「男女平等」は人類を滅亡させる危険思想か否か? K先生のジェンダー論的男女平等思想への危惧に反応してみました。

プノンペン、モニボン通りに面した「中国拉麺」という名の中華食堂。K先生と毎晩のように通っていたときのお店がこちら。現在はちょっと規模縮小して、でもほぼ以前と同じ場所で健在です。私のオススメはミーチャー(焼麺)と餃子。メニューには乗っていませんけれど、葱油餅も美味いです。ビールは、以前は生ビールがありましたけれど、現在は瓶ビール(アンコールか、青島か)のみです。K先生とまたご一緒する機会があればいいけどなぁ。

ご先祖さまから引き継ぐもの、そんなの無いという気楽さ?

 ぼくは東京農工大学農学部農芸化学科入学で、卒業は農学科です。入学した学科と卒業した学科が違うのは、大学1年生から2年生に進む際に、転学科したからです。
 もともと、農学科に入学しようかなと思っていたのです。で、大学願書を入手すると、応募時に希望学科を第一志望から第三志望まで書けるようになっていました。で、ちらっと調べてみたら、その当時のぼくの興味では、農学科と共に農芸化学科というのも面白そうだなと思いました。さらに、農芸化学科のほうが農学科よりもちょっとだけ入学基準(いわゆる標準偏差値、ぼくは未だにこの言葉に忌避感があるのですけれど、それはまた別の話)が高いことが判りました。
 なるほど、じゃ、第一志望は農芸化学科で第二志望は農学科と(第三志望は空欄のままでした)。で、合格発表日を迎えまして、農芸化学科にぼくの受験番号があったのでした。一浪で、一校のみの受験でしたので、やっぱりほっとしました(ちなみに、現役のときは北海道大学を受けて、試験勉強が全然足りず、確か物理Ⅱの解答用紙に「来年また来ます!」と大書して退散したのにも関わらず、その翌年はその言を翻して農工大を受験したのでした。ま、それもまた別の話)。
 東京農工大学の農芸化学科と農学科、他大学と比較して特徴的だったのは、通常農芸化学科に含まれることが多い「肥料学/作物栄養学研究室」と「土壌学研究室」が、東京農工大学では農学科にあることでした。当時、農芸化学科というと、流行りだしていたバイオテクノロジーという言葉の実践の場でした。研究室には、有機化学や微生物、分子生物という分野が並んでいたはずで、お酒等を扱う醸造学ってのもありました。他大学では、肥料学/作物栄養学や土壌学も微生物や有機生物化学を扱う分野で、ならば当然に農芸化学に含まれていたのです。ところが、東京農工大学では、土壌/肥料の研究分野は農業の本道であるという意識のもと、農学科に置かれていました。
 そういうわけで、農工大学の農芸化学科は、ぼくにとっては農学部というよりは理学部生物化学科という雰囲気が想像以上に強い場所でした。で、ぼくが農学部を選んだ理由は、途上国での農業支援につながる道を探したいでしたから、理学部生物化学という雰囲気はちょっと違うなぁだったのです(結果として、ぼくの途上国との関わりは、農業ではありませんでしたけれど)。
 で、入学後しばらくしてすぐに転学科を考え始めていました。農芸化学科と農学科、両方の先生何人かにも相談しました。印象深かったのは、「農学科に行くと(来ると)、就職が大変だよ」と何人もの先生から言われたことです。当時、農芸化学科のほうが農学科よりも就職状況がずっと良かったらしいのです。でも、それに対してぼくが「農学科を卒業後、(就職できなくて)飢えて死んじゃう人はいますか?」と聞くと、自信をもって「いるよ!!」と言う先生はいなかった。で、安心して農学科に鞍替えしたのでした。教授会では「間違って農芸化学に入っちゃって、農学科に転学を希望している学生がいる」と転学科理由を説明され、転学科を認めてくれたそうです。あのころから、間違ってばかりいたのだなぁ。

