週末の早朝6時過ぎごろのことでした。浅い眠りからふと覚めて、うとうとしたままベッドの背面を上げるボタンを押し、上半身を起こして自己導尿をしていたときのことです(私は尿意がないので、3~4時間おきにカテーテルを膀胱まで差し入れ尿瓶に排尿するのです)。
ふと、遠くから聞こえる懐かしい音に気がつきました。
「カッコウ?!」
排尿が終わったときには鳴き声は止まっていましたから、おそらく1分程度のことだったのではないかしら。
カッコウ、カッコウ、カッコウ、カッコウ……、けして近くはないのですけれど、それは確かにカッコウの鳴き声に聞こえたのです。
カッコウは、日本では夏鳥、つまり夏に渡ってくる渡り鳥として知られています。日本の冬、カッコウは寒い日本列島を離れ、暖かい南国で過ごします。調べてみると、日本のカッコウの越冬地は中国南部、さらにフィリピン、インドネシア、マレーシアなどの東南アジアということです。それならば、カンボジアでもカッコウが越冬していてもおかしくはありません。実際にカンボジアで見られる鳥を紹介する鳥類図鑑を見ると、カッコウやホトトギスの仲間が載っています。
それならば、あれはやっぱりカッコウだったか? ただ果たしてカッコウは越冬中でもカッコウと鳴くのだろうか? あのカッコウの咆哮は、繁殖期の縄張りの主張、さらには雌へのアッピールと考えられています。そして、日本の初夏に繁殖するカッコウは、つまり越冬地では繁殖行動はとりません。
う~ん、つまりカッコウがカンボジアにいるとしても、そこではカッコウカッコウ、カッコウカッコウと囀りはしないだろう。
これまでカッコウのさえずりは何回も聴いてきました。一番印象に残っているのは、20代中ごろに住んでいた東京都日野市で聴いたカッコウです。中央線豊田駅の北口を出て、すぐに右手に折れ、線路沿いを日野駅に戻るように10分ほど歩いたところにあった小さく古い木造一軒家でのこと。
そのとき僕は大学を卒業し、東京都杉並区にある母校である高校の野球部監督(クラブ指導員)をやっていました。東京都から支払われる月1万円の謝金では喰えなくて、南阿佐ヶ谷駅近くの私塾でアルバイトをしていた。高校での練習を終え、午後7時くらいから10時過ぎまで塾で働き、日野の家に帰れば早くても11時過ぎ。それから作り置きの夕食を取り、深夜(ときに朝方)まで本を読み、昼近くまで寝る。そんな日々を続けていたころです。
初夏になると、深夜、遠くから聞こえてきたのがカッコウ カッコウ カッコウという響きでした。方向は南のほう、おそらく河岸段丘を下った多摩川河川敷に散在する疎林あたりからと思われました。
カッコウのさえずりに気が付くと、僕は本から目を離し、カッコウの音に集中して耳を傾けるのが常でした。今でも、あの鳴き声は心を集中させれば心の中に鮮やかに蘇ります。
暗闇の中、遠くから響き渡ってくるカッコウ カッコウ……。必死なのが、よかった。カッコウを遠くに聞きながら、眠れぬ夜にサンダルをつっかけてぶらぶらと近所を歩いた夜もありました。
野球部の監督を長く続けるつもりは、ありませんでした。私の母校の野球部は、戦後に発足したそのころから、いつもOBの中から監督を出してきたのです。その多くは、大学生でした。私が現役のときも、大学生の先輩が監督でした。そして、私自身は大学生のときは、そんなOB監督を補佐するコーチとして、空き時間に母校に通っていたのでした。
(高校3年生のときに左肩の脱臼を繰り返した私は、卒業時にその整形手術を受けたこともあり、大学の体育会野球部で私自身がプレーする選択を選びませんでした)
そして、僕の現役時代から、コーチ時代、野球部はずっと弱かった。高校野球の集大成である夏の大会予選西東京地区大会で、我が野球部は毎年のように一回戦負けでした。
そんな自分の高校時代、そしてコーチとして補佐的にかかわった大学時代の野球が、僕にはどうしても不完全燃焼だったのです。大学生活を送りながらの監督業にはどうしたって限界がある。ならば、大学卒業後、もう一度全面的に僕自身が高校野球に向き合うしかない。
大学を卒業しても就職せずに、夏までコーチとして過ごし、夏の大会後、僕は監督になったのでした。OB内で手を上げ無理やり承認してもらった監督業でした。
さて、次どうしよう? 30歳前に、青年海外協力隊に参加しよう、とも思っていました。その準備もこつこつと進めてはいました。そして、おそらくそんな日々はどこか不安でもあったのだろうと思います。監督業はそれなりに充実してはいましたけれど、どこか浮世離れした浮遊感もあったのです。まさにモラトリアム、長すぎた青春。そして、監督としての自分の力量不足も感じていました。そもそも、人生を野球に賭けた若人がひしめく強豪校がわさわさと存在する地区大会で、何をゴールにするのか? 初戦突破? そんなの実際には籤運次第じゃないのか? 初戦から強豪校とぶつかるかぶつからないか、そんな運に左右されるゴール設定はまっぴらごめんだという気持ちもありました。
ならば、何を目指すのか?
