境界が閉まる今このときに、世界一周の旅に出かけたふたりの先輩のことなどを思い出す。そして、「仕方がない」の先にあるもの。

飛ぶペリカンそれこそ我らが見るべきもの。ペリカンの飛翔する姿、私は大好きです。この写真は、インターネットの無料画像サイトからお借りしました。

新たな変異種拡大のニュース

 新型コロナウィルスCOVID19の新たな変異種(オミクロン株)のせいで日本政府が11月30日午前0時から外国人の日本国内への入国を当分全面禁止する措置を取るというニュースが流れています。日本国パスポートを持たない人をパートナーにしている私としては、やはりとても厳しく辛いニュースです。それが本当に人々の平和や幸せに有効なのだろうか?私には判断できません。そして、とにかくなんらかの判断をしなければ行けないのが政治家なのでしょう。それは、わかる。つくづく自分は政治家には向いていないのだろうなぁと感じます。

 今回の変異種発現の国際的な“ヒステリー状況”に巻き込まれている友人が私にはすでに数名おられます。モザンビーク、ザンビア、ボツアナ……、まず欧州や米国から入国禁止とされた南部アフリカ諸国に、今滞在して仕事をしているのです。もうすぐ帰国予定だった友人は、予定していた飛行会社がこの地域に滞在していた人たちの搭乗を拒否しているそうです(キャンセルされたということなのか?)。仕方がない、他の飛行機会社の便を使うしかない。しかしこの現在この地域で国際線を運行している飛行機便はけして多くはありませんし、日本への乗継便の都合もあり、そうそう選択肢が有るわけでもありません。もしかして、帰国を延期して、場合によっては越年か?なんてことにもなるかもしれない。日本では、家族が待っていたりもするわけで、クリスマス月を迎える時期、かなり切ない状況であると想像します。でも、彼ら友人は国際援助を仕事にしている人たちであり、つまり、そういうこともあると肝に命じている人たちです。私なら、笑う。たとえ苦笑いでも。きっと彼ら彼女らもそうだと想像しています。なによりも、まずは元気で、体調を崩されることなく過ごして欲しいと思うことしきりです。

世界一周に旅立ったふたりの先輩

 そんなこんなで、『越境、ひっきりなし』という気分で長いあいだ過ごしてきた私にとっても、なんとも窮屈感極まりない、今日このごろの世界です。それでも、やがて扉は開くというのが、私の楽観的な見通しです。だって、閉じられる続けるはずはないのです。
 それとも、もはや越境もバーチャル(仮想)な体験であって、つまりはインターネットの普及で、どこにも行かずにいながら越境は可能となっているのかしら。とすれば、もはや物理的な移動への欲求は必要なし? そうなのかなぁ。そうなのかもしれないなぁ。それをことさら否定することはない。でも、私は身体ごと行きたいなぁ。

 もう30年以上前のこと。大学生のとき、私の専攻では3年生のときから卒論を書くための研究室に入りました。その研究室で、二人の先輩が相次いで世界一周の旅にでかけたのです。FさんとSさん。Fさんは、すでに大学院生だったかな。ふたりとも自分で資金を貯めて、大学を休学して旅立っていきました。
 Fさんは西に向かいました。正確な経路は思い出せませんけれど、とにかくまずアジアを抜けて欧州へ向かったのです。今のようにインターネットがある時代ではありませんでしたから(1980年代の中頃です)、途中の様子はときどき送られてくる紙の便り(Fさんの彼女が同じ研究室におられて、彼女からの情報がたよりだったなぁ)で知ることになったはずです。そして数カ月後のこと。Fさんは東ヨーロッパのある国で暴漢に襲われ、金品を盗られてしまったのです。その結果、彼はそこで世界一周を断念して帰国しました。

 帰国後のある日、研究室で出会ったFさんはさばさばとした顔でこう言ったのを覚えています。「奴らは、別に支援して欲しいなんて、これっぽちも思っていないってことがわかったよ」と(Fさんの使った『奴ら』という言葉には、けして侮蔑が入っていたわけではなく、ある種の敬意が含まれる語調だったの申し添えておきます、すごい奴らだぜ、というイメージ)。旅に出る前、Fさんの将来の選択肢のひとつには、海外支援があったはずです。でも、その旅を終えて、Fさんは「海外支援」を将来のリストから消しました。正確な表現ではないかもしれませんが、当時、私が理解したのはそういうことでした。大学院を出たFさんは地方公務員の道を進まれたように覚えています。