 農芸化学科と農学科、移ってみると随分と雰囲気が違っていたことを思い出します。まず、農芸化学科のほうが女子学生が断然多かった。移った農学科の男子同期生からは「なぜまた好き好んで農学科へ?」と、ぼくの判断に疑問を投げる声が多かったのは、それが理由だったと思われます。
 さらに農学科では、実家が農業をやっているという同期生が何人もいました(農芸化学科には、農家出身の同期はほとんどいなかったように思います)。農学科のメンバーと話をしていると、最終的には実家の農業を継がなければならないという思いを持っている奴が多かった。その際に、彼らが口にするのは「ご先祖さまから受け継いできた農地」に対する責任というような思いでした。ご先祖さまを意識することがほとんど無かったぼくには、彼らの先祖と土地への強い思い、あれは、新鮮で印象深かったなぁ。驚きですらありました。

 ぼくの父は、新潟の豪雪地帯の零細米作農家の長男として、家を継ぐのが当たり前という価値観で育ちました。地元の高校(僻地でしたので、定時制高校しかなかったそうです)卒業後、地元で生きていくという前提で村役場で一度は働き出したそうです。しかし、それでも何か満たせぬ思いがあったのでしょう。数年後、継ぐべき農地と両親(私の祖父母)とは弟(私の叔父)に任せて、東京へ出てきて大学進学しちゃったのです。
母は、東京生まれ育ちで、実家は瓦屋稼業でした(誰も継がずに、祖父が亡くなった後に祖母が経営していましたが、やがて廃業)。というわけで、東京生まれ育ちのぼくは、特に継ぐべき土地や商売もないという環境で育ちました。そんなぼくにとって「ご先祖さまからの土地を継ぎ守る責任感」を当然のように感じている同世代というのは、かなり新鮮な存在だったのです。一方で、ぼくの地域との結びつきの希薄さは、土地持ちの彼らには不思議なものだったかもしれない。お互い、どこか異星人、未知との遭遇みたいな気分があったように思います。ぼくは、彼らを通して、自分自身の「気楽さ/身軽さ」に改めて気がつくという按配だったのです。

ジェンダー批判から育まれた男女平等論への師から疑問

 さて、最近、ぼくが勝手にその“弟子”であるつもりである師匠筋K先生が、ご自身のブログの中で最近のジェンダーなどに関している人々が、生物の基本として雄雌の平等はどのように理解しているのかと疑問を持っている」という一文を書かれたのを見つけました。

 K先生はカンボジアの理数科支援ODAプロジェクトで共に働き、大変お世話になった方です。また2年ほどプノンペンで同じ借家に同居していました。その2年間、プノンペンにある中国拉麺というけして小綺麗ではない中華食堂で、K先生を毎晩のように独り占めできた幸運にぼくは恵まれました。当然、彼の言動から(勝手に)多くを学ぶことになりました。ちなみに、K先生とぼくは、二周り違いの同じ辰年という年齢差です。

 K先生が、ジェンダー(社会的性差)を問題視する価値観に対して、厳しい視点を持たれていることはその時から聞き知っていました。彼が問題視していたことを簡単に書けば「生物として雄と雌は違うものなのに、それを無邪気に平等で語ることの弊害」というようなことでした。
 生物種のひとつであるホモサピエンスも、当然、雄と雌でいろんな点が違う。その性差は、生物進化の長い道のりの中で培われてきたものであって、それを無視するような平等論は怪しからん、とK先生は常日頃口にされていたのです。
 その点に関しては、ぼくはK先生の考えに疑問ありでした。ですから、二人だけのときにはK先生のジェンダー論批判が盛り上がることはめったになかった。けれども、どなたかジェンダー平等論を苦々しく思っている人が同席している場では、K先生のジェンダー批判は滑りがよくなり、ぼくの耳もそれにピクピク反応するという具合でした。ぼくの耳がピクピクしていたのはK先生も当然ご存知で、おそらくそれをからかう気持ちもあったのでしょう。かなり油断した会話もあったようにあの頃のこと(もう10年以上前になりますから)を懐かしく思い出すのです。

