「日本語、とってもお上手ね」
プノンペンで暮らしていると、日本語を話すカンボジアの人に対して「日本語、とってもお上手ねぇ」という種類のことをやたらと伝える日本の人、という風景を目にします。例えば私のパートナーのサンワーさんは、一応、そこそこの日本語を解します。日本語能力検定試験では、上から2番目のレベルN2をもう何年も前に合格しています(合格点ギリギリでしたけれど、ね)。その後N1の試験には年2回の試験を欠かさずうけていますけれど、まだ合格には至っていない、そんな日本語習得者です。その彼女に対しても、よく「サンワーさん、日本語上手だねぇ」とか「上手くなったねぇ」とか、挨拶がてらなのでしょうけれど伝えてくれる日本語を母語とする人がいる。そして私は、こういう風景が好きではありません。
10代後半から20代前半にかけてその著作を貪り読んだ新聞記者の本多勝一さん、彼が米国取材時(1969/昭和44年)の経験をどこかで書いていたのがとっても強く印象に残っているのです(出所を今すぐに見つけられません、ご容赦)。
白人の中年女性をその自宅に訪ねて取材した際のこと。
白人女性 「(本多に対して)あなた、英語お上手ね、アメリカ人みたいだわ。どちらからいらしたの?」
本多「日本からです」
白人女性「でも、アメリカ人にみえるわよ。英語もお上手だし、ホントにアメリカ人みたいよ」
というようなやり取りがあったのだそうですよ。本多は、彼女がものすごい善意で、本多が絶対に英語母語者でないことをわかりながら、「アメリカ人みたい、英語お上手」を連発したのだと書き添えていたはず。そして、もちろん本多は彼女の「善意」の背景にある差別感・優越感を読み取ったわけです。彼女のいうアメリカ人は、もちろんアメリカ先住民でもなければ、アフリカ系でも中南米スパニッシュ母語者でもない、白いアメリカ人のことだったのです。
サンワーに対する「あなた日本語お上手ね」という“誉め言葉”と、上記の白人女性の本多に対する善意、どれだけ重なり、それとも重ならないのか? もちろん、最近では日本語を解するサンワーに「日本人みたいね」という破廉恥な言葉を投げかける人は少ない。でもサンワーに限らず、日本語を外国語として学んだ人に対して、言っている側はその破廉恥さに気がつかないまま「日本語上手ね、日本人みたい」という人も、やっぱりいる、私自身何回も見たことがある。
この「日本人みたい」の日本人の中身はなんだろう? 日本には米国ほど多様な移民者はまだいない。でも、この日本人みたいは、たとえば琉球訛りで日本語を話す沖縄出身者や、北海道のアイヌ系の人たちは入っていないのではないだろうか? もちろん、「日本人みたい」と言った側にはそこまでの考察はないままなのだろうけれど。平均的日本人? そんなのあるの??
もしあなたが「あなた日本語お上手ね」という種類の言葉を、日本語母語話者ではない人に投げかけたことがあったら、そこを少しじっくり考えてみるのも悪くはないだろうと思う。
「日本人」みたいに見えない日本人の存在
そういえば、昨秋、東京に滞在中に母とちょっとした国内旅行をして、函館空港で羽田に飛ぶJAL便にチェックインした際のことでした。
てきぱきと対応してくれたそのJAL職員(もしかしたら、派遣社員かもしれないけれど)は、東欧系の顔立ちをした女性でした。円滑に手続きが続く中で(彼女は日本語が母語なのだろうなぁと思われる話しぶりでした)、母がやっぱり口にしてしまったのです。
「あなた、日本の方?」
問われた彼女は、ニッコリと笑顔を母に向けて、「はい、日本人です」と答えました。私は内心「やっぱりなぁ」と思ったりしたのです。
「そうよねぇ。日本語とてもお上手ですものね」と母。それにやはり笑顔でうなずく彼女。
カウンターを離れた後、私と母のやり取りが以下です。
「日本語お上手ですね、みたいなことを、ああいう場でちゃんとお仕事をしている人に声かけるのはむしろ失礼ではないか」
「あら、そうかしら、私はそうは思わないけれど」
「いったい、これまで彼女が何百回何千回毎日のようにそういうことを言われて、それに笑顔で応えてきたかと考えると、私はすっごく胸が痛むんですよ」
「あら。でも彼女がどう思っているかは、わかないでしょう?」
確かに、私は彼女の気持ちを聴いたわけではありません。でも想像してみてよ、って思ったのです私は。毎度毎度、「日本人?」と聞かれるルーティン。てきぱきやってくださっているのだから、それで十分じゃないですか。おそらく幼いうちから何度も繰り返された「日本人?」という問い。彼女の胸のうちを察しましょうよ。
けれど、彼女はとっても素敵に「はい、日本人です」と母の問いかけに応えていたのでした。
母の「あなた日本人?」という問いは、単に無邪気なだけなのか? それとも、そこに何か多数派の優位性みたいなものが隠れているのか? もし無邪気だとしても、それはときに罪深い無邪気なのではないか? さて、どんなものなのでしょう?
