カンボジア ぼくが出会ったドライバーたち

プノンペンの仲間たち ラタナックとプットもこの中におります。

「週末も使ってあげたほうが、彼らも喜ぶ」?????

 日本で生活していれば、よほどのことがないと自分の移動のための運転手を雇うなんてことはないだろう。けれども、途上国での国際協力の現場では運転手に頼ることは多い。それでも、日本での市民感覚からすれば、運転手付きの生活は、どこか「お雇い外国人」っぽくて、ぼくは正直、いつまでも馴染めなかった。
 運転手を雇っても、1日中車にのっているわけではない。短期の地方出張であれば、1日あたりの移動時間も長くなるけれど、日々の仕事で車を使うのは、宿泊場所と職場の往復だけだったりもする。つまり、運転手の仕事の大半は「待つこと」になる。ただ「待つ」という仕事はつらい、と、ぼくは思う。そして、そんな辛い仕事をお願いしていることに、ぼくはどうしても馴れないんだ。「誰かを待たせる」って、つらくないですか?

 青年海外協力隊というODAボランティアの仕事では、もちろん「運転手」を雇うなんてことはなかった。ぼくが初めて運転手が必要な状況で仕事をしたのは、1995年夏にスリランカでのODAによる教育セクター調査にかかわったときだった。
 調査では、ODA事務所を基点に、教育省や大学や公立学校、他の国際援助機関事務所等を訪問するわけで、土地勘のない場所での運転手の役割は大きい。この調査のときに滞在したのは、スリランカ最大の都市コロンボにある割りと高級なホテルだった。スリランカの公官庁が集中する首都スリジャワナルダコッテはコロンボ郊外にあり、朝夕の移動は渋滞に巻き込まれてなかなか大変だった。
 だから、運転手の勤務時間は、早朝から夕方おそくまで、長くなった。
 しかも、夕食の移動も、運転手は欠かせない。さらに、週末に、ちょっとした移動にも運転手は必要だったりする。つまり、運転手の仕事はとてもブラックだったと今思い返すと、思う。

「彼らは、週末も使ってあげた方が、収入が増えて喜ぶんだ」

 そういうことをおっしゃる日本人もいた。確かに、収入だけにフォーカスすればそうかもしれない。でも、労働時間とか、休日とか、労働条件が比較的整った“先進国”からやってきたぼくたちが、「使ってあげたほうが、収入が増えるから」って言ってていいんかい?って本気で思った。生きる条件や環境や、そういうことに鈍感であっては、いけないんじゃないかと。
 当時、一部の援助関係者には、自分がアッパーで途上国側の特にブルーカラーはアッパーに仕える人たちという拭い難い感覚があった。今は、どうだろう?

 ちなみに、このときスリランカで運転手をしてくれたバラさんとの楽しい話は、以前このブログで書きました。興味ある方は以下へ。

 上流階層は飲まない生ヤシ酒、美味しいのに! – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)

強烈な好奇心

 2002年、カンボジアに到着したその日、「彼が村山さんのドライバー、」と紹介を受けたぼくの運転手が、ラタナックという名の青年だった。19歳だったはずだ。後からわかることだけれど、彼はキャンプ育ちだった。キャンプというのは、カンボジア内戦時代に、タイとの国境沿いにあったカンボジア難民の住居地だ。ラタナックの父親はポルポト派の兵士で、彼はキャンプで育ちながら、たまに父親についていった森の中で銃の使い方を学んだ。そうい世代だった。

 1993年国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)によって総選挙が実施されたころ、彼の父親が属していたポルポト派の中のグループは、ポルポトらに率いられた主流派と袂を分かち、プノンペン政府軍に帰順した。そして、ラタナック一家はキャンプを出て、カンボジア西部の町シソポンで暮らし始めた。そこで高校まで卒業したラタナックは、親戚を頼ってプノンペンに出てきた。その親戚が、何人かの運転手を束ねていて、日本のODA実施機関にも顔がきいた。そんなことで、ラタナックは、ぐうせんぼくの運転手になったわけだ。

 彼はとても話し好きだった。
 質問、そして質問。彼は運転しながら、助手席に座ったぼくにたくさんの質問をした。彼の英語はけして上手ではなかったけれど、好奇心という武器が彼にはあった。ぼくは、時間の限る限り、できるだけ丁寧に彼の質問に答えるように心がけたのだと思う。そして、ぼくも彼から、カンボジアの交通ルールや渋滞時の抜け道や、その他、多くのことを学んだんだ。
 やがて、ぼくは彼に訊ねた。将来、どうしたいのだ?と。プロジェクトで働く長期派遣の日本人たちについていた30代、40代の運転手たちのように将来も運転手を続けたいのか?と。きっと給料は公務員よりももらっていただろう。ただ待つだけの仕事、それでいいんかい、とラタナックにぼくは聞いた。今後10年も20年も同じ毎日を繰り返す、特に運転手として過ごすには、若いラタナックは才気に溢れすぎているとぼくには思えた。ここに留まる人ではない、と思った。

