「私たち」「〇〇人」「男は」「障害者たち」、複数形って危ういですよねぇ。それでも、複数形をつかうしかないときもあって。たとえば、「カンボジアの人たちに読んでもらう」とか。

2022年2月時点での、カンボジア首都プノンペン中心街の一風景。これがカンボジアと思ってはいけない?のだろうか????写真提供 サンワーさん

複数形・集合名詞のいやらしさ

 複数形を使って作る文章が好きではない。主語でも、目的語でも、もちろん所有格でも、どれも読んだそばから嘘くささがまとう。自分で書く文章に複数形を使うときもそうだ。特に“私たち”に続けて複数形を使うときの腐臭はいやだねぇ。
 私自身は、もはや絶対に書かないつもりだけれど「私たち日本人は」とか、あえて陳腐な表現を使えば、虫酸が走る。と書きつつ、この前もどこかで(このブログかもしれない)「私たち障害者は」というようなことを書いたような気もする。

 あぶない。

 とにかく、複数形って「ホントかよ」って思わせる危うさがある。そこから派生して、同人会、クラス会、同窓会、ファンの集い、邦人会、県人会、囲む会、等々、どれも注意報発令!って感じがする。そこで語られる言葉たちは、大いなる油断を(まと)ってはいないか? つまりは、そういうことだ。
 もちろん、性別も極めて危うい。「男は」とか、「女は」とか、もちろん「性的マイノリティー」だって、そうだ。
 まずは「私」、一人称単数で始めようぜ、って思ったりはする。と書きつつ、一方で自分個人の考えなんて、実は歴史と場所から自由ではあり得ないとも思ってもいる。オリジナリティーなんて、実は思っているほどたいしたもんでもない。ピカソだって、チャップリンだって、1970年代の青い芝の会神奈川支部だって、歴史と場所から自由に生まれたなんてことは、あり得ない。

 独創性とか、個性とか、「私」とか、離陸前には大いにその“オリジナリティ”で加速していきたいけれど、離陸に成功したからといって大地から自由になれたと思うなよ、ってことなんだろう。
 いや、謙虚になれと言いたいわけでもない。丁、丁、丁、ときたら、そろそろ半がくるだろうと考えるのは、つまらない。だから、波にのっているときはイケイケドンドン、飛び立った大地など振り返るなよッ、なんだけれども。でも、イケイケドンドンだけで飛び続けられるほど甘くないのもホントでさ、だから根無し草だからって、根のないところで生まれたわけではないってこと。ま、そんなことは、当たり前なのだけれど。

 とにかく、複数形は嫌いだ。使いたくない。Going my way、あんたはあんたの道を行けおいらはおいらの道を行く、勝手に一緒にするなよだし、自分でない誰かを一緒にして「私たち」とか言わないように、気をつける。

それでも複数形・集合名詞で考えちゃうことはあって

 それでも、やっぱりどうしたって、複数形・集合名詞で考えなくちゃいけないこともある。特に二人称や三人称に対しては、むしろ日々暮らしていく上では、多い。

 今、直面していることもそう(とここから先、文体が少し変わります)。

 カンボジアの人たちを読者と想定して、文章を書くことを目指そうとしています。でも、私はカンボジアの言葉をほとんど使えない。まず「日本語」で書いて、それを「英語」に直し、さらに「カンボジア語(クメール語)」で仕上げようという魂胆なのです。無理は承知の上での挑戦です。
 私の中で大事にしたいと思っていることは、たとえ日本語で書き始めるとしても、想定する読者はカンボジアの人たちだということです。つまりそれは、日本で出版した本のカンボジア語訳ではないはずなのです。
 途中で英語を挟む理由は、カンボジア語に翻訳する際のマンパワーの問題がひとつあります。カンボジア語を母語とする人の中では、日本語が理解できる人よりも英語が理解できる人のほうが圧倒的に多い。ですから、(私のわからない)カンボジア語に仕上げる際に関わってもらう人たちにとっては、やはり英語が便利になるのです。
 さらには、カンボジア語の文法は、日本語よりは英語により親和性が高いというのも理由の一つです(ただし、英語とカンボジア語の大きな違いは、英語は必ず主語が必要ですが、カンボジア語は主語なしの文章が可能だということです、その点だけに注目すると英語より日本語に親和性があることになるけれども)。