 もうひとり、SさんはFさんとは逆向きの東に向かって旅立ちました。こちらも正確な道のりを思い出せませんけれど、Sさんはまず北米大陸に渡り、そこから大西洋を渡って欧州にむかったはずです。
 そして欧州を通過しアジアに入ったSさんは、インドまでたどり着きました。そのときのエピソードを、私は以下のように聞いた覚えがあります。

 インドに入って、Sさんは長旅の疲れが出て軽い肝炎にかかってしまったのだそうです。それでもちょっと休養すれば旅を続けることも可能だと、Sさんは考えていました。とにかく、体調を整えなければならない。
 インドといえば、カレー。しかも辛いカレー。体調のすぐれないSさんにとって、辛味は少々つらい。あるレストランでそう考えながら店頭にならぶ鍋からSさんは緑色の食べ物を選びました。トンガラシが入った辛い赤色系の食べ物と比べて、きっとその緑色が優しく見えたのでしょう。
 しかし、緑色のその食べ物(日本的カテゴリーとしては、それもカレー)は、赤にも増して、ものすごい辛さだったのでした。緑の唐辛子、あれも辛いものねぇ。「あれが致命的だったね」
 一気に体調を悪化させたSさんは、地元の病院に担ぎ込まれ、入院します(そこで素敵な女の子と出会ったとかいう話も聞きましたが、またそれは別の話)。そして、旅をそこで断念して、Sさんはインドから日本に帰国しました。

 つまり、FさんもSさんも、世界一周旅行を予定通りに完結させることはできなかったのです。

 Fさんからは「俺はちょっと懲りたよ」という雰囲気が漏れ出ていました。一方、Sさんからは特に海外のネガティブな印象を聞くことはなかった。復学したSさん(1年休学したせいで、Sさんは私と同じ年に大学を卒業します)は、大学院に進み、そして卒業後、惚れた女性の故郷であった鹿児島県の公務員になります。Sさんは栃木県出身です。鹿児島でサトウキビの研究者として頭角を表し、タイの大学で研究を続けるなどしています。「村山ぁ、海外もいいけど、鹿児島もすごかぞ」と笑っていたSさんにとって、鹿児島も積極的な越境活動の地だったのです。

旅行じゃなくて、まっすぐ仕事を目指そう、と思った。

 世界放浪旅行を記したものとして、まず挙げられるだろう沢木耕太郎の『深夜特急』が出版されたのは1986(昭和61)年、ちょうどFさんやSさんが世界一周に出かけたのと同時期でした。けれども、FさんもSさんも、『深夜特急』が出る前から、世界一周旅行の計画を練っていたはずです。私も『深夜特急』を読んだのは、刊行直後ではなく、おそらく文庫化された後だったんじゃないかな。つまり、『深夜特急』を読んで感化され海外に旅立った若者は、おそらく私よりも少し後の世代だったのではないかと想像します。Fさん、Sさんは、 『深夜特急』より前の世代だった。
 つまり、『深夜特急』以前から、当時の若者はバックパッカーというスタイルで海を渡っていました。大ベストセラーだった小田実の『何でも見てやろう』の初版がでたのは1961(昭和36)年です。この本は、沢木の『深夜特急』以上に、日本の若者に影響を与えた本だったのではないでしょうか。あるいは、私の敬愛する写真家石川文洋さんが、働きながら世界を旅するつもりで香港にわたったのは1964(昭和39)年(石川さんは、その香港で報道機関で仕事をしたことが縁で、ベトナム戦争に深く関わることになる)。おそらく、FさんやSさんが世界を目指したのは、この60年代から続く世界貧乏旅行を目指す若者の流れを組むものだったろうと、今、改めて思います。

 あのころ、大学の研究室以外でも、高校時代の友人Yが、バックパッカースタイルでインドやチベットにで出かけていました。飲み仲間であるYから、チベットで漢民族に間違えられて石を投げられた経験や、チベットから外国人退去の報が出て、ヒマラヤ山脈をインドに越える旅の話を聞かされていたのです。
 海外、それも途上国、で仕事をすることを夢見ていた私は、FさんやSさん、そしてYの話をどこか憧れながら聞いていました。でも、もう旅じゃないな、とも考えていたはずです。自分は、海外を旅行するのではなく、最初から仕事をすることを目指そうと、じわじわと決意していました。そんな私にとって、一番ラクに途上国で仕事の経験できそうなのが、青年海外協力隊でした。