 大学に行って、もっと勉強したいと彼は言った。どんな道に進みたいか、よく考えてごらんとぼくは伝えた。一度、彼は、法律家になりたいと言ったことがある。そのころ、彼にはガールフレンドがいて、どうやら彼女のファミリーに見栄を張りたいという意識はあったのだろう。いいじゃないか、目指せよ。ぼくは彼に伝えた。
 けれども彼の母親が泣いて言ったそうだ。法律家になったら殺される、と。当時、理想を唱える人たちが殺されるのがカンボジアだった。そして、法律家やジャーナリストというのは、殺されるリスクの高い仕事だと、彼の母親は思っていた。法律の勉強がしたいと言ったラタナックを、母親は泣いて諌めたそうだ。結局、彼は法律家の夢はストップして、IT、つまりコンピュータープログラマーの道を選んだ。
 午後5時に、彼は仕事を終え、夜間大学に通い出したのは2004年ごろのことだっただろうか。2005年にはぼくがかかわっていたODAプロジェクトはいったん終了し、ぼくはフリーの立場でカンボジアでの理科教育の応援を継続した。当然、運転手代を払う余裕はなくて、ラタナックもフリーになった。そして、ぼくと、もうひとり日本の先生と、ラタナックと、ぼくたちは3人で共同生活を始めた。家賃はぼくと先生が払い、ラタナックはそこに居候件、ぼくたちの日々のもろもろをサポートする、という条件だった。

 すぐに数年が経って、ラタナックは大学を卒業し、カジノホテルで働きだし、そこで彼女を見つけて、やがて結婚し、自立していった。彼との思い出はたくさんある。ぼくはちょっと父親目線で、彼の人生を眺めているようなところが、あるみたいだ。

気は優しくて力持ち

 さて、ぼくは2008年から始まった、新たなODAプロジェクトに関わり、改めて運転手を雇うことになった。そのときに、勤務先の学校長から紹介されたのがプット(仮名)だ。

 プットは年齢は20代後半で、ぼくの運転手になる前は、韓国の実業家の運転手をやっていたということだった。彼は、ラタナックと対象的に、寡黙だった。運転中、彼がぼくに話しかけるということは、ほとんどなかった。とにかく、言われたとおりに待機し、運転し、待機する。すでにベテラン運転手としての貫禄を備えていたようなプットに、ぼくもラタナックに聞いたように「将来何したいんだ」なんてことを聞くことはなかった。

 寡黙だったけれど、プットのまわりのカンボジアの人たちが彼に接する様子から、彼がとても穏やかで信頼すべき人だということは伝わってきた。まさに、気は優しくて力持ち。何を頼まれても、嫌な顔ひとつしないで助けてくれる。なにより、彼の二の腕は、ものすごく太い。その腕は、ぼくが障害を持った後には、ときどきぼくを抱き上げるのに大きく貢献してくれている。
 運転手がどんな人なのかは、日々の仕事や生活の質を大きく左右する一要因だ。その点では、どうやらぼくには、良い運転手がついてくれるという運があるみたいだ。

今や気持ちのいい友人たち

 その後、ラタナックもプットも、今でもぼくのとても気持ちのいい友人で、飲み仲間だ。何か困ったことがあれば、必ず親身になって助けてくれる。

 ラタナックの羽振りは、最近特にいい。彼がまだぼくの運転手時代、「君が将来、事業に成功したら、空港まで俺をレクサス(トヨタの高級車)で迎えに来てくれよ」なんて無駄話をしたことがあったけれど、本当にそういうことになってしまっている。どうやら、彼は中国人とのビジネスにも顔を突っ込んで、そこでも可愛がられているらしい。彼の人懐っこさと、強い好奇心は今でも健在だ。ぼくとしては、あんまり危ない仕事には手を出してほしくないので、ちょっとハラハラしながら彼の話を聞いている。
 プットは…、なんと彼は、公務員でもあった。ある省に在籍していることになっていて、それで有りながら、ずっとぼくの運転手をやっていたんだ。なるほどー、幽霊職員や幽霊教員、幽霊兵士、という話は聞いていたけれど、彼もそうだったのかぁ。幽霊〇〇というのは、職員として名前はあり給与は支払われているのだけれど、実際にはそこで働いていない、という事象を指す言葉だ。支払われている給与は、誰かの懐に入っていく。公務員には、わずかばかりだが退職後の年給がつく。支払われている給与がプット自身の実入りにはならなくとも、プット側にはその公務員の立場を維持するだけの価値があるわけだ。

 ぼくの知っている限りでも、そういう話は少なくない。ふたつの省庁に籍を置いている知人もいる。と現在形で書いたけれど、最近はそういう幽霊〇〇の事例は少なくなりつつは、あるようです。
 けれど、想像してみてほしい。そういう「不正」の周辺で、損をする人はだれもいないんだ。ただ、国庫から出ていく金額が多少違うだけ。おそらく幽霊〇〇を完全に無くすのは、今のカンボジアではけして簡単ではないはずだ。現状維持を願う一定数の人たちがいるわけで、それが現政権を支えてもいるのだと思う。

 そういうわけで、プットは最近は公務員としてその省に仕事に出ることが多くなっているようだ。うーむ、みんな、タクマシイ!

 

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