ベースボール/野球 との長いおつきあい

高校3年生の年、7月20日夏の地区予選初戦での最終打席レフトフライ。写真部/登山部の井口氏が撮影し、パネルにしてくれた私の宝物です。

高校野球最後の打席

 冒頭の写真。これは私が高校3年生の夏、1-2で負けてしまった地区予選一回戦での私の最後の打席、最後の一振りです。8回表、先頭打者で回ってきたこの打席のことはよく覚えています。
 1点ビハインドで試合は終盤。なんとしても塁に出ることが求められていました。高校時代、セーフティバンドは私の得意技でした。ここはその極め技を見せて、出塁するのがいいだろうか。けれども、もしかしたらこれが高校野球最後の打席になるかもしれない。それならばやっぱり打ちたいなぁ、さてどうしよう???少々迷いながら打席に向かったのです。
 初球はおそらくカーブだろうと予測していました。案の定、内角高めに入ってくるカーブ。打ち気満々なら捉えられただろう甘いボール、セーフティバントでも狙い通りに決められたでしょう。でも、ちょっと高い、ボールか。私は見送りました。

 ストライック!

 ありゃ、しまったなぁ。そんな気持ちのまま、すぐに2球目がやってきます。これは真っ直ぐが外角低めいっぱいいっぱいに決まりました。

 ストライック!!

 あいやー、敵ながらいい球です。あれは振ってもファールするのがやっと。2ストライクから投げられたら、厄介な一球です。

 あっという間に、2ストライクと追い込まれてしまいました。さて、次はおそらく外にボール気味のカーブか真っ直かを誘ってくるだろう。
 その3球目は、しかし予想に反して内角に入ってくるカーブ。見送るわけにはいかず、あっと思ったときには身体が反応してカキーンと打ち返す。一見当たりはいいように見えるレフトへのライナーでしたけれど、手応えはよろしくありませんでした。写真で見ると、ちょっと詰まり気味です。レフトは少し下がってなんなくこの打球をさばいたようです……、というのは、私はこの打球を見失っているんです。一塁を回り込んで、でも塁審のアウトのゼスチャーを確認してベンチに戻りました。試合は、そのまま淡々と進み、スコアは1-2のまま終了し、私の高校野球(現役編)は幕を閉じたのです。

 写真に残る敵チーム捕手の捕球態勢と、そのキャッチャーミットが左側に流れる様子からは、相手バッテリーは私の予想通り、外角に誘うようなカーブを投げるつもりだったことが解ります。それが失投となって私の左肩口から入ってきた。外角球を予想していた私は、それに対して腰がひけているのです。いわゆるへっぴり腰。その結果、どこか力感のない打撃フォームになっています。もっと腰が前に出て前足(左足)の上でグギリンッと回転するようだとかなりよろしいのです。それだと長打になった可能性も高い。

 後10センチ、腰が前に出ていれば………、この写真パネルを見るたびにこれまで何度繰り返し考えてきたことでしょう。そしてその悔しさが、結局このあとも20代半ば過ぎまで高校野球(コーチ・監督編)とつき合い続ける大きな原動力になったのです。

高校野球とは10年間のおつきあい

 大学卒業を控えて、卒業後、どうするかを決めなくてはならなかったとき。農学部農学科の研究室仲間の多くは、技術者として公務員を受けたり、大学院への進学を決めていきました。私は……、進路が見えませんでした。とにかく、30歳までは好きなことをしようと思っていました。まずは、どこか中途半端で心残りになっていた高校野球にケリをつけなくては(高校時代、左肩の習慣性脱臼という怪我に悩み、高校卒業の春に手術も受けた私は、大学野球でのプレーは諦めて、母校N高でコーチをやっていました)。さらには、一度、途上国で働いてみること。具体的には、青年海外協力隊に参加することを考えていました。
 まずは、高校野球だ。早いうちから「来年夏からは監督をさせてくれ」と野球部OBには伝えていました。もし私が立候補していなかったら、監督3年目に突入していたかも知れない当時のS監督には、申し訳ないことをしたかもしれません。有無をいわせず交代を強いたわけですから。
 卒業後、N高とはクラブ指導員という契約を結び(月に一万円ぐらいもらえました)、友人が紹介してくれた南阿佐ヶ谷駅(地下鉄丸ノ内線)近くの塾で「高校野球監督を優先しながら働く」ことを了解してもらって働くことになりました。
 春から夏までは、コーチとしてS監督をサポートし、夏の地区予選が終わったところで監督に就任したのです。通常、OB監督は学生でしたから、いわゆる社会人として監督をやったのは珍しかったのです。ちなみにN高野球部は、私が選手時代も含め10年間で夏の地区予選大会1勝のみという体たらく、弱小チームでありました。S監督最後の夏も、初戦敗退だったのです。

