日本列島やら、北半球中緯度あるいは高緯度やらで読んで下さっている方々へ、寒中お見舞い申し上げます。カンボジアなどの低緯度地域や南半球で読んで下さっている方には、なんとご挨拶したらよいのかなぁ。難しいよね、世界の気候は一様じゃないものなぁ。と書くわりには、けして読者数が多い当ブログではないのですけれど。もう少し、読者数が増えたらうれしいのだけれど、さて、どうしたものかなぁ。とにかく、西暦2026年初めての投稿です。
百年前、今以上に過酷な黒人差別があったこと
最近、90年ほど前に米国で出版された小説の日本語訳を読みました。『アンクルトムの子供たち』(リチャード・ライト著 皆河宗一訳 晶文社 1970)です。米国での原著出版は1936年。1936年は、昭和で言えば11年。ベルリンオリンピック開催年。翌年には盧溝橋事件により日中戦争が本格化するころ。世界では、この年にスペイン内戦が始まりロバートキャパ撮影のクレジットで報道写真「倒れる人民兵士」が発表され(スペイン内戦は1939年まで続きファシストのフランコ側の勝利に終わる)、独国では3年前にヒトラーが国家元首に就任し、米国ではチャップリンの映画「モダンタイムス」が初上映され、ソ連では2年前から始まったスターリンによる大粛清の嵐が続く、そんなとき。後のキング牧師、マーティンルーサーキングジュニアは7歳で、彼はこの1年前の6歳のときに近所の仲良しだった白人の子どもの母親から「黒人とは遊ばせない!」と宣言されショックを受けている(Wikipedia日本語版によれば、それが彼の初差別体験だったとか)。あるいはマルコムXは11歳で、黒人の人権活動家だった父は5年前に交通事故で(白人による殺人だったという説あり)で亡くなり、13歳のときに人生最初の逮捕を経験し少年鑑別所に入ることになるまであと2年、そんなころ。
作者のライトという人は、1908年米国南部ミシシッピ州出身の、20世紀前半を代表するアフリカ系米国人小説家です。『アンクルトムの子供たち』の帯表には、《今日のラディカルな黒人文化の原点として今こそ深く追い返されるべき抗議文学の旗手ライトの初期短編集》とあります。帯裏には《「黒い膚」という自らの宿命を甘受し、忍従して生きた腰抜け黒人にかわって、30年代にアメリカ南部の腐敗した土壌をあばき、白人の暴虐に鋭く抗議する戦闘的な黒人が出現した。本書は、かれら「アンクル・トムの子供たち」の魂の奥底からの激しい苦悶と怒りの声を読む者の胸にとどろかせる。》とある。つまり、そういう小説集です。

帯裏の中の一節《「黒い膚」という自らの宿命を甘受し、忍従して生きた腰抜け黒人》が、米国でストゥ夫人が書いた『アンクル・トムの小屋』(原著は1852年発行)の主人公、アンクルトム氏であるのです。私、この本を小学生のころに読んで、正直で誠実なトム氏の姿勢に感銘を受けた覚えがあります。トム、尊敬するぜ、と。
そして、おそらく中学生3年生か、高校生か、のころ、トム氏の姿勢は、単に奴隷を使う側にとって最も都合のいいだけの「正直」「誠実」「忠実」「現状肯定」、だから「腰抜け」で「無知」「へつらい野郎」と米国黒人社会では理解されていることを知ったのです。まさに青天の霹靂、価値観の転換を要求される、つまり個人的革命事件、あるいはあれこそ大人への階段を這い上るその一歩、だったのです。あぁ、トムも、シュバイツアーも、読売ジャイアンツも、長嶋茂雄も、金田正一も、少年時代のヒーローはみんなみんな堕落していったのだったなぁ。
本の最初に序として載っている「黒んぼの生活倫理」では、筆者の実体験であろう、若い男性黒人が学んだ生きるための処世術が書かれています。
「図書館のカードを武器にして、ぼくは次のような方法で、本を手に入れた。図書館員に「この黒んぼの少年に次の書物を渡してください」と一筆認める。そしてその伝言書には、白人の名前を書く。