 問題は、職種でした。なんの仕事をしようか。大学は農業系を選んでいました。とっかかりの動機は、農業をやれば途上国の飢餓問題の解決につながるんじゃないかというものでした。けれど、大学入学時にはすでに、飢餓は農業技術の問題ではなく、経済や政治の問題だと理解し始めていたのです。教授の人柄に惹かれて決めた研究室では、白衣を着て言われるままに稲のリン酸吸収機能に関する実験を続けていましたけれど、それで途上国に行くイメージはまったくできませんでした。
 高校野球児で、でも高校時代に大きな怪我をして大学でのプレーは諦めた私は、大学時代は母校に押しかけコーチで通っていました。青年海外協力隊には野球指導という職種もありました。野球で行こうか?でも募集の数は少なかった。さらに、将来、野球指導で食っていくイメージも浮かばない。
 残るは教員でした。日本で教師になりたい気持ちはまったくなかったけれど、理数科教師は青年海外協力隊では募集の多い職種でした。それを意識して、大学では夏季休暇などに開かれる講座を受講して、高校教員免許を取るのに必要な単位は取ったのです。

 その後、大学卒業後数年経った26歳のときに、協力隊に応募しました。そして、理数科教師としてケニアに派遣されたのが、その後25年途上国の教育支援を続ける第一歩となったのでした。

「仕方がない」と閉じられた境界の外にたたずむ日

 さて、話戻って、 新たな変異種(オミクロン株) です。
 さらなる感染拡大を防ぐために、境界を閉じる。それはひとつの選択肢です。私がよく解らないのは、例えば閉じることでオミクロン株の拡大を国内で防ぐことができたとして、さて、オミクロン株が広がった地域との境界を、いったいいつ開くのか?実際には、長期間に渡って国境を閉じ続けるのは現実的ではないはずですし、オミクロン株と無縁でいられるとも思えない。それでも、どれだけの感染力を持ち拡大の危険性があるか見極め、ワクチンや対応薬の普及を待つことで、近い将来にオミクロン株をコントロールできるという期待があるということなのでしょうか。

 私の感じる限り、日本社会の世論は完全封鎖に好意的です。「仕方がない」「まず国民を守るため」という言葉に対抗できる言葉はそうそうはありません。それでもちょっと想像します。例えば、北海道、四国や九州と、本州との間の人の行き来を1ヶ月断つとなっても、社会は「仕方がない」と言えるのだろうかと。境界を閉めることも「仕方がない」という発想の背景に、想像力の不足はないかと。「自国民を守るため」という発想の背景に、自分たちさえよければいい、という思想はないかと。もちろん、ウィルスは怖い。感染したくない。まずは、自分が、そして自分の家族が、感染したくない。そうだよね。それはよく判る。
 一方で、「仕方がない」と言ってしまうことで失うものがある、そのことはどうなるのだろう?入国時の検査や、隔離期間は、これまで何のために実施されてきたのか?結局は、すべてがポーズなのか?効果はよくわからないまま、だから新しい変異種が現れると、「自国民を守るため」と言って、閉める。そして、それが評価される。私は、密かに怯えています。世界は、窮屈になっていることに、心から怯えています。「仕方ない」のかもしれません。でも、そのことによる「痛み」はあるのか?せめて、想像して欲しい。愛する人との再会が遠のき、一晩泣き明かした人がいることを。希望を抱えて来週訪日する予定の留学生が、また無為に待たされることを。彼女はワクチンも射ち、万全の態勢を整えて、来週のフライトに備えていたのです。でも「仕方ない」。
 その言葉は、ある日あなたにも、返ってくる。「仕方がない」と閉じた境界の外にたたずむことが、あなたにもやがてやってくる。きっとやってきます。だって見えるじゃないですか、その光景が、ちょっと想像すれば、見えるでしょう?
 そんなふうに境界の外で、中から拒絶されたとき、挫けないエネルギーを今貯めておけるかなんだろうなと思ったりもします。拒絶されることも想定内でしぶとくやっていける力を身につけよ、そのときに笑えるように、と言われているような気がしています。

 

 

 

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