 それから2年間、高校野球どっぷりの生活でした。選手時代よりもずっとずっと真剣に「野球のこと」を四六時中考えて、勉強したのです。N高は放課後のグラウンドは、野球部・アメリカンフットボール部・サッカー部で共有していましたから、普段の練習から苦労が絶えませんでした。そんな中で、歴代の各チームは(私が現役時代を含めて)守備練習中心でチームを作ってきたのです。その結果が、例年の一回戦敗退です。守備だけじゃだめだ。どうやって効率的かつ効果的に打撃練習をするかをいつも考えていました。

 失敗もたくさんしています。選手の気持ちを掌握しきれなかったことは多くありました。ただ、とにかく運がよかった。さまざまな面で経験豊かなO先生がN高校に異動されてきて顧問に就いてくれたのがまず何よりに幸運でした。そして、年長そして年下の多くのOBが力を貸してくれました。中でも、私以上に野球に詳しいTさんが2年間ずっとコーチとして私に伴走してくれたのもすごい幸運。なによりも、1年目も2年目も、力のある選手に恵まれました。

 詳細は省きますけれど、N高野球部としてはなかなか強いチームになったのです。最後の夏は4回戦で甲子園の優勝経験のある強豪校と中盤まで競い、最後は力尽きてコールド負けで終わりました。その試合についても、未だにベッドの中でどうやったらコールド負けを避けられたのか、勝つにはどうすればよかったのか、考えていますけれど。

 さて、次は途上国での仕事だ。最後の夏以降も8月いっぱいは監督を続け、そこで後任の学生OBと交代して、私は青年海外協力隊に参加したのでした。

 

カンボジアでの硬式野球との再会

 協力隊で赴任したケニアでも、週末にはソフトボールを協力隊仲間や、米国の平和部隊の人たちとよく楽しみました。けれども、海外で野球を普及するということには特に興味はありませんでした。海外で広く親しまれているサッカーと比較して、野球はまずルールがむずかしい。さらには、ボール1つあればサッカーはできますけれど、野球はグローブやバッド等、道具もあれこれ必要です。さらに、ボールが頭部にあたった場合などサッカー以上に怪我も心配でした。フィリピンの高校で野球をやっているのを見たことがあります。そこでは、硬球を使っているすぐ近くで野球とは関係のない学生らがたむろしていたりして、いつ事故が起こっても不思議はありませんでした。
 野球を途上国で広げるのは難しいというのが、当時の私の強い印象だったのです。野球を普及したいという気持ちがそれほどないのは、今もそうです。野球を世界に広めたいとは特に私は思っていないのです。

 カンボジアでも、最初はソフトボールを楽しんでいる仲間に混ぜてもらって、週末に楽しむ程度のことでした。
 2010年ごろのことだったか、そこに青年海外協力隊の野球指導の隊員が現れたのです。派遣されたカンボジアナショナルチームの練習試合の相手がいないというのが、彼の悩みでした。ならば、そのお手伝いぐらいはできるだろうと、ソフトボール仲間の有志でナショナルチームの練習試合の相手をつとめることにしたのです。しかも、最初は、軟式ボールで。

 軟式ボールというのは、日本では広く使われていますけれど、あれ、世界の中では日本だけなんですよ(台湾で少し使われていると聞いたことはあります)。野球が普及している国々、たとえば米国や中南米、先にあげたフィリピンなど、では、少年時代から硬球ボールを使います。ですから、「軟式ボールでやりましょう」という日本のおじさんたちの申し出は、カンボジアでもけして歓迎されませんでした。しかも、軟式ボールを使ったその練習試合で、おじさん寄せ集めチームはカンボジアナショナルチームに勝ってしまったのです。当然、「軟式ボールだから、負けたんだ」という声がナショナルチームから上がる。おぉ、それなら次は硬式ボールでやろうじゃないか!
 で、おじさん寄り集めチームは、硬式ボールでの野球に目覚めていったのです。
 そこで私は、日本社会の野球の裾野の広がりを痛感することになります。私のように高校まで野球をやっていた、さらには大学や社会人でやっていた、あるいは小中学校で軟式野球に親しんでいたという人(男性ばかりですけれど)はとても多いのです。おそらく、世代もあるでしょう。今30代より若い人たちでは、野球だけでなく、サッカー経験者も多いはずです。でも40代以上では、野球経験者は多いです。おそらく、世界で一番野球経験者率の高い社会が日本ではないでしょうか。