やれやれ。私も母の善意に水かけるようなこと、しなくてもいいのにな、と反省したりもするわけです。おそらく母は、何かの折りに、母の娘さん(私の妹)か妹さん(私の叔母)かに、「テツヤがこんな意地の悪いことを言ったのだ」と報告しているに違いないだろうなぁ。まぁそうやってガス抜きしてくれているといいのだけれど。
でも、あのJAL職員のように、「日本人」のようには見えない日本人、増えているのは確実です。あ、そういえば引退した横綱照ノ富士も日本国籍を取っていたんですね。
つまり、ここまでの「日本人」とは、日本国籍を取っている人程度の意味です。日本政府発行のパスポートを持てる人。そして、私にとっても、私が日本人というのは、やはりその範疇程度の思いしかないんです。あるいは、それ以上の意味を持ち込まないように気をつけている、かな。何人だっていいじゃないすかねぇ、個人に国家を持ち込むなよなぁ。
言葉は伝わることがすべて
私も「どこで日本語勉強したの?」みたいなことを日本語を母語としない人に質問することはあります。けれども、それはそれを聞く理由がなにかはっきりとあるか、あるいは親しくなってから、です。
挨拶程度のことで「○○語がうまいですね」ということを言わないように気をつけています。それは日本語に限らず、何語でも同じです。たとえば日本語母語者で英語がとても上手な方に対しても、特に理由もなく「英語、お上手ですね」とは伝えない、ということです。希少言語、たとえば仕事仲間が道端で知り合った異国の人と突然アイスランド語やシンハラ語で会話しはじめたら「おー、すげー!」と伝えることになるでしょうけれどね。
その流れで言えばね。「自分は英語(でも何語でも)が下手なのですけれど…」とかもごもご言ってから、英語(でも何語でも)で話しはじめるというのも、なんか恰好悪いと思っています。そんなこと、云わなくても、あなたが英語(でも何語でも)を得意じゃないのは、聞いてればわかるよ。でも、上手いとか下手とか、どうでもいいじゃない。言いたいことを、とにかく話すのだ!!って思うわけ。それで何か反省すべきことがあるのであれば、とにかくまた勉強するしかない、ってこと。
言葉は、母語の確立がまず必要なのは人の脳の発達からおそらく確からしい。そして、この母語がふたつあったりすることも、もしかしたらあり得るのかもしれない(両親が違う母語の話者だったりする場合)。さらに、学校で習う国語(母国語)、外国語…。言葉はたくさんできるに越したことはありません。いくつできても困ることはない。
一方で、発音が正確でない、文法が正しくない、としても、それで「伝わる」ならば、な~んも問題はないと思います。発音が正確でない、文法が正しくないから正しく伝わらないってことは多々あるわけですから、もちろん発音も文法もあるレベル以上の習得は必要ですよ。
そして、その言語の母語話者のように発音や文法、さらには慣用句や流行り言葉を使いこなせなくても、なーんも恥ずかしいことはない。また、不十分な言葉の使いぐあいを揶揄ったり、ましてや差別するのはとんでもなく子どもっぽいことだと思います。
言葉は伝わればOK!
「あなた日本語お上手ね」からの脱却にむけて訓練は大事だと思います
言葉に対する幅広い寛容力、その実地訓練には、今の東京辺りはとっても良さそうですね。海外からの観光客は多いし、都内のコンビニエンスストア、さらにはコーヒーやハンバーグのチェーン店では、海外からの留学生が多く働いてくれているし、さらには国際結婚が増えて、先のJAL職員のような「日本人にみえない日本人」(なんか嫌な表現です、ね)も増えているはず。学校や、職場や、日常で、どんどん世界が開いていく。はい、そうやってどんどん揉まれていくしかない。
東京以外でも、そんな機会は増えているんじゃないかなぁ。
そして、日本社会には100年前の植民地支配に始まる「日本人だったのに、日本人じゃなくなっちゃった人たち」とその子息がたくさん暮らしている。あるいは、なになに、最近は中国の人たちが日本に移住? いいじゃないですか。みんなで楽しく平和にやりましょうや? それができないのなら、世界平和なんか無理でしょう? 世界平和なんか無理って、大人顔して語ったり思ったりするのは、やっぱり残念だよ。無理なところをどうするかが、知恵でしょう?
出身地なんかあんまり重要じゃないわけです。そこ、訓練しましょう、ぜひ。
私はあなたが日本人かどうかはどうでもいいんでね。ただ、私の書く日本語をあなたが解するかどうか、それはとても気になる。翻訳機能を使って読んでくれている人も少数ですがいるらしい。彼らにも届いて欲しいからもっと単純な文章で書いた方がいいのか? でも日本語としての座り・洗練は気になる。そこはなかなか悩ましいところです。 とにかく、こっちの日本語が下手なら、もっと精進して伝わる日本語文章を書くようにしなくちゃって思うのでした。
今回はこの辺で。じゃ、またね。
ជួបគ្នាពេលក្រោយ។(カンボジア語) See you later. (英語/米語) Sjáumst síðar.(アイスランド語)ඔයාව පසුව හමුවෙන්නම්.(シンハラ語)그럼, 또.(ハングル語)待会儿见。(中国語)じゃ、またやー。(沖縄語)スイ・ウ・ヌカラ・アンロ(アイヌ語)………

















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