図書館へ入ると、ぼくは帽子を手に持って、できるだけ書物ぎらいのような顔をして受付の机のところへ立つ。望みの本を受けとると、それを持って家へ帰る。(中略)だれか白人の利用者が、自分の読んでいる本が黒人の家にあったのではないかと疑い出したら、彼らは一刻もそれにはがまんできぬだろうことは疑いない。」(24ページ)
最初のストーリー「ビッグ・ボーイの脱出」では、学校をさぼって犬と黒人は立ち入り禁止の小川の遊泳場で遊んだ3人の黒人青年が、その場で若い白人女性と立ち会ってしまうことをきっかけに起こった事件で、一人はその場で撃たれて死に、さらに撃たれたくないために銃を奪って撃ち返してしまい白人を倒した青年ビック・ボーイは最終的にシカゴに行く荷物トラックに隠れ逃走に成功するものの、彼の両親家族の家は白人たちに焼かれ、もうひとりの若者は白人たちに捕らえられ集団リンチを受けたうえで生きたまま焼かれる。
「彼らはまた、歌をうたいはじめた。
黒んぼは、いつでもすっぱいりんごの木に吊るし———
今は女も歌っていた。女の声が加わると、歌は豊かにひびき渡った。」(86ページ)
ふたつめの話し「河のほとりに」では、大水害から家族を救い出し、産気づいた妻を病院に運ぶために友人が白人から盗んだ白いボートを使った黒人男が主人公だ。電話を借りようと漕ぎ寄った家が、たまたまそのボートの持ち主である白人の自宅で。「ボートを返せ」と迫り発砲した白人を、男は自分の銃で撃ち返して運悪く殺してしまう。なんとかその場を離れ、ようやく病院にたどり着いたとき、男の妻はお腹の中の赤子と共にすでに死んでいる。しかし、妻の遺体を受け取ることもかなわないまま男は白人兵士たちに強制的に災害救助に駆り出される。危険な状況の中で、男は水の迫った病院から白人たちを何人も救出する。さらに家に閉じ込められた白人家族を救出するのだけれど、その家族はさっき殺した白人の残された妻と子たちという再度の偶然。妻子を助ければ、自分のやったこと(白人を銃で撃ったこと)が明るみになってしまうという逡巡を乗り越え、彼は水で流され始めた家からその妻子を間一髪で救う。その後、助けた子どもの訴えで逮捕された男は、逃亡を図り後ろから銃で撃たれて命を落とす。
以下に続く三つの話しの詳細は省くとして、そのどれもが苦悩する黒人たちの姿が描かれるのです。5つのストーリーのうち、主要人物である黒人が白人によって殺されないのは第4話のみ。その第4話でも、黒人社会と白人社会の板挟みになり悩む黒人牧師は、白人側から凄惨なリンチを受けます。黒人側につけば、こんなもんでは済まないぞという脅しです。そして、この夜中のリンチがあったからこそ牧師は翌朝に敢然と黒人側に立つのですけれど。
とにかく今からたった百年前、米国の特に南部ではこの短編集で描かれるようなアフリカ系黒人に対するひどい虐待が実際に行われ、そしてそれらがこうして小説として描かれた。
教科書で「米国奴隷制度廃止」と習う米国南北戦争での北軍勝利は1865年です。ライトが描いた世界の70年ほど前。つまり、奴隷解放後も、猛烈な黒人差別は残ったのです。
もちろん差別・虐殺は続く。でもね……
1930年ごろからこちらを見れば、それは100年後の未来です。当時、この小説を書いたライトは、あるいはこの小説に登場するような黒人たち、さらには白人たちは、100年後にはすでに米国で黒人系の大統領が生まれていることを想像できたでしょうか? おそらくできなかったでしょう。タイムマシンに乗って100年前に出かけてオバマ大統領のことを語ってても、単に笑われるか、一つ間違えば撃たれて殺されるのがオチなのです。