 そんなふうにして始まったプノンペンゴールデンバッツ(黄金蝙蝠野球団)は、さらに東南アジア草野球界にもデビューを果たすのです。

 2011年11月に、東南アジアで草野球を楽しむ日本の人たちを集めての野球大会がバンコクで開かれたのです。地元のタイ、さらにはシンガポール、ベトナム、韓国、台湾などなど、主に海外進出した企業のネットワークを通じて、それぞれの国で草野球を楽しむチームがバンコクに集合しました(当然、この大会実施にあたっては、バンコクで大汗をかいて準備してくださった方々がおられたわけです!)。
 このとき、プノンペンゴールデンバッツはすでに存在していましたけれど、まだチームとして参加するだけの体力はありませんでした。結局、私を含めて3名がベトナムチームに混ぜてもらって参加したのです。翌2012年も、やはり私も含めた3名のみの参加でした。そして、2013年、いよいよゴールデンバッツ単独でのチーム参加に成功します(このとき、私はチームの監督でした)。2014年以降も、ゴールデンバッツは続けてチーム参加しています(2020年と2021年はコロナ禍により大会開催は中止)。2017年には、初優勝も果たしています。

 この草野球大会には、2019年時点で、タイ、シンガポール、ベトナム、韓国、台湾、カンボジア、ミャンマーの草野球チーム(日本人中心)とタイ国ナショナルチームの18歳以下チームが参加しています。タイやベトナムには、日本の人たちの草野球チームが何チームもあるため、その選抜メンバーがチームを作って参加してきます。今では、社会人強豪チームの元選手や、大学野球や高校野球の猛者連中も多く出場しています。ちなみに、ゴールデンバッツには、高校野球夏の選手権優勝チームのレギュラー選手も在籍しています(これは、すごいですよね!)。この草野球大会の審判部長を務めてくれている日本で高校や大学野球での審判経験の長いI氏によれば、大会の決勝進出チームは高校野球東京都地区予選のベスト8からベスト4進出チームと同等の力量はあるだろう、ということです。まったくもう、みんなすぐにムキになるんだからなぁ。

 2014年に大怪我をしてしまった私は、プレーヤーとしては完全に引退していますが、今でも野球の試合があると、スコアラーをやったり、時には車イスで審判もやったりして野球と関わり続けているのです。2019年11月には2013年以来6年ぶりにバンコクでの大会にも参加し、懐かしい方々にご挨拶もできました。
 そして、カンボジアのナショナルチーム、こちらはこちらでこの10年でいろんな変遷があるのですけれど、私たちゴールデンバッツは相変わらず彼らのいい練習試合相手であり続け、勝ったり負けたりを繰り返しているのです。次回は2月20日日曜日が練習試合予定日です!

途上国への野球支援  

 話変わって。
 友成晋也(ともなり・しんや)さんといえば、アフリカに関わったことのある野球好きであれば、少なからずそのお名前を聞く機会があるはずです。私も、そう。私の周りには、国際開発業界の友人知人に友成ファンが何人もいるのです。そんな人たちから、いろんな機会に友成さんのお名前を耳にしてきました。けれども、私自身は友成さんとお会いしたことは一度もありません。友成さんは私のことなどまったく知らないはずです。
 さらには、私の高校時代の友人が中学生のころ友成さんと同級生だったということを最近初めて知りました。なんと、友成さんは私と同学年でもあられたのです。さらには、高校(つまりN高)の1学年先輩で、現役時代には私たちを無慈悲にシゴイたことで有名なFさんが大学時代に友成さんと同じ野球部で、しかも同じポジションで親しかったということも、最近知ったのです。ますます勝手に、私は友成さんに親近感を持っちゃっているのです。

 その友成さんが種を蒔いたアフリカでの野球、2021年12月にもタンザニアでの野球大会(通称、タンザニアの甲子園大会)が開催されたという話をタンザニア在住の知人がフェースブックで書いていました。タンザニア全国からチームが集まっているそうで(2019年の大会では18チーム参加)、今回は第9回大会でした。男子の野球だけではなく、女子のソフトボールの大会も開催されています。同じような“甲子園大会”はガーナでも開かれているし、この2国に続こうというアフリカ諸国も数カ国はある。友成さんの蒔いた小さな種が、多くの人の共感を呼んで大きく育つ、いやいやこれは本当にすごいことです。

