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2021年4月から2年間、全国脊髄損傷者連合会が発行する会報誌「脊損ニュース」が『世界は開いているから仕方がない』というタイトルで私が書いた連載を掲載していました(当ブログの2023年3月での投稿で読めます)。
そして、さらに2023年4月から2年間『続・世界は開いているから仕方がない』として連載は続きました。その連載24回がこの度終了しましたので、ブログで3回分ずつ掲載します。今回は2024年7月~9月です。
連載を書き続ける際に、それほど計画的にテーマを選んでいるわけではありません。私の中にボヤ―ッとした状態で存在することが、たまたま選ばれたトピックで書き始めると表に出てくる。そして、その出てきたことが、また私の中にあることを刺激して次々と書き連なる(それは、このブログを書くという行為でも似たような感じです)。書き始める前には予想していなかったところまで跳ぶことがあって、それが自分でも面白い。
昨日掲載したブログで載せた6月/第15回から続き、この3カ月は皆「言葉・表現に敏感であること」をテーマにしています。今読み返すと、ふーん、こんなこと書いているんだなぁって思います。きっかけは、6月/第15回で書いた松岡正剛氏の「紙オムツを使うと、もう一人前の男とは言えない」という一文を目にしたことでした。あ、これ、ネタになる、って思うわけ。で、書き始める。そうすると芋づる式にあれこれ出てくる。ですから、ひと月分を書くというよりは、数か月分をまとめて書いている、それを後で微調整する(ときには全面的に書き直す)ことが多かった。
最後に校正を自分でするのですけれど、私はこれが苦手で。おそらく、掲載時には脊損ニュースのスタッフが私に告げないまま微調整してくれてもいるのだと想像します。
ここでブログに掲載しているのは、脊損ニュースに送った段階のもの。ですから掲載された文章とちょっとだけ違っているかもしれません。今回自分で改めて校正して、ちょっとだけ書き足したりしたものになります。
7月/第16回 言葉・表現に敏感であること2:誰が聴くのか読むのか
紙オムツに対する忌避感を強く持つ人はかなり多い印象があります。特に男性は、嫌がる人が多いのではないですか?それは、そのまま紙オムツを使う人たちへの蔑視につながっていると私は感じます。
「いや、自分が嫌なだけで、それが必要な人への蔑視はない」とおっしゃる人も多い。けれども紙オムツを使っている人を見て「あぁはなりたくない」と思うわけでしょう? それは他者を軽く見ることにつながるし、油断をしていると他者への揶揄やカラカイとして表出する。
前回紹介した【紙パンツも使用するようになった。こうなると、とうてい一丁前の男とは思えない】は、揶揄が自分に対して向いているから良いのか? でも多数読者も読むのですから、やはり不用意だと私は思うのです。
一番気をつけて欲しいのは、子どもたちの前での何気ない会話です。大人の会話を子どもたちはよく聞いています。そこで《多数にはできることができない人たち》、つまり障害者のことを負の要素で飾って語る人、かなり多いのではないでしょうか。「やっぱり、あぁはなりたくないなぁ」で終わる、そんな会話が子どもたちの価値観にも継承されていく。
非障害者が、「障害を持ちたくない」と思ってしまうことを批判するのではないのです。その思いに負の飾りつけをして油断して表現しないで欲しい、ということです。特に第三者に拡散するような場所で(本や、対談や、インターネットでの書き込みや)、あるいは子どもたちの前で、しないで欲しい。
でも、そのためには「あ、これはダメだな、まずいな」と思う敏感さが必要です。その敏感さは、批判されるからダメということではなく、他者への優しさや許容という種類の感情によるものであることを願うのです。
けれども、自分はこっちの世界に来る前はどうだったろうか?つまり、障害を得る前のことです。ここで私が書いたような敏感さを持てていたのだろうか?
