カンボジアで理科教育支援に関わっているときに、ふたつの大震災が起こった。そのひとつは、もちろん2011年3月の東日本大震災だけれど、もうひとつ、みなさんはすぐに思い出すだろうか?
ふたつの大震災
それは2004年12月末のスマトラ沖地震による大津波による、主にインド洋沿岸での大震災だ。東日本大震災の犠牲者・行方不明者は、主に日本での2万人弱。スマトラ沖地震大津波による犠牲者・行方不明者はインドネシアでの約17万人を始め、スリランカ、インド、タイ、モルディブ、さらにはアフリカのインド洋沿岸諸国まで含めると、総計で23万人を越える。さらにクリスマス休暇中だったため、タイのプーケット島など観光地での欧米諸国やアジア諸国の観光客の被害者も多かった。
震災の被害者数や被害総額を比較することにそれほど意味があるとは思わない。けれど、ふたつの震災の印象を、それぞれの個人各自が自分の心の中で比べてみるのは、世界を認識する上で、意味があると思う。
もちろん、カンボジアにいたぼくは、どちらの震災も自分自身で経験したとはいい難い。マレー半島の東側に位置するタイ湾に面したカンボジアでは、スマトラ沖地震によって起こった大津波は届かなかった。
だた、地震が起こったそのとき、ぼくは休暇中でちょうどタイの首都バンコクにいた。地震でバンコクも少し揺れがあったらしいけれど、街中にいたぼくはまったく気がつかなかった。大津波がタイの西沿岸にもおよんだことを知ったのは、その日の夜、泊まっていたホテルのテレビに映ったプーケット島からのニュースを見たときだ。それでもプーケット島での被害の規模もよくわからず、大津波が沿岸のリゾートホテルを飲み込んでいく映像もまだ流れていなかった。ぼくは翌日移動する予定だったクラビー県にあるホテルに電話連絡してみたけれど、何回試してもつながらなかった。後でわかるのだけれど、クラビー県(タイ南西部のインド洋に面した地域だ)のそのホテルも大津波によって“消失”していた。
結局、翌日、バンコクの国内便が飛ぶ飛行場まで行って、ようやくクラビー行きをあきらめるほど、ある意味のんびりした状況だった。Apple社のiPhoneが発売されたのは2007年だ。2004年当時は、携帯電話というのは今でいうガラ携で、まだ映像が瞬時に世界中を駆け回る今のような環境は整っていなかった。
クラビー行きを諦めたぼくは、その飛行場のインターネットカフェから、カンボジアのプロジェクト関係者と日本のODA実施機関である国際協力事業団(JICA)のカンボジア事務所にメールを書いて、予定変更等を伝えた。これは後でとっても褒めてもらった。JICAは関係者の居場所確認で、年末年始はてんてこ舞いだったそうだ。
東日本大震災が起こったときは、プノンペンで勤務中だった。なにかの会議があって、そのときは普段は行かないちょっといいレストランで遅い昼食中だった。そこでたまたま流れていたCNNワールドニュース(米国の衛星国際ニュース)が、津波の第一報映像を映していた。そのときプロジェクトに派遣されていた方の娘さんが、仙台の東北大学に通っていた。その娘さんの消息がなかなかわからず、心配だったことをよく覚えている。
翌日以降も、次々と入ってくるニュース、特に福島第一原子力発電所での事故の報道に、プロジェクトの仕事に取り組みつつ、なかなか集中できなかった。
流れた流言飛語
どちらの震災でも、カンボジアでは流言飛語、つまりデマというか、不正確な情報がいろいろと流れた。そして、それらの正しくない情報は、実際にカンボジアの人たちの暮らしにかなり影響があった。
スマトラ沖地震のときには、海産の魚がほとんど売れなくなった。なぜなら、「海の魚は死体を食べている」からだ。カンボジアの港で取れる魚は、みな津波の影響がなかったタイ湾で取れるものだから、この流言は正しくない。魚といえば淡水魚が主流のカンボジアで、海産の魚の流通量はそれほど多くはないにしても、しばらくの間、海の魚が忌避され海の漁民は困っただろう。
東日本大震災のときは、「雨に放射能が含まれている」という流言があった。「雨に濡れると髪が落ちる」ともいわれた。いつもよりも、きっちり雨合羽を着込む人が増えた。それで困る人は特にいなかったかもしれないけれど。
あくまでぼくの個人的な印象だけれど、非科学的な流言飛語が信じられる“危険性”は、カンボジアは高いように思う。実は、実際にはそんなことはないのかな?日本だって同じだよ、という気持ちも、この新型コロナ騒動を通して思わないわけではないけれど。

山菜には残留放射能が含まれ易いとも聞く
流れた原発事故に関する企画
この東日本大震災に絡んで、忘れがたい思い出がある。震災後数週間が経ち、カンボジアで支援を行っている日本の非政府組織(NGO)や非営利団体(NPO)の関係者が集まって義援金募集の活動をすることになった。ぼくはNGO・NPOで働いているわけではなかったけれど、交流があったのでその準備会議に参加した。義援金募集では、震災被害や避難生活を紹介するパネルを用意して、町行く人たちに震災を知らせることが計画されていた。そこでぼくから「うちのプロジェクトのカンボジア理科教員が、原発事故の詳細を説明する」という案を出した。「雨にあたると髪が抜ける」というような流言飛語が流れるカンボジアで、原発事故の正しい情報をカンボジアの教員が提供できたらと思ったんだ。まだその段階ではわからないことがたくさんあったけれど、それでも「冷却水が止まると、どう問題なのか」ぐらいは説明できる。すでにそんなトピックで、プロジェクトの中のカンボジアの理科指導者と勉強会を開いていた。
ぼくの提案は、義援金募集の共同主催者である、プノンペン日本人会や大使館と協議して決めることになった。その協議には、ぼくは参加していない。
結果は却下だった。口頭で伝えられた理由は、「義援金募集が主旨なので、特に原発事故のパネルをそこで出す必要はない」というようなことだった。主催者の決定だから仕方がない。
もちろん、勝手にプロジェクトで原発事故報告会のような催しを実施するという選択肢もあったけれど、結局、プロジェクトはプロジェクトで忙しく、カンボジアの人たちに原発事故の正しい情報を提供するボランティア活動を実行することもなかった。
今になって思っても、残念だったな、と思う。これも個人的な印象だけれど、あのとき、カンボジアの日本人社会に限らず、海外の日本社会はなにか萎縮していた。特に、原発事故に関しては、できればあまり触れたくないような雰囲気があったんじゃないだろうか。義援金募集の場で、ことさら原発事故に触れなくてもいいだろうという回答は、そんな雰囲気の結果だったんじゃないかな。
今はどうだろう?広島長崎の原子爆弾被害と、福島第一原発事故の被害と、ぼくたちは同じ温度で、原子力の被害を発信しているだろうか?


















コメント、いただけたらとても嬉しいです