 友成さんだけではありません。2019年にフィリピンで開かれた東南アジア競技大会の硬式野球部門に出場したフィリピン、インドネシア、タイ、シンガポール、カンボジアの各チームには、監督あるいはコーチで、おそらくすべてのチームに日本人がかかわっているはずです。現在のカンボジアのナショナルチームの監督さんも日本の方です。先にも触れたように、裾野のものすごく広い日本の野球界からは、じわじわと国際野球人が輩出しているのです。

 友成さんの大学野球仲間で我が高校野球先輩の前出のFさんが友成さんから聞いたことによれば、アフリカの野球選手が「野球は民主的である」と語ったそうです。出場する9人の選手に平等に打席がまわってくる野球の特徴を指してのことらしい。なるほど、野球の祖先であるクリケットを除けば、サッカー、ラグビー、バスケットボールといった国際的に楽しまれているチーム球技にはない、野球独特のルールがこの「平等に打席が回ってくる」なのです。友成さんが代表理事を務める一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構のHPにも、「野球のチカラ」として「野球は誰もがヒーローになれるチャンスを平等に与える「民主主義」を広めるチカラがある」という一文が掲げられています (なぜアフリカ?なぜ野球? | 一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構 (j-absf.org))。その意気や、よし!

 しかしながら、国際スポーツ界での日本野球の浸透を、天の邪鬼な私が諸手を挙げて賛同・応援というわけではないのです。日本野球が内包してきた悪しき根性主義や年功序列文化、妙な監督中心主義や過度の自己犠牲を尊ぶような文化などは、おそらく日本社会以外からは否定を持って迎えられるのではないかと危惧します。また、支援の縄張り争いのようなことが起こっているケースもあるようなことが耳に入ってくることもあります。それはちょっと格好悪いよねー。
 つまり、日本側にも日本野球を国際仕様に育てていく努力が欠かせないだろうと思うのです。野球だけではない、国際支援・援助のプロ意識の醸造も大切だろうと。「野球とベースボールは別物」とか、したり顔で言っている野球人が多いようでは、イカンだろうと私は思っているのです。

 私のカンボジア野球への接し方のルールは単純に、「やりたいなら、一緒にやろうぜ」に尽きます。あえてこっちからは押しつける気はない。でも、共にプレーするなら、ぜひ一緒にやりましょう、応援もしますよ、それが唯一のポリシーです。
 そういえば、2013年、バンコクでの草野球大会にゴールデンバッツがカンボジアから初めてチーム参加したとき、カンボジアナショナルチームから3名の選手を同行したのでした。ゴールデンバッツの選手層が薄かったのが一因でしたけれど、それ以上に、ナショナルチームの中心選手に外の世界を経験してほしかったのです。彼らの交通費や宿泊費、保険代は、チームの有志で折半しました。彼らとともに、プノンペンからバンコクを深夜バスを使って往復したのは、今でも楽しい思い出です。そして同行した3名の選手は、今でもナショナルチームのメンバーとしてプレーしているのです。それも嬉しいことなのでありました。

 2022年、バンコクの草野球大会は再開されるでしょうか?毎年、大会開催は乾季の始まる11月なのですけれど、その時までにコロナ禍が終息するかはまだまだ雲行きは怪しいかなぁ。さて、どうなるか、乞うご期待。

3件のコメント

鮮明な記憶にびっくりです。詳細な記録があるのかな?
懐かしいです。

匿名様 読んでいただき、コメントもありがとうございます。
記録は、記憶のみです。
ですから、変な思い違いもあります。たとえば、監督時代の地区予選の試合、私の記憶では一塁側ベンチから試合を見ているのですけれど、実際には三塁ベンチに入っていたことが当時の選手と話していて判ったというようなこともあります。でも、その試合経過の記憶は間違ってはいませんでした。記憶とは不思議です。

冒頭の写真を撮った井口です。何十年に撮った写真がこのような形で活用されていて感慨深いです。
村山さんと野球との物語は高校の後にも長く長く続いているのですね。素晴らしいと思います。
私はリトルリーグで硬式野球をかじった野球少年でしたが、自分の子供がサッカーを始めてからはすっかりサッカー派になりました。
それでも最近、母校の都春季大会を観戦したり(FB投稿参照)、この前の日曜日にはロッテの佐々木投手の完全試合達成の終盤をDAZNで観戦して興奮するなど、野球の面白さを改めて感じています。
またお会いできる日を楽しみにしています。

コメント、いただけたらとても嬉しいです