 果たして、日本語で書いた文章がカンボジア語文章としてきちんと意味が通じて、読みやすいものになるのかどうか?「そんなの無理だよ」という声も聞こえてきます。「微妙なニュアンスは諦めるしかない」なんて声も聞こえてきます、たとえばオノマトペ(擬態語・擬声語)は最初の日本語から排除しなければいけないだろうとか、形容詞もわかりやすいものに限らなくてはいけないだろうとか。単純な短文で書かれた文章では、読み物としての魅力はかなり犠牲になっちゃうだろうとか。「だろう」に下線を引いたのは、「いや、そうなるかどうかはやってみなくちゃわからない」という思いも私の中にあるからです。結果として面白味のない文章になってしまうかどうかは、やってみなくちゃわからない。
 現段階で一番大事なのは「やってみること」だと思っているわけです。そして、私にはタイの人たちでもなく(つまりタイ語ではなく)ベトナムの人でもなく(つまりベトナム語ではなく)、最終的にはカンボジアの人たちに読んでもらう(つまりカンボジア語にする)という一点が、私にとっての突破口だと思っているのです。その一点に、唯一、可能性を見出している。
 私が書こうとしているのは、いわゆる理科本です。イメージとしては、日本の出版界でいうならば講談社から出ているブルーバックス。『子供から大人まで楽しめる、一般向け科学シリーズ』を目指そうということなのです。そして、20代後半から続けてきた途上国での理科教育応援の経験と、カンボジアでの10年を超える経験を活かせないかなぁという野望?希望?なわけです。誤解なきようにあえて書きますけれど、教科書支援ではありません。あくまで一般書です。そして、それを最初の一文から最後の一文まで、あくまでカンボジアの人たち(中学高校生以上の理科に興味を持ってくれる若者から、理科を教えている先生たちというのが、想定する読者です)のために書こうという目論見なのです。つまり、日本の人たちを対象にするならば書くであろう文章は最初から書かないし、書かないであろう文章も最初から書く。

 たとえば、日本の人たちに書くのであればカンボジアのアンコール時代の歴史に言及する際には必要な説明も、カンボジアの人たちには書かずにどんどん進んで良い(はず)。「ガラパゴス諸島」の説明は、日本の理科好きには省略しても通じるでしょうけれど、カンボジアの理科好きには丁寧な説明があったほうがわかりやすい(はず)。使う年代も、カンボジアの事例でいけるだけ押す。ガリレオが活躍したのは、「関ケ原の役のころ」ではなく、「アンコールの地からクメール王朝が撤退した1431年から150年以上経ったころ」。なにかの例え話も、きっと大きく変わるはずなのです、その読み手が誰なのかによって。

 この個人プロジェクト、コンテンツを書くこと以外にも、どういう形で読者に届けるのか? 紙なのか、インターネットなのか、流通はどうする? 最低でも支出に見合う収支も期待したいのですけれど、その収支を得る仕組みをどうするのか? そもそも、そこそこページ数のある「本」をカンボジアのある程度数の読者が読んでくれるのか? 不明確なことは、たくさんある。つまり、そのどこかで「計算ミス」があれば、このプロジェクトは失敗するのです。まだまだリスク山盛り、成功の可能性は高くない。

 でもまぁ、すべてをクリアにすることはできないわけだから、後は「やるか、やらないか」だけの問題でもあるのです。だから、やる、と私は決めたのです。

読者として想定する「カンボジアの人たち」、とは誰か

 で、ようやく本題。

 ここで私がぶち当たっているのが「カンボジアの人たち」というやつなのです。集合名詞。

 先に書いたように、誰が読者なのかによって、書くべき表現は変わっていくのです。そして、私は「カンボジアの人たち」に書くと、このブログで書いた。けれど、その「カンボジアの人たち」とは、いったいどんな人たちなのでしょう。

 2002年から現在まで、私の知人の多くはプノンペン在住の中産階級の人たちです。その多くが教育関係の仕事についている、いわゆるエリート層です。彼らは大学までの学歴を持っていて、修士(マスター)だって珍しくありません。彼らの多くが、この20年でプノンペン市内に持ち家を買い(多くは建売集合住宅)、自家用車を購入しています。自らファミリーコントロールを考えて実行しているので子どもの数は1~2名という事例が多い、もちろん子どもにかかる教育費を考えてのことです。その出会った頃20代だった彼らは、今40代となり、子どもたちを私立学校に通わせています。

 IMFによる2020年のカンボジアの一人あたりの名目GDPは1606米ドルです(カンボジアの一人当たりのGDPの推移 – 世界経済のネタ帳 (ecodb.net))。1年で20万円に届かないような額となります。同じくIMFによる推計で、2020年の日本の一人あたりの名目GDPは4万米ドル(400万円強)程度です 日本の一人当たりのGDPの推移 – 世界経済のネタ帳 (ecodb.net)。つまり両者の差は、20倍以上あるのです。
 それでも、上述したように、私の知人の多くがここ20年でプノンペンに持ち家を買い、自家用車も(多くは中古ですけれど)手に入れました。現時点(2022年)で新築だろうと中古だろうと集合住宅を購入し、さらに新車であろうと中古車であろうときちんと走る自家用車を購入したら一千万円でも足りないでしょう。プノンペン中心地まで一時間以上かかる場所に家を購入し、10年以上経った中古車を購入するなら、ようやく一千万円は切るかな、というのが当地の物価です。
 年間収入が20万円(夫婦で40万円)として、1000万円の買い物をするってどういうことなのか? ローンであったとしても、正直どう計算すればいいのか、よくわからない。10年前であっても、現在の半額(500万円)よりは多くの資金が必要だったと思われます。そして、10年前であればカンボジアの一人あたりの名目GDPは800米ドル(8万円強)程度だったのですカンボジアの一人当たりのGDPの推移 – 世界経済のネタ帳 (ecodb.net)

