市民には危害を加えない? 爆撃音を響かせるだけでもそれは暴力行為でしょう。
プーチン・ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まりました。
数ヶ月前からずっと予告されていた侵攻を、世界は止めることができなかった。
北大西洋条約機構(NATO)の存在も、抑止力にはならずに、むしろプーチン・ロシアの軍事侵攻の理由としてしか機能していないんように思えてなりません。
ちまたでは「以前は核武装をしていたウクライナが、経済的な理由によって核放棄をした結果が、今回のプーチン・ロシアの軍事侵攻を招くことになった。他国からの侵略を防ぐためには、結局十分な軍事力を持たなければダメなのだ」という論説がほれ見たことか顔してまかり通っています。
その点では、今回の(核廃棄をした)ウクライナへの(核保有国である)プーチン・ロシアの軍事侵攻は長期的にみれば、核保有国にとっても諸刃の剣になるのではないでしょうか。イスラエルやインド/パキスタン、北朝鮮といった“非合法?!”核保有国は今後も核を保持することにこだわり続けるでしょうし、イランや日本がより一層核保有に舵を取ることを後押ししかねない。当然、さらなる新興諸国が核保有の夢をみることを励ますことになる。
その点でも、プーチン・ロシアの罪は大きいように思えます。もちろん、問題はプーチン・ロシアだけにあるはずもない。詳細な分析をするような立場に私はありませんし、そんな能力もありません。それでも、大きな背景を語れば、軍需産業で潤っている国々にとっては今回の事変はけして悪い話ではないはずだろうし、市井の市民には知ることのできない大国間のかけひきがあるのだろうことぐらいは想像がつきます(日本の株市場でも、2月14日に底を打った軍需産業関連株はその後急騰していると知人のFBでの投稿もありました、株に詳しいその知人によれば、非常に作為的な動きなのだそうです、このウクライナ紛争で一儲けという人たちがいるわけです)。そして、そんな駆け引きの中で今だって損得勘定が行われている。
いみじくも我が祖国日本の首相も「国益を考えて、(プーチン・ロシアへの)制裁措置を検討する」と発言しています。ODA(政府間援助)の片隅で食ってきた私も、国益の文脈で支出される国家の税金によって生活を維持してきました。実際に「国益」という言葉を仕事に関する席で聞いたこともあります。「ODAは、被援助国のためではなくて、まずは日本国のために支出されているのです」というようなことを、改めてお話してくださる丁寧な方も(おどろくことに!)いたりする。むしろ、私よりも若い人にそんな方が増えているような印象もあります。
で、そんな狭い世界で私がせめて学習してきたのは、「国益」を語る人ほど自分の仕事にそれほど自信を持っていないんじゃないかということでした。自信がないと、そういう反論しにくいような言葉を使うもんなんじゃないですかね。「国益を考えて、(プーチン・ロシアへの)制裁措置を検討する」と言った首相が、ご自分の仕事に自信を持っていないということをここで書きたいのではありませんけれど、ね。
ウクライナ政権だって、実際のところ、どれだけ清廉潔白かは存じません。NATO加盟の希望だって、結論だけを見れば自国の人たちに苦労を強いることになってしまったわけだし。そんな政権を選んだとはいえ、市井の多くの人たちにとってしてみれば、空爆が行われる場所で暮らすというのは本当に悲劇でしょう。「生活者には爆弾を落とさない」とプーチン・ロシアは言っていますけれど、ドーンドーンと爆撃音を耳にしながら生活する者にとって、それはすでに「暴力」を受けているということです。直接的な肉体への暴力行使だけでなく、暴言を吐くことだって暴力になるのだなんて、今や常識かと思ってたけど、ネ。
これ以上、ウクライナ侵攻への文句を読むのも疲れる話でしょうから、直接的な言及はひとまず筆を収めます。ちまたでもウクライナに関する多くの記事が飛び交っているわけですから。次の段落からは、ウクライナ紛争とは直接関係はないものとして読んでいただければと思うのです。
「“平和のため”禁止条約」の意義
20世紀以降の紛争・戦争で「平和のため」と説明されなかった例はあるのでしょうか?おそらく、すべての事例で「平和のため」が理由として上げられているんじゃないかな。よくヒトラーも「平和のため」と言って、侵略行為を広げていったと言われていますよね。大日本帝国の中国大陸進出も、南方進出も、やっぱり「平和のため」でした。
それに対抗した米英連合軍の対ファシスト行為も「平和を守るため」。平和を守るために、結局多くの市民が犠牲になったのです。
2022年に勃発したプーチン・ロシアのウクライナ侵攻も、プーチン・ロシアの論理では平和維持軍でした。ウクライナ政権から弾圧を受ける自国民(ロシア人)の平和な生活を守るためだったのです。
それら多数の事例から学べるのは、もはや平和という言葉に積極的な意味をもたせることに意味はないということでした。むしろ、平和とは、紛争を起こす理由としてもっとも良い口実になってきたという冷徹で歴然とした事実でした。