(オバマ大統領がアフリカ系としてあの米国の大統領になったことは良かったけれど、彼の業績についてはけしてすべてを良かったとは私は思っていません。彼の手柄のひとつとしてあげられるのが、2011年にパキスタンで米軍が不法に作戦を実施し公然とウサマビンラディン暗殺したことです。この事象は、オバマがどんなに良いことを言っても、結局は米国という大侵略国のリーダーとしての在り様を超えることはなかったことを私に思い出させる出来事です。ちなみに、このラディン暗殺作戦の暗号名は「ジェロニモ」で、そのことで米国政府はアメリカ先住民たちから抗議を受けています(ビンラディン容疑者殺害 暗号名ジェロニモは「不快」 – 日本経済新聞)。なんだかなぁ。)
今、米国でこのライトの小説で書かれたような黒人への集団虐殺が実施されれば、当時とは比較にならない抗議が世界中で起こるでしょう。
いやいや、ムラヤマさん、おめはなんも知らねね。楽観するにもほどがあるっす。おめは以下の文章どう読むでいうのだが? (山形弁 理由は特にねぇ)
二〇一四年八月にファガーソンで、十八歳の黒人青年マイケル・ブラウンが白人警官によって殺害された。大学入学をひかえた青年は、無実の罪で、肌の色によって差別され虐殺された。一五年四月にボルティモアで、二十五歳の黒人青年フレディ・グレイが白人警官によって殺害された。「目が合った」だけで虐殺された。これらの事件に全米が立ち上がり、BLMと呼ばれる黒人暴動が沸き起こった。(『ただ生きるアナキズム』(森元斎著 青弓社 2024 33ページ)
公民権運動の時代から、人種差別撤廃の高まりは常にある。キング牧師のように、体制側と折衝をおこないながら公民権運動を実現していった者もいれば、マルコムXのように、暴力概念を武器に殺生をおこなっていった者もいる。次第に黒人の地位向上がなされていくが、それでもなお、愚劣なヘイトスピーチや、いわれなき殺人がまかり通っている。(同書 38ページ)
うん、つまり今でも黒人差別はある。虐殺は続いている。確かにそうです。
でも、それでも上記の文中にあるように「全米が立ち上がり、BLMと呼ばれる黒人暴動が沸き起こった」ようなことは100年前にはなかった。公民権運動、キング牧師暗殺は1968年、マルコムX暗殺は1965年、はたった60年ほど前のこと。僕が生まれたとき(1964年)、キングもマルコムもこの世界に生きていたんだ。そして「次第に黒人の地位向上がなされていく」。
つまり、ライトから100年で、世界は大きく変わった。もちろんまだ不十分だけれど、100年あれば変わるのだ。
夢見る力 パレスチナでの一国存立は可能だ
そう、私はこの『アンクルトムの子供たち』を読みながら、パレスチナとイスラエルのことを考えたのです。
1948年の建国後ずぅっと、イスラエルでは「まわりはすべて敵」で、だからこの国を失えば「ユダヤ人は再度のホロコーストに合い絶滅するかもしれない」という教育が行われてきた。国を守るためには、イスラエル以前にその土地で暮らしていたパレスチナ人と呼ばれる人たちを追い出さなくてはならない。二度ともどってこれないようにしなければならない。だから、彼らを排除し抹殺し続けなければならない。そういう学校教育・社会教育が継続して実施されてきたのです。
その約80年の重みが、ガザで何万人死のうと/殺そうと気にしないイスラエル社会を築いたのです。