 つまり、私の知人たちは、中産階級の中でも経済的にはかなり恵まれた層であるということです。彼らの多くが、年収はそろそろ100万円を超えるだろうと想像できます。そして、カンボジアでも子どもたちの学校の成績と親の収入には正の相関があるのです。豊かな家庭の子息のほうが、高い教育を受けられるということです。
 そして、私が「理科好きのカンボジアの人たち」としてまず浮かんで来るのが、彼らであり、彼らの子どもたちなのです。そう考えると、私が想定している読者たちは、カンボジア社会の中ではかなり特殊な人たちではないのだろうか。
 現在でも全人口の3割強が農業に従事している(生活基本情報5 産業・経済編 |カンボジア生活情報サイト:スター☆カンボジア (starofcambodia.com)より)カンボジアで、私が想定する「カンボジアの人たち」と、「平均的カンボジアの人たち」との間の乖離の大きさを想像すると、冷や汗が流れる思いがする。私が作ろうとしている「本」は、果たして「平均的なカンボジアの人たち」にも届くものになるのだろうか。

そもそも〇〇人とか、もう通用しないでしょう

 と書いてみて、でも「平均的なカンボジアの人たち」という存在だって、実はよくわからない。年間の生産量が米ドル換算で1600ドルぐらいな人たち? 総人口の3割強が農業従事者な人たち?(上述の生活基本情報5) 2011年時点で「1日2ドル未満で暮らす貧困層は828万人と推定(2011年時点での総人口数は1400万人強)される人たち?グラフで見るカンボジアの人口推移(過去と未来・将来の推測まで)と一覧表 | GraphToChart」 

 こうやって「カンボジアの人たち」と集合名詞を使っていくと、実際の人たちの姿がどんどんあやふやで不明確になっていくような気がして仕方がない。
 おそらくですね、やっぱり「カンボジアの人たち」という集合名詞も、実態はそんなものあるの?なのだと思うのです。特に、20世紀後半に激動の時代をくぐり抜けてきたこの地(カンボジア)では、世代間の差も大きい。さらには、都市部と農村部の差、経済格差、インターネットを使える人と使えない人との格差、それを無視した十把一絡げの人たちなんていないに違いないのです。
 となると、やっぱりどこにターゲットを絞るか。そもそも、「理科」なんて贅沢なものなわけです、歴史的にも。生きるのに汲々としている人たちにとって、理科は煮ても焼いても食えない無駄なもの。結局、余裕のあるものにだけ許された趣味みたいなものなのだと、開き直ってもいいとも思ってもいるのです。
 せめて千人単位ぐらいでは読んでもらえたらなぁ、と。カンボジアの現在の人口は1700万人強ってところですから、10万人ぐらいぐらいのことは、言わなくちゃだめかなぁ。うん、言うけど。

 そもそもさ、〇〇人、とかもはや通用しないでしょう? たとえば日本人。私にとって日本人とは、日本国パスポートを持っている人というようなくくりかなぁ。日本語人としてくれれば、もう少し広がりが持てる気がするけれど。うん、自分としては「あなたは日本人ですね?」よりも、「日本語人ですね?」のほうが、ずっと強い肯定感を持てる気がします。
 日本人だから、同じ文化?いや、ありえないでしょう。それはここ10年のインターネット拡大によって、ますます決定的になったんじゃないですかね。だって「違う考えの人たち」むちゃくちゃ多いとつくづく実感させてくれるのがSNSだったりするわけですから。
 最近でいえば、たとえば伊藤詩織さんや辻元清美さんに対する読むに絶えない文章とか、安倍元総理や故石原慎太郎への高評価とか、私には別世界からの絶対に理解不能な価値観としか思えなかったりもするもん。宇宙人との遭遇みたい。そういう理解不能な文章を作る人達も、同じ「日本語人」だといわれればそうなんだなぁとは思うわけですけれど、とにかく同じ文化価値観を持つ人と言われても、無理。
 中国韓国北朝鮮への同族嫌悪(でしょ?)の子供っぽさも(だから子供は嫌いだよ)、もはやけっして無邪気じゃすまんし。あぁ、なんかとってもつまらない落ちになってしまいました、今日のブログ。本当に申し訳ない。

 とにかく、複数形、やっかいです。君子危うきに近寄らず(私は君子じゃないけど)、できるだけ距離をおきたいものですね。

 

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