ですから20●●年に、「すべての国際的な紛争において、“平和のため”という理由を挙げることを禁止する国際条約(略して、“平和のため”禁止条約)」が国連で採択され、常任理事国と日本を除いた圧倒的多数の加盟国が批准し同年に発効されたことは、歴史的にしごくもっともなことだったと私は思います。この条約によって、紛争当事者たちは「平和」以外のより具体的な理由を言挙げする責任を求められることになったのです。そして、紛争中あるいは紛争後の紛争責任裁判でその理由の是非が問われることになりました。もはや「平和のための紛争」は口実として一切通用しなくなったのです。そして、紛争の理由として「平和のため」という説明を口にするリーダーたちは、すぐに国際的信用を失う状況が生まれたのです。
もちろん、だからといって紛争責任裁判の実効性を高める努力がその後も必要だったことは変わりません。前述したように、常任理事国と日本は「“平和のため”禁止条約」に加盟していないこともあり、紛争責任裁判の実効性を高めることはけして簡単なことではありません。けれども、これまでほとんどすべての紛争で使われてきた「平和のため」という理由付けが、それを語るだけでも「条約違反を問われる」ことになったというのは、けして無駄なことではなかっただろうと思うのです。条約に不賛成だった常任理事国と日本も、もはや容易には紛争理由に「平和」を語ることはできなくなりました。2022年にロシア軍がウクライナに軍事侵攻した際に、中国政府が「一貫して平和と正義の側に立っている」というコメントをしたことが知られていますが、現在ではあのような抽象的で何を言っているかはっきりしない物言いは国際社会から拒絶されるのです。「平和と正義の側に立つ」と述べるのであれば、その証明責任もその発言側に求められるのが今のルールです。そうでなければ「“平和のため”禁止条約」違反として、すぐに国際裁判所が起訴することになるでしょう。
このように、「“平和のため”禁止条約」によって、実の伴わない一方的な平和を語ることが、「ことを曖昧にする」という社会公共への不利益につながり、つまり有害であると国際社会が同意したことに大きな意味と価値があったと言えるでしょう。
当時、「“平和のため”禁止条約」に対しては、いわゆる反戦運動を活発に行なってきた市民グループ・活動家たちから反対の声が強く上がりました。けれども、結局は事実から学べという実際論・現実論が世界世論を動かすことになったのです。「“平和のため”禁止条約」を巡って広く実施された学習プログラムを通して、平和を語ることの多くが歴史的に欺瞞であったことが判明していきました。むしろ、それぞれの平和を勝手に語ることが紛争を強化してきたという「平和」の負の側面が広く学ばれたのです。悪者ほど「平和」を使いたがるという歴史的事実が、白日のもとに晒されたのでした。
印象的なのは、多くの国家が「“平和のため”禁止条約」に賛成することになった結果、今では笑い話として語られているあの悪名高きノーベル平和賞が廃止になったことでした。
ノーベル平和賞の受賞者を列挙してみましょう。
ベトナム戦争拡大、特に北爆やカンボジア爆撃で功績があった、ヘンリーキッシンジャー(米国/1973年[授賞年、以下同じく])。
沖縄での米軍基地固定化体制を作り上げ、非核三原則を言いつつ米軍基地への核持ち込みに同意した佐藤栄作(日本/1974)。
イスラエルのパレスチナ侵略に国際的な承認を与えたアンワルアッサダート(エジプト/1978)、メナヘムベギン(イスラエル/1978)。
冷戦後の世界的な地域紛争拡大に間接的であれ多大な貢献を果たしたことで知られるミハエルゴルバチョフ(ロシア/1990)。
イスラエルのパレスチナ侵略のさらなる加速に貢献したヤーセルアラファート(パレスチナ/1994)、イスハクラビン(イスラエル/1994)、シモンペレス(イスラエル/1994)。
ルワンダ紛争とその後の中央アフリカ大戦を黙認した国連責任者コフィーアナン(ガーナ/2001)。
イスラエルのパレスチナ侵略に加担したジミーカーター(米国/2002)。
核廃絶促進を理由に受賞したけれどまったく成果をあげらない一方で他国への武力介入を強化継続したバクラオバマ(米国/2009)。
平和賞受賞後も長く続くエチオピア国内の紛争当事者であるアビィアハメド(エチオピア/2019)。
【筆者注 古来から存在したフェイクニュースによる国家運営という手法の21世紀モデルを確立したドナルドトランプ(米国/20●●、2022年以降長期化したウクライナ紛争をロシア併合という形で終結させることに貢献したという理由でウラジミールプーチン/ロシアと同時授賞)や、東アジアの緊張強化やフクシマ原発事故の放射能処理不透明化に貢献のあった安倍晋三(日本/20●●、新型コロナ禍中での2021年東京オリンピック・パラリンピック開催を理由にトーマスバッハ/ドイツと同時授賞)、東南アジア諸国での第二次開発独裁化を積極的に容認してきたASEAN東南アジア諸国連合(20●●、2021年以降国際的に孤立していたミャンマー軍事政権の国際復帰の道を開いたという理由で習近平/中国と同時授賞)のように、2020年代以降も不可解な選定が続き、それらが結果的にノーベル平和賞廃止につながっていった。】
このように、どうして彼らに平和賞?という人たちの名前が並んでいるのです。今から過去を振り返って恥知らずと笑い飛ばすことは簡単ですが、当時は真剣に彼らに平和賞を与えその功績を称えることが大っぴらに堂々と行われていたのです。