 ここで、改めてK先生のジェンダー批判に思いを馳せると、彼の主張の主要な点は、子育てでの母親的な存在の役割を重要視することにあったとぼくは理解しています。現代の社会問題の多くが、その根本に社会的子育ての弱体化に帰着するとK先生は考えていました。古来から存在した次世代を育てる社会力が、ここ数世代でどんどん低下している。そして、そのことが子どもたちの育つ力を削いでいることをK先生は問題視していたのです。子育て力の低下は母親だけのせいではないけれど、でも、母親的な役割の重要さというのは人間を生物種のひとつと考えれば当然あって、そしてジェンダー(社会性差)を批判する勢力の男女平等的価値観こそが、子育てにおける母親的役割の弱体化を生み出す大きな要因のひとつだとK先生は危惧されていました。

 つまり、男女平等がジェンダー平等論を背景として不用意に強く主張されている状況が、“母親”と“子”との関係の希薄化に拍車をかけている。そのことが子ども世代の健全な成長を阻害し、それが人間社会をより不安定にしているというのです。生物種として失ってはいけないものを現代社会の人間は失いつつあり、ジェンダー平等論を背景とした男女平等論は、それを助長している。そして子ども世代の不健全な成長は、人の幸せにとってはマイナス面が大きい。 それが「最近のジェンダーなどに関している人々が、生物の基本として雄雌の平等はどのように理解しているのかと疑問を持っている」 というK先生の問題意識の背景にあるのです。

「“青い珊瑚礁”問題」、ヒトは学習無しで性交できるか?

 「生物の基本」をどう考えるか。ぼく自身は、現代の人間を「生物の基本」で語ることは、無理があると考えています。大脳新皮質を肥大化させた人類は、生まれたときから脳にプログラムされた行動様式だけでは生きてはいけない。行動のほとんどが、誕生後の学習が必要なのです。

 本能という言葉があります。例えば“母性本能”のように使われる。
 でも、通常、ぼくたちが使う母性本能も、もはや実は本能ではない。あれも学習だとぼくは考えます。メスが赤ん坊を抱き、乳を与えるのも、もはや人間は学習なしにはできない(それはサル学からもすでに様々な事例が報告されていることです)。けして母性本能が発揮されて、子を慈しむ感情が湧き出しているわけではない。社会的な期待があってこそ、それが“発動”されていて、でもそれを人々は“母性本能”というまるで個々に元々備わった生物としての当然の能力かのように語る。

 K先生とは、第三者も混ぜたところで、ぼくが「“青い珊瑚礁”問題」と呼んでいる仮説問題についても議論したものです。“青い珊瑚礁”とは、女優ブルックシールズ主演で1980年に制作された知る人は知る一世を風靡した(?)映画のタイトルです。