だから、もしパレスチナ/イスラエル問題の解決を目指すならば、どうしたってイスラエルで実施される「周りはみんな排除すべき敵」という教育を改訂しなくちゃいけません。そして、最終的に目指すことが求められるのは、パレスチナ国家とイスラエル国の2カ国共存ではないと私は信じている。なぜなら、現状語られている2カ国共存は、今のイスラエル国の「パレスチナ敵視」が続く限り不可能だから。パレスチナ国家承認すらできない日本国政府の煮え切らないことの本質から目を背ける米国べったり外交の問題はさておいて、現状でのパレスチナ国家承認は、イスラエル国の蛮行を際立たせるだけの成果は期待できても、実際にパレスチナ国が独立して国を運営する状況への道はまったく立たない。パレスチナの人たちは、イスラエルが管理する多くの境界に取り囲まれ、移動の自由も、輸出入の自由もない。そもそも、二国共存がうたわれたオスロ合意を当事者のパレスチナ自治政府もイスラエル政府も、もはや支持していない。オスロ合意後に、イスラエルのパレスチナ自治区への不法な移住地建設が増えたその一点だけでも、いやはやなんともひどいわけです。そのようなあまりに不平等な、パレスチナ側にすれば当時無理やり強制され、しかも騙された結果に終わったオスロ合意を、第三国が今になってもこだわるのは滑稽でしかありません。
で、あらためて仕切り直しをするならば、最終的なそしてもっとも平和的な解決は、アラブの人たちとユダヤの人たちが共存する新パレスチナ国の建設しかないだろうと私は思う。この一国建設の考え方は、けして目新しいものではありません。イスラエル建国前のシオニズム勃興のときにも共存説は主流ではなかったけれどありましたし、さらには20世紀後半にはパレスチナ人である米国文学者エドワードサイードらも二国案ではなく一国案を提唱しています。
今起こっているガザでの大量殺人と、アパルトヘイト国家であるイスラエル国の実情を考えると、二国共存でもまったく道筋が見えないのに、一国での全住民共存が可能なわけがない。そう考えるのが、当たり前でしょう。私だって、無理だよなぁ、と独り言つ。
でも、百年前の米国南部での圧倒的な黒人への差別、虐殺の事実をリアルに読むとき、それでも百年後、今があるじゃないかと思うのです。キングやマルコムらに代表される人たちの闘いの道があり、米国だけではなくもちろん他国での様々な取り組み、たとえばアパルトヘイト国家だった南アフリカ共和国でのネルソンマンデラらの努力、があって、世界は変わる。変わってきた。変わり続けている。
だったら、パレスチナだって一世紀あれば、どれだけ変われるか。今、不可能と思われていることだって、100年の取り組みがあれば、可能になることは実際に歴史にはたくさんあるわけです。特に学校教育の(いい意味での)洗脳の力はあなどれません。爺婆父ちゃん母ちゃんを子どもたちは超えていく。
もちろん、道のりは厳しいでしょう。その途上ではたくさんの血が流れる。一国が実現した後も、ユダヤ系とアラブ系住民との確執はゼロにはならない。相手を憎む言説が飛び交うことも止まらない。でも、現世を見れば、どの道の途上でも流血は避けられそうにない。それならば、せめて理想を目指す道を進みませんか? 今日を覗けば、悲観ばかりが育ちます。だから、せめて過去と今日と未来の3点を覗き眺めて、楽観の種を植えませんか?
アフリカ系米国住民の例をとれば、事態はだんだんに良くなっていくはずなのです。「殺し合う」「憎しみ合う」ことと、「許し合い」「助け合う」ことと、どちらが人間の本性に近いのか?前者だろうという事例は山ほどあるように思える。後者であるという事例も、たまにはあるように思える。「山ほど」と「たまには」の違いは、果たしてどれほどのものがあるのか? そこにはもしかして思い込みは有りはしないか。実は山ほどあるのが「助け合う」ほうで、たまに起こっているのが「殺し合う」だったりはしないか。ニュースで流れるのはどうしたって「憎しみ合い」の結果だったりするけれど、さ。
今年もアジってしまうわけで……(やれやれ)
百年後の楽観図は、けしてパレスチナの地だけのことではありません。たとえば、我が祖国日本は? 移民を単に労働者としてだけ使いまわしし、日本“固有”の在り様を維持し続けることが理想なのか? それとも、新たな価値をつくり、在り様を模索し、作っていくのが理想なのか?