その答えは、今振り返っても、結局最後まで不明確なままだったように思います。
結論を書けば、僕は監督として二度夏の地区大会に臨み、一年目は初戦で当たった強豪校のひとつ明大中野八王子高に6-10で負け、2年目は母校と同じ都立高校にふたつ勝った後、強豪中の強豪日大三高と対戦し、1-10で7回コールド負けでした(ちなみに4回終了時には1-0でリードし、5回に同点に追いつかれたものの、中盤までは競った試合展開だったのです。6回7回と力尽きて大量点を奪われてしまったのでした)。
そして、僕はその秋に監督を後任に譲り、暮れには青年海外協力隊員としてケニアに飛んだのでした。26歳になっていました。果たして、僕はやり残したことをやり切ったのか? “目的”を果たしたのか? その答えは、今でもまだよくわからないままです。ただ、人生において「あのときこうしていれば……」という悔いはひとつ減ったということは言っても良さそうに思っています。監督をやっていたときの「あのときこうしていれば」「あのときはこう采配していれば」という小さな悔いは山のように残ってしまいましたが、またそれは別の話。
日野の家で暮らしていたのは、24歳からの2年間でした。僕はあの日野の家で24歳と25歳の2度の初夏を過ごしたのです(26歳の春には、埼玉県の武蔵浦和駅近くのアパートに移ったのです)。二度目の初夏にカッコウの声を聞いたときには「おっ、帰ってきたんだな」と嬉しかったことも覚えています。ちょうど、昭和が平成に移り変わっていくときでした。若かったなぁ。思い返すと思います。本当に若かった。馬鹿馬鹿しいほど若かったのです。
そして若かったからこそ、今でも心に留まるあのカッコウの叫びなのです。
そう思って、この週末のカッコウもどきの音を思い返してみると、やはりあれはカッコウではなかっただろうと思うのです。あの初夏のカッコウは、もっと透明で深く天空に染み入る音色だったはずなのです。それに対して、週末のあの音は、もっとくぐもった濁音調な感じ。
あれは、こちらでトッケイと呼ばれる大ヤモリの鳴き声だったろうと思います。トッケイ、トッケイ、トッケイと甲高く鳴くのです。そして、ウトウトとした私の耳が、トッケイとカッコウを都合よく取り違えた、それが真相に違いないのです。
カッコウ、あれはもうすぐ40年前の鳴き声となります。思えば遠くへ来たものだ。
カッコウ カッコウ カッコウ カッコウ…、不安だったし、必死だったよなぁ。今もそうだけれどさ。

どちらもインターネットの無料画像より


















大所帯の東京の高校の中で万年初戦負けのような某都立高を、部員同士で『次はBEST ○だ!』というような声まで掛け合うような一時代を築いたその礎は、狭いグランドをアメフト部、サッカー部などと共用する中でいろいろと練習方法を工夫し、現役部員ともよく話し合って根気よく指導されたMURAYAMA監督のご尽力にあるでしょう。MURAYAMA監督在任中には東大に進学し東京6大学のベストナインに選ばれるような後輩は出なかったが、そのような後輩まで糸は繋がれていると思います。母校の野球部OB会でどんな部史が編まれているのか門外漢には知る由もありませんがOB会の役員にはきっとその頃活躍したOBもいることでしょう。
この「越境ひっきりなし」でも分かる通りの、ビックリする読書量のMURAYAMAさんが夜な夜な読書しながら、初夏にはカッコーの啼き声を聞き、午後には部員より早くグランドでガレンを曳き、小石を拾い、部員が揃ったら野球の指導をし、それが終わったら今度は塾のセンセーをなさっておられた時代があったのですねえ。ご苦労さまでした!
こういう都立高校の野球部が在ったこと、素晴らしいですね。
匿名様 コメントありがとうございます。
コメントに甘えて、ひとつだけここに自慢話を書けば。
2年目の夏にチームは一試合に3本の本塁打を放ったののでしたが、あれはその年(1990年)の西東京大会の最多記録でした。そのうちの一本は代打本塁打でした。私の知る限り、母校野球部の歴史で、夏の大会での代打本塁打はあの一本だけ。ふふふ、比較的狭い球場だったからの記録ではあるのですけれど。主将が放ったレフトオーバーフェンス直撃もあと30センチで4本目だったんだけれどなぁ。惜しかった。いやいや、自慢話、失礼いたしました。
ムラヤマ