 知らない人のために、簡単に青い珊瑚礁の筋を紹介しますと、南太平洋を航行中の帆船客船が事故で遭難し、8歳の男の子と7歳の女の子が無人島に流れ着く。それから二人はその孤島で成長し、やがて愛し合い、子どもが生まれる(その美しく成長し子どもを産む女の子が、美少女ブルックシールズの役どころでした。以下、粗筋は省略)。
 さて、問題は、性の知識も何もない幼い男女が二人きりで成長し恋に落ちたとして、二人は性交し子を作れるか否か、です。肯定派は、そんなもん、自然に判っちゃうのよ、できちゃうのよ、と云います。否定派は、学習なしじゃ無理よ、つまり本当なら青い珊瑚礁みたいなことは起こらない、と考えます。ちなみに、私は否定派です。でも、否定派に則れば、それじゃあの映画は成立しない。
 ですから心の優しい否定派としては、青い珊瑚礁の事例をなんとか説明してみようと努力します。ひとつの仮説は、若い二人はウミガメからそれを学んだ説です。南太平洋の孤島で長く暮らしていれば、ウミガメの交尾に出会う機会はきっとあったでしょう。そこから若い二人は、性交を学ぶのです。
 あ、性交に至る以前のいわゆる性的衝動は学習なしでも起こります。ムラムラしちゃうみたいな気分。あれは性成熟にともなうホルモンによる生理的現象ですから。そして、それは肉体的反応にも繋がります。でも、勃起したものを前に、それをどう処理すればいいか、青年たちはわからない。自分ではコントロールできない初潮(とその後の規則的に起こる出血を伴う生理現象)や夢精に、ふたりはオロオロするばかりだったはずです。
 でも、ウミガメの性行為から彼らは学習したとすれば、ついに彼らはその共同作業に成功するのです(という興味深い過程は、映画では省略されていたのです)。
 あるいは、青い珊瑚礁はフィジー諸島の小島で撮影されました。そして、フィジー諸島を始めとする南太平洋の島々に人類が渡った際(たった数千年前と考えられています)、人類は家畜化された豚を持ち込んだことが知られています。つまり二人が暮らした孤島にも、再度野生化した豚がいたのです(映画でも、その孤島には周辺の島々からときどき住民が一時的に渡ってくることが描かれていました、そんなときに豚が持ち込まれたのでしょう)。そして、その野ブタの繁殖活動から彼らは学んだというのが第2の仮説です。そして、ウミガメにしても、野ブタにしても、彼らが学んだのは当然に後背位だけだったはずです(ま、その具体性はまた別の話として、ここまで)。

 そんな考えをぼくが開陳すると、同席した本能派は「そんなん学習なしでもできるって」と言って譲りません。本能派は、自分たちがいわゆる青年誌や成人映画、あるいは耳年増(ここでは女性に限らない)友人先輩からこっそり教わったあれこれを忘れちゃっているのです。あるいは、「特に知識なしでも出来たし」ということを密かに誇りに思っていたのかもしれません。それも対し、謙虚な私は、それを可能としたのは絶え間ない探究心と学習成果によるものだったことをちゃんと覚えていたのです。
 K先生は、その辺りはニコニコしながら聞いていることが多かった。けれど、彼は「人類は本能を失った存在」とするぼくの意見には強く不賛成でした。おそらく、生物種としての長い歴史(数億年)によって獲得された本能的なものが、たかが数百万年の人類史で簡単に失われるものではないと考えていたはずです。そして、本能的なものが失われていくことは、生物種として奇形であり、危険なのだと判断されていた。それがジェンダー論批判にも繋がっていったのです。

「生物の基本」でヒトを語ることの限界

 さて、人類は本能をほとんど失ったと考えるぼくにとって、下手な本能論(生物の基本論)で男女の違いを強調することは、もはや利少なく害多しです。子育てに母親的役割が重要なのは理解できますけれど、だからそれを女性が果たさなければならない、とも考えません。
 ぼくの母は、「子どもは三歳までは母親のもとで育つのが一番」と信じ、実行し、そのことを自慢気に口にする人です。そして、生後半年で保育園に通い出した孫(私の子)のことを「かわいそうだ」とよく評していました。当然それは、言外に孫の産みの両親批判を含んでいました。

 さて、保育園に育ててもらった彼女の孫が、その後、どんな人生を歩んでいるのか。人間の成長に関する研究が難しいのは、ひとりの子の成長において、比較実験・対照実験ができないことです。母親が育てた場合と、保育園で長時間保育を過ごした場合と、子どもの心身の成長にどんな違いが生まれたかは比べることができません。さらに、人の人生に影響を与えるであろう刺激因子はたくさんあります。栄養なのか、学習の質なのか、母親的存在との肉体的接触なのか、その後の交友関係なのか、社会環境なのか、ファクターが多すぎて、それぞれの影響度を正確に測ることができません。
 ですから、私の母の孫の幸福度と、その決定因子を見つけることは、不可能です。