私は海外での教育開発支援を仕事としていました。他者として、別社会に入っていくことが多かった。そこでは越境がひとつの大きなテーマでした。境界を越えた先の新しい世界を理解する必要があったのです。その仕事の中で、事故に遭い、脊髄損傷による下半身完全麻痺となった。
事故前の仕事は、ここで書く「敏感さ」がずいぶんと関係していたように思い出します。乱暴では通用しない。よそ者である自分から歩みよっていく。事故前の多くの越境経験は、障害者世界にやってきたときの私の心持ちをずいぶんと助けてくれたように思うのです。おかげで、私は障害の受容はわりとスムースでした。
けれども、障害獲得以前には障害者世界のことを理解しようとは特にしていませんでしたし、実際には障害者世界をまったく知らない非障害者のひとりだったのです。
でもさ、それほど難しいことではないのよ。他者の気持ちを思う、ってことでしょう? よーく周りを観察するってことでしょう? そして、慎重にコミュニケーションを開く。あくまで安心と安全を心がけて。どうしたってていねいに。(2025春追記:こう書いていると、やはり自分の身近なところに障害者がいないと、非障害者世界の住人が障害者世界を理解するって、やっぱり難しいのかなぁとも思います)
障害は新しい世界でした。それまでの越境との違いは、元いた世界には二度と戻れないこと。
写真:清流の岩場でみかけるイワタバコの白い花

8月/第17回 言葉・表現に敏感であること 3:私たち?
自分でも、他人でも、文章や会話の中に「私たち」が出てくるとちょい身構えます。自分で言ってもドキッとするのです。「私たちって、誰?」
「私たち障害者は……」、「私たち日本人は……」とか、言っちゃうでしょう?でも、本当かいな?って思っちゃうのです。障害者とか日本人とか、そんなふうにさらっとくくれるのかよぉと、心の中でアラームが鳴る。
私たち以外にも、あなたたち、彼ら、男、女、フランス人、アフリカ人、移民、クルド人、政治家、子どもたち、大人、……みんな複数形です。複数形を使って何かを語ることは、とっても怖い。慣れちゃいけない!っていつも思っている。だって、いくらだって例外はあるでしょう?男だからどうこうって、簡単に言ってはだめなんだと思うのです。男も千差万別。ステレオタイプの増殖に自分が貢献する必要はない。
それでも、ものごとを表現しようと思ったとき、複数形、どうしたって使う。私は、コロナ禍前から日本とカンボジアを行ったり来たりで生活しています。カンボジアを語る際には、どうしたって「カンボジアの人たちは」って言っちゃう。「彼らは魚醤が好きで」とか「仏教徒である彼らは」とか。でも、魚醤嫌い、仏教徒でない、そんなカンボジアの人もいるのです。だから…、やっぱり複数形は居心地が悪い。乱発していると、そこからこぼれ落ちるものがどんどん出てくる。
単数形で話したいと思うのです。どんな複数形も、単数の集合でしかない。単数が見たい。単数で考えたい。「私は」で十分だ。「私たち」は、必要ない。これからもそんな姿勢は大事にしたいといつも自分に言い聞かせています。
脊髄損傷者も簡単には一緒にまとめられない。頚椎、胸椎、腹椎、さてどこで壊れたのか?私は胸椎6番でやっちゃった。そして、後遺症として背中のひどい疼痛、さらには胴体をとりまく痺れ感に悩まされています。
でも、疼痛が残っちゃう脊損者って3~4割程度らしいですね。えー、6~7割の人はこのしぶとい痛み無しで暮らしているの?! いいなぁ、鎮痛剤常用の私からしたら、羨ましい。私、アラジンの魔法のランプを手に入れたら、「痛みをとってくれ」とまず頼むつもりです。「また歩けるようにしてくれ」なんて頼んだら、その後地獄のリハビリが待っているのは確実ですもん。「歩きたい」とはもう頼まない。残り二つは?「世界平和」と…、もうひとつはもう少し考えます(「リハビリ無しで、歩けるようにして」でいいじゃない、という突っ込みはおいといて)。