それを決めるのは、おそらくもう私の世代ではないはずです。たとえば参政党らが日本(人)ファーストを唱え(あるいは我が故郷の東京都で都民ファーストなんて名の破廉恥な政党が勢力を保ち)、それらの党が議席を伸ばし続けていくのか、それともそれはせいぜい十数年のトレンドに終わるのか? 心配です。悲観的になるときもあります。怖いです。
私の考えをちらりと書けば、当然変わるしかないはずです。それが“理想”だと思う。そして、立ち位置はまず理想から。もちろん理想の完全達成は難しい。そして、さらに難しいのが理想の共有です。「日本固有の日本であり続けたい」を理想とする人たちがたくさんいる。そして、彼らの理想を僕はどうしても共有できないの。でも、日本固有の“固有”って何さ?
伝統やら、文化やらいわれても、それらの歴史がそれほど長うもない例は多いい。郷に入りゃあ郷に従えたぁいうけれど、それだって郷の広さは優柔不断。結婚後の味噌汁の味で、日本人同士がケンカしてしまう。じゃったら、それを越境者に強要するなぁどがぁしたって限界あるじゃろう? 無理なことを求めるのが理想じゃないはずじゃ。(広島弁 理由は特にない)
とにかくさ、あなた(私と同世代)の生きてるうちに変わることなどたかが知れているから、そんなにご心配なさらなくても大丈夫だと思います。それに、あなたの暮らしと、あなたの祖父母との暮らし、きっとずいぶん違うでしょう? きっとそういうもんってことなんだよ。だから、若者世代が今と違う、そして“より良い”社会を作り出す、それでいいのよ。
そして、できるだけ多数が幸せを共有できるような一日、そしてそれが10日になって、100日になって、1年になって。そういう平和が続くこと。それだけが、まずは立ち位置、求めることなんじゃないかしらねぇ。若者さんたち、どう思う?
理想を思う楽観者よ、特に若い人たちよ、増えよ!
理想うむいる楽観者さぁ、かわてぃ若さるっちゅぬちゃーさぁ、かじゅーれー!(琉球弁)
理想思う楽観者よ、特に若ぇふとたぢよ、増えよ!(津軽弁)

















100年後の世界を見たいですが、それが叶わないのが残念。ひょっとして叶ったりして。
匿名様 読んで、コメントまで下さって、ありがとうございます。
今回は、このコメントがどなたからなのか、まったく見当がつかないまま返信しています。
「叶わないのが残念。ひょっとして叶ったりして」と書いてくださっているということは、お若いかたかなぁ?
私と同世代だとすれば、例えば私なら100年後は161歳ですから・・・・・、いくらなんでも「叶ったりして」とはかけないですわねぇ。
つまり、10代の方? 20代の方? 若い方なら、うれしいなぁ。いや、年齢にかかわらずよんでもらえたら嬉しいのですけれど。
でも、おそらく私のブログを読んで下さっている方、どちらかといえば、私の世代の方が多いのかなぁと思うものですから。
100年後、パレスチナでは、イスラエル国が仕切り直しをしていて、統一パレスチナ共和国とかが生まれていて、
いわゆる軍事産業が、無くなるとまでは無理でも、もう少し何か大きな仕組みの変化が起こっていて、兵器生産が縮小していて、
我が祖国日本では、いろんな背景の人たちが共存していて、ヘイトとか叫ぶ人たちが減っていて、
世界のあっちこっち、つまりウクライナはもちろん、コンゴ共和国東部の長く続く紛争も、スーダンの紛争も治まっていて、
ルワンダもカンボジアも独裁政権が平和裏に民主的な政権に移行していって、…………
さて、いったいどうなっているのか、実はあんまり想像がつかないのだなぁ。
もしかして、100年後、見ちゃってくださいませね。無駄で深刻な苦悩が減っていると良いのだけれどなぁ。
村山哲也