 それでも、世の中には平均値がある。そしてK先生が問題視するのも、彼の経験値から推測される子どもたちの平均値的尺度です。たとえば日本社会の子どもたちの「意欲の低下」は途上国の子どもたちと比較しても著しいとK先生は書かれています。そして、底の浅い男女平等論が、子どもの意欲の低下を生み出している要因のひとつだと、K先生は評価しているようです。

 人は幸福のために生きるとK先生はよく口にしていました。しかし、となるといわゆる伝統的ジェンダー(社会的性差)により生じた不幸と、ジェンダー論的男女平等論によって生まれる不幸とを、比較検討しなくちゃいけない。数億年の進化の過程からみれば、ごくごく最近発見されたジェンダー論なぞ軽々しいのか。ぼくはそうは思いません。ジェンダーの罠から逃れられなかった人たちを救い出すという点で、ジェンダー論的男女平等の価値観の広がりが果たした貢献はとても大きい。「生物の基本としての視点からの雄雌の平等」という視点は、ヒトを野生動物と比較することにつながる危うさをぼくは感じます。ぼくらはもう野生からずーっと遠いところに来てしまった。そのことはもう否定できません。

 だから、今ここに存在している社会的不自由さからどう逃れて個人の幸福を追求するかのほうが、「生物の基本」に立ち返ることよりも重要だというのが、ぼくの意見です。その結果が長期的にみれば、人類の絶滅につながるかどうかは、ぼくにはわからない。つまり、その可能性は否定しきれません。
 でも、「生物の基本」を失っったことがヒトの絶滅につながっていくとしても、それは大脳新皮質を増大させ、いわゆる古い脳を抑え込んだヒトという生物種の行き着く必然だとぼくは考えます。生物種の絶滅は、これまで当たり前のように起こってきた。それを避けようとしても、避けられるものでもありますまい。

 それよりも、古い価値観から派生する「女だから」とか「男だから」とかで可能性を潰される不幸を少なくしたい。そのためにも、ジェンダー(社会的性差)を批判的に捉えて、男女平等を目指すのは、人の幸福にプラス、つまり貢献が大きいとぼくは判断しています。子の育ちに、母親的な存在が必要ならば、そこは社会が工夫するところで、産みの親である女性が個々にその対応の責任を持つことはない。けれど、「生物の基本」を持ち出すことでたどり着く先は、そういった生みの親(女性)の個々の対応を重要視することだったりしちゃうんじゃないでしょうか。

 たとえば、「先祖代々の土地」を引き継ぐことに大きな価値を置く人生を否定はしません。ただ、そういう価値観を絶対視するのはぼくは大反対です。同様に、3歳までは母親が近くにいるほうがいいと思うのもありでしょう。ただ、それももはや好みの問題じゃないなかな。「私はそうしたから、あなたもそうしないさい」というのは、醜悪です(それに、その結果はたいした成功例にもならなかったことを、ぼくは我が身をもって示してきました)。

 そして、産み育てるのは女性の役割という選択肢しかないのは、もう多くの人にとって残酷な状況になりつつある。もちろん、子宮を持っているのは女性のみで、そのための配慮は必要です。当然、例えば産休の必要性は女性に高い。だから、男女が等しく産休制度を使う必要はないとぼくは思います。でも、男性が育児参加する機会が増えるのは面白い。その点では、男性の育児休暇取得が広がるのは、人の幸せにつながる可能性の広がりだと高く評価します。

  ただただ「同じ」ならいいと男女平等論者が考えているわけではない。その点では、例えば内閣閣僚の半分が女性になったからといって、男女平等が達成されるわけでもないのもそのとおり。けれども、象徴的な事象として、日本の女性の政治参加が制限されているのは、やはり残念な状況です。だから、閣僚の女性割合は、日本社会の健全さ(不健全さ)を示すひとつの指標としては、注目する価値はある。