もちろん、すべての受賞者が不適格・お笑い草だったわけではありません。もしすべての受賞者が反平和的な人たちであれば、人々はもっと早くノーベル平和賞の偽善性に気がついたのでしょう。けれど、真の意味で平和に貢献してきた人にも平和賞は与えられました。正しく評価されるべき人たちの中に紛れるようにして、上述のような反平和的な人たちが含まれていたことによってノーベル平和賞の欺瞞性はなんとか隠されてきたのです。デニスムクウェゲ(コンゴ民主共和国/2018)、ナディーヤムラード(イラン/2018)、マララユスフザイ(パキスタン/2014)、タワックルカルマン(イエメン/2011)、劉暁波(中国/2010)といった人たちを免罪符として利用してきたことにこそ、ノーベル平和賞の犯罪性があったといえるでしょう。
そして「“平和のため”禁止条約」が(常任理事国と日本以外の)世界で効力を発揮したことで、免罪符として授賞するような立場の人たちの間で「ノーベル平和賞を受賞するのは恥ずかしいこと」という意識が生まれ、広まったのでした。となれば、受賞するのは不適格者ばかりとなり、それがますますノーベル平和賞の価値を下げていった結果、平和賞が廃止されるのはもはや時間の問題でしかなかったのです(今では文学賞の廃止も議論されていますが、これも平和賞廃止の延長にあるものでしょう)。
もう一つの興味深い波及効果として、オリ/パラリンピックの形容詞として使われていた「平和の祭典」という言葉も死語となったことが上げられます。「平和の祭典」という言葉に疑問が呈されたのは何も「“平和のため”禁止条約」効果だけではありませんでした。古くはナチスドイツによる1936年開催のベルリン大会、さらには東西冷戦下に両陣営がボイコット合戦を繰り広げたモスクワ大会(1980)とロサンゼルス大会(1984)でも「平和の祭典」の名は大きく揺らぎました。そして、覇権国家の道をひた走っていた中国で開かれた北京冬季大会(2022)で、その揺らぎはさらに大きなものになっていました。これらの経緯があったところに、「“平和のため”禁止条約」はとどめを刺したにすぎないという評価ももっともなことです。
その後、五輪大会が最近20●●年のナイロビ大会を最後に歴史的な役割を終えたのは、皆様御存知のとおりです。後継として始まった世界競技大会は純粋に競技者の大会と位置づけられています。この後継大会を「平和の祭典」と呼ぶ能天気者はもはや存在しませんし、「国家の代わりに、企業の大会となってしまった」という批判的な評価もあります。けれども余命いくばくもない私としてはここでは何もいいますまい。
障害者の端くれである私としては、先年開かれた大会での100メートル、200メートル、さらにはハードルや走り幅跳び、走り高跳び等の陸上競技の多くで義足競技者や人工臓器移植者が健常者競技者をおさえて次々と優勝したことに喝采を送るにとどめたいと思います。
その他にも、たとえば「原子力の平和利用」という表現がここ数年で一切聞かれなくなったことなども「“平和のため”禁止条約」の波及効果でしょう。こうやって、ノーベル平和賞、平和の祭典、原子力の平和利用、と並べていくと、やはり「平和」という言葉は21世紀にはほぼ欺瞞と偽善を表すものとしてのみ存在していたことが改めてよくわかります。この先、従来の意味で「平和」という言葉が復興していくのか、あるいは違う言葉が生まれていくのか、それを私が直接知ることはないでしょう。
年老いた私としては、ことさら「平和」という言葉がいらない世界になっていく、つまり平和なんて当たり前の状態となることを、祈るのみです。
追記、旧日本国憲法前文をめぐる議論
最後に、20●●年に新日本国憲法に改定され消滅した旧憲法の前文で「平和」がどう記述されていたかを見ておきたいと思います。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
憲法改正時には、前文の上記部分が実際の日本国民の意識から大きくかけ離れていることが問題視されました。そこには「憲法前文に書かれている崇高な理想に、我々はふさわしい存在ではない」という日本国民に広がった21世紀型の自虐意識があったと言われています。20●●年に実現した核武装は、たしかに「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」する行為とするには無理がありました。つまり「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」ことと核武装との矛盾に自覚的であった日本人は、単に自虐的だっただけでなくきわめて誠実でもあったのです。
一方で、米国の数少ない同盟国となった日本が「“平和のため”禁止条約」への批准を現在まで見送っているにも関わらず、上記前文を早々と放棄してしまったことの論理的矛盾こそが、今再び国内の議論につながっているわけです。つまり平和の欺瞞をあばいた「“平和のため”禁止条約」の精神を先取りするかのように旧憲法を破棄した日本が………。
サンドウィッチマン的にいえば「ちょっと何言っているかよくわからない」。お後がよろしいようで。

















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