「また歩けるようにして」と、もし機会があればランプの魔人に頼む人はきっと多いですよね。でも、脊損者全員がそう頼むわけじゃない。だから「私たち」はなかなか一筋縄じゃいかないわけです。
複数形を連発した文章や語りには、ときどき辟易とします。そういう文章や物言いは、つまりは偏見と予断の積み重ねだから。油断し過ぎよ。
もしこの連載で「複数形主語」「複数形目的語」なんかが出てきましたら、ちょっと怪しんでよんでくださいませね。油断禁物でありますよ。もしかしたら、私の偏見の発露かもしれない。
写真:盛夏に敬意を表してヒマワリの大輪を選びました。燃えるような黄色、好きな色です。

9月/第18回 言葉・表現に敏感であること 4:「非障害者」という言葉を習いました
コロナ禍があってみんな苦労された。けれども、不幸中の幸いみたいなことはやっぱりあって。それはインターネットでの講習会や交流会がとっても増えて、普通になったことでしょう。
それは出無精になりやすい脊損者にもとってもありがたいことです。
そういうわけで、私は現在住んでいる東南アジアのカンボジアの首都プノンペンからも、日本で開催されている様々なインターネットプログラムに気楽に参加する機会が増えました。
さて先日、そんな機会を活用して『ディスアビリティ(障害)とは何か―人文・社会科学的視点から』というクラスに参加したのです。大学で講師をしている障害学の先生、つまり研究者、が主催した隔週で5回、2か月の小さな集いでした。
参加して、これまで知っていたこと、例えば障害の医学モデルと社会モデル、を研究者目線で再学習できたり、さらには知らなかったこと、例えば、ニューロダィバージェント(脳の機能が異なるさまざまな違いを示す人)、という言葉を知ったり、とにかく面白い内容でした。
その中で、クラスの先生は障害者と対比する言葉としてしばしば「非障害者」という言葉を使ったのです。それが、私にはとても新鮮でした。
この連載では、私は障害者に対比させる言葉としては「健常者」を連発してきました。先生は、この健常者を使わずに、ほぼ同じ文脈で非障害者という表現を選択していたのです。ちなみに、先生も障害者世界の住民です。その彼が使う非障害者という言葉がかなり刺激的だったのです。
なるほど~。健常者と非健常者ではないところも大きなポイントです。健常者目線で見れば、障害者は非健常者です。そして、社会の圧倒的強者である健常者が、もし障害者を非健常者と呼べば、その社会は、優しくないのじゃないかしら?
「しょうがいしゃ」の表記をめぐっては、障碍者、障害者、障がい者、などがあって、それぞれそれを使うそれなりの理由はあったりする。けれども、非健常者という言葉を「しょうがいしゃ」を示す言葉としてはもはや出し難いはず。
一方で、さて非障害者はどうでしょうか? これは社会的弱者である障害者目線の言葉です。そして、障害者でない者はすべからく非障害者。
さて、非障害者と呼ばれて健常者諸君は、どう思うのでしょうか? ふふふ、なんかちょっと慌てふためく様子が想像されて面白いでしょう?
きっと中には顔を赤くして「失礼だ」と怒り出す人もいそうです。
でも、それはこれまでの健常者目線が当たり前だった社会の価値観をひっくり返す言葉と出会ってしまったからこその「怒り」で、「戸惑い」だったりするのじゃないか?
というわけで、その勉強会に参加して、私は新しい言葉を獲得したのです。私は障害者世界の住民ですから、非障害者という障害者目線の言葉をこれから積極的に使っていこうとたくらんでいるのでした。
非障害者、皆様もどうぞ使ってみてください。障害者が使うと逆差別?! フフフ、さて?
写真:ワレモコウの花 (淡い紅色が好ましいのです)


















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