 生物進化の数億年の歩みを考えたとき、とりあえず宇宙の瞬時を生きるぼくたちにできるのは「思えば遠くへ来たものだぁ」と歌うことぐらいなんじゃないかなぁ。それとも想像力を駆使して、「さらに遠くへ行きたいなぁ」と歌うのか、あるいは行き過ぎた進化を危うんで「やっぱり野生の魂とりもどせぇ」と歌うのか。ぼくはどうしたって、前者だなぁ。まぁ、個人の残り時間を考えると、もう対して遠くまではぼく自身は行けないのですけれど。

 さて、とにかくK先生、ブログに「最近はボケてきた」と書かれておりますけれど、順番としては仕方ないことでもあります。どうぞ先生が書かれているように、進むボケを見つめるのも楽しみつつ、まずはどうぞお元気でお過ごしくださいませ。ボケも楽し、と書かれる先生に、弟子としてある種の頼もしさを感じつつ、今回のブログを挑戦的に書きました。失礼をお許しくださいませ。
 ではでは、またまた。中国拉麺、もう一回ぐらいご一緒したいです。ぜひ、ぜひ。

 

2件のコメント

ジェンダーと言うほど、大げさではないのですが、わたくしの経験を。
1981年、私の就職したのは盲学校でした。今よりも障害者の大学進学、就職は厳しい時代でした。下宿を見つけるのも1週間で見つかればよい方でした。何人もの教職員はいろんな門戸開放運動へ支援していたことは事実です。
イクメンなんて言葉は出てくる20年以上前ですが、子育てには理解がなかったですね。子どもが保育園や小学校へ行っていたころ、通院などでどうしても休まなければならないときには先妻とは年休取得の「星取表」を作っていました。家事は基本的に半分(とはいえ、妻が多く負担したのは事実です)でした。
そういった生活をしていたのですが、職場の理解はなかったですね。子どものことで年休を取れば「なんであんたが帰らなければならないんだ」ということを何回言われたことか。その都度、この人たちは本当の障害者解放運動なんてできない、と思いました。実際、障害者の門戸開放運動などで、「これ以上は私たちの力を超えているから」との言葉を数えれば片手以上に聞きました。一緒にやっていたはずなのに気が付けば、みんなが一歩下がって下がるのに躊躇していた私が一歩前にいたことも片手以上ありました。
言うはたやすいですよね。言うだけですから。でもそれを実行するとなるとかなりのエネルギーが必要です。
なんか、開発国支援にも似ています。言うのは容易い。でもそれを自分を例外なしに続けるとなると結構のエネルギーがいりますね。
 

間々田和彦様
いつもコメントありがとうございます。
40年前とは云え、男親が子どもの病気で休みを取ると「なんであんたが帰らなければならないんだ」ですか。昭和って、そういう時代だったのですよね。
障害者の家族の負担は、そのころと比較すると、多少は減っていると考えても間違っていはいないのかな。でも、とくに幼い障害児のいる家庭での両親、とくにやっぱり母親の負担は、今でも大き過ぎる(?)のが現実ですよね。支援を受けることに積極的になれない「文化」もまだあるのでしょうけれど。
輪廻転生、つまり前世の云々を問題視する仏教観を持つカンボジアを含む東南アジア大陸部では、障害者・児を持つ家族の負担の大きさは、その日本の比ではないでしょう。それでも、少しずつ高齢者が増えることで、20年前よりも車イスの人を町中で見かける機会がプノンペンでは増えているようには感じます。
20年前は、エスカレーターやエレベーターは珍しかったですから。その点では、多目的トイレも備えたイオンモール1号2号がカンボジア社会の啓蒙に果たしている役割はかなり大きいのではないでしょうか。
その観点から、本当に残念なのは、JICA支援の公共バス支援です。支援するバス、多少お金がかかっても車イスの乗り入れ可能なタイプにしてくれていたら、それだけでもかなり価値観の転換は起こったはずなんだけれど。
と、ジェンダーから話がずれてしまいました。
カンボジアでは、女性リーダー、まだまだ難しいようにも感じます。女性大統領をすでに2名出しているフィリピンとは、ジェンダーの視点からはずいぶん差を感じます。その点は、祖国日本もダメダメですけれど。

村山哲也

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