枚板じゃない。「援助する側」も一枚板じゃないけれど、詰まるところはたとえば「ぼく個人」だ。支援する側のぼくは、支援する側の価値観を「ぼく自身」に収斂することができる。そして、実際、交流の結果、ぼくはどんどん「変化」している。その変化もまずは個人的なもので、他者との共有は簡単ではない。ぼくの支援をうけた「援助される側」も、突き詰めれば、個々の存在だ。Aさん、Bさん、Cさん…、みなそれぞれ勝手にぼくの支援を咀嚼しているはずだ。なかには吐き戻した人もいるかもしれないし、下痢になって痩せた人もいるだろう。それも含めて、ギブアンドテイク、避けられないご縁の中でのリアクションだ。

 どうやら、ぼくの中では「支援する側」と「支援される側」の境界線がぼやけつつあるのかもしれない。支援する・される、も、単にコミュニケーション、出会ってしまった関係性の一事例でしかないんじゃないの?ってイメージ。そして、すべてのコミュニケーション、出会いは、それぞれの価値観から自由ではない。無色透明なんてあり得ない。
 物理の力学の問題で「ここでは摩擦は無視できるものとする」とある。でも、摩擦はあって、現実社会では無視できない。「ここでは価値観は無視できるものとする」なんて、無理なんだ。だから時には痛い。傷つけ合う。(と、ぼくはこの文章をタイプしながら、大きなため息をついた)

 

6件のコメント

自分はプランクトン、と思うととても自由な気分になれました。

井上忍様

読んでいただき、ありがとうございます。

あの文章を書きながら「プランクトンとは微小とは限らないんだよなぁ」と自分ツッコミをいれておりました。
プランクトンの定義は、確か、自分の力で方向性を決めて泳げずに、漂うもの、だったように思います。
とすると、大小のクラゲや、考えようによってはマンボウなども、プランクトンの一種。

さて、井上様はどれくらいの大きさのプランクトンかなぁなんて、ちょっと想像しております。

また、読んでくださいねぇ。

村山哲也

開発支援では、支援される側は、支援する側に従順だと思わせるくらいしたたかである、と考えた方が良いと思います。それに支援する側の意図は伝達ゲームの中で意図的、無意図的に変容する、というのが実感です。

「支援する側に従順だと思わせるくらいしたたかである」はい、解ります。
したたかについては、また書いてみようかなぁ。
「支援する側の意図は伝達ゲームの中で意図的、無意図的に変容する」これもまったくそのとおりですね。
伝達ゲームこそが、まさにコントロールできないことの真髄でありますね。
それを楽しめれば、仕事、楽しいですよね。

村山哲也

毎日、楽しみに読ませていただいています。そして、多くのことを教えていただいています。
以前、「価値の押し付けはしない」と発言したことがあります。このときの気持ちとしては、「相手の思いや願いを無視して、日本の今までの教育がよかったのだから、これで行け、ということは避けたい。」といったところです。大きくは、内村鑑三が批判しているような、西洋の宣教師が世界にキリスト教を広めようとしたときに生活スタイルも西洋化をさせようとした、そんなことが頭にありました。おっしゃる通り、何十年と日本で教育に携わってきたし、今でもいろいろ考えたりしてきている中で、無色透明はあり得ないでしょう。ただ、カンボジアの先生方の思いや願いをできるだけ知ろうと努め、すり合わせをしていくことは必要だと思います。

都筑功様

「ただ、カンボジアの先生方の思いや願いをできるだけ知ろうと努め、すり合わせをしていくことは必要だと思います。」
はい、そのすり合わせの苦しさ、ぜひどんどん味わっていきましょう。
私も、もっともっと苦しむのが楽しみです。

村山哲也

コメント、いただけたらとても嬉しいです