カンボジアで車イス者から話を聞く 3 ネアップさんの場合 

ネアップさん カンボジア プノンペンにて

 2014年に事故で脊椎損傷、車イス者となったぼくは、2019年に事故前に暮らしていたカンボジアの首都プノンペンに戻って生活を再開した。そして、カンボジアの車イス者の人たちの話を週末に聴きくことにしたんだ。
 今日紹介するネアップさんは、ぼくが最初に話を聞いたカンボジアの車イス者。彼はカンボジアの名門大学プノンペン大学を卒業後、教員として働き始めた直後に交通事故で脊椎損傷となった。下半身完全麻痺の他、腕や指にも障害が残っている。障害歴20年以上のベテランだ。今は日本から支援された中古車イスを使って、アクティブに生きているネアップさんだけれど、事故から10年以上、彼は引きこもりの生活を続けていた。
 彼はカンボジアで初めての自立生活を始めた重度障害者かもしれない。彼を支援する障害者団体は、日本の企業ダスキンが支援する「アジア太平洋障害者リーダー育成事業」を通してリーダーたちが日本での障害者自立活動を学び、そのカンボジアへの導入に取組んでいる。その最初のターゲットがネアップさんだった。ずっと家族の介護の元、その存在を隠されるようにして過ごしてきたネアップさんは、今、介助者の支援を受けながら、貸アパートの一室で一人暮らしをしている。
 今回は拙著『超えてみようよ!境界線』の中でネアップさんについて書いた文章を転載する。筆者の許可は得ています。

ネアップさんとの出会い

「障害のある新しいあなたの人生、おめでとう(原文は英語)」

 メールにメッセージが届いた。カンボジアで障害者自立を支援するグループ(Phnom Penh Center for Independent Living(PPCIL)https://www.ppcil.org/)のリーダーからの返信メールだった。おぉ、やるなぁと思った。その意気や良しだ。

 カンボジアの障害者の人たちが日本よりも厳しい状況に置かれていることは想像がついたけれど、その実際を知りたくて、自分の障害の状況なども書き添えたメールを彼に送ったんだ、その返信の冒頭に書かれていたのが「おめでとう」の一言だった。

 2019年中ごろ、日本からカンボジアに戻りプノンペンでの生活を再開したぼくは、さっそくグループの事務所を訪ねた。そこで出会ったのが、ぼくと同じ脊髄損傷を負ったネアップという名の四〇代の男性だった。それから週末に何回か彼を訪ね、ゆっくりと話を聞いた。

 21歳のとき、ネアップは交通事故で頚椎を痛めた。職場の仲間とバイクに三人乗り(そのころのカンボジアでは、めずらしくなかった)で走っているところに、無茶な追い越しをしようとして車線を越えてきた対向車に跳ねられたんだ。その車の運転手は無免許で、事故のどさくさに紛れて車ごと消え去ってしまい、補償や刑事責任など望むべくもなかった。ネアップがプノンペン大学を卒業し、教員として働き始めてすぐのことだ。それまでの順風満帆だった彼の人生は、そこから大きく暗転する。

死ぬための3つの方法

 カンボジアの病院では手の(ほどこ)しようがなく、家族は手立てを尽くして彼をベトナムの病院に運んだ。しかし彼の下半身麻痺は回復せず、腕を含む上半身にもかなりの麻痺が残った。

 それから生まれ故郷の村で3年、さらにプノンペン郊外の家で11年、彼はずっと寝たきりだった。「死んだも同然の暮らしだった」と語る彼に、死にたかったか、と尋ねてみた。ネアップは「よくぞ聞いてくれた」というように、そうなんだよ!と大きく頷くとその細い上半身をぐっと乗り出すと、「死ぬ方法を三つ考えた」と続けた。死を手繰り寄せるために彼が考えたのは、ひとつは薬をいっぺんに大量に飲むこと、ひとつは絶食、もうひとつは舌を噛み切ることだった。最初の方法は、家族が薬を管理していてうまくいかなかった。絶食も試したけれど「腹が減って腹が減って、最後には食べてしまった」。いよいよ最後の方法を試みた。「家族が留守のときに、舌を噛み切ろうとした。でも、やっぱり痛くて駄目だった」。まるで笑える落語みたいな話だ。そんな彼は「今は死のうなんてぜんぜん思わないよ」と胸を張る。

 自立支援グループと出会った2010年から、世界は彼に再び開き始める。最初はすべてが恐る恐るだった。初めて介護に入ってくれたスタッフに自分の尿の始末を頼んだときはとても緊張(きんちょう)した。もらった車イスで外に出ると、道行く人みんなが自分を見ているような気がして、いつもうつむいていた。髪を切ろうとしても、ネアップの麻痺さいた身体を気味悪がった床屋で、入店を拒絶されたこともある。

 それから9年、今は家族からも離れ1日4時間の介護を受けながらひとりで生活をし、グループの事務仕事をしたり啓蒙活動に参加したりして少しだけれど収入もある。車イスに乗ってネパールと日本にも行った。

1日400円弱の食費

 「ネパールの食事はカレーばかりで参ったけれど、日本食は美味しかった」と話すネアップの毎日の食費は日本円にして400円足らずだ。プノンペンでぼくが大好きなクィティウ――日本のラーメンに似た麺類――が1杯300円ほどする。物価が日本より安いカンボジアでも、1日400円足らずというのはこれっぽっちの贅沢も許されない金額だ。ぼくは一食にその10倍使うこともある。たまたま生まれた社会の福祉制度が違うだけで、日々の生活の質も大きく違ってしまう。ぼくが日本に生まれたのはぼくの功でも罪でもないけれど、カンボジアに生まれたネアップの苦しい半生も彼のせいではない。

 ぼくは事故後、死にたいと思ったことはなかったなぁ。手や口が動いたからだろうか。福祉が整っていたからだろうか。ぼくにはわからない。でも自分が運良く恵まれていたことは分かる。ネアップとのインタビューには金銭はなにも絡んでいない。ただ、ぼくが話を聞きたくて、彼が話をしてくれた。

 今も孤立して寝たきりでいる多くの「ネアップ」たちに、いつかもっと話を聞けたらとも思う。
    (以上、『超えてみようよ!境界線』107~110ページ より)


(2020年3月に所用のため東京に来たぼくは、コロナ禍でプノンペンに帰りそびれてしまった。ということで、現在東京で静かに幽閉中だけれども、プノンペンに戻ったら、車イス者から話を聴く活動を再開するつもりです)

2件のコメント

とても、素晴らしいです。 
コロナ治ったら、お会いできたら、
嬉しいです。

私も、この前、沖縄に行ったあと、
死の淵から、脊損やけど疼痛に
ついて、もっと、解明して欲しいという
ような、使命感を与えられ、
蘇りみたい状況になってます。

小泉武敏様

コメントありがとうございます。
沖縄旅行のFBでの投稿、楽しく拝見していました。
疼痛と向き合う小泉様の思い、その発信を受けることで助けられている方々、おられると思います。
そうですね。はやくコロナ禍、収まってほしいですね。
また、よろしくお願いします。

村山哲也

コメント、いただけたらとても嬉しいです