8月6日、76年前に広島に原爆が落とされた日
計算、あっているよね。1945年から2021年で76年前。
日本の夏、毎年この日もやってきます。3日後の8月9日には長崎にも落とされた原子爆弾。
20歳を過ぎてから、広島にも、長崎にも行く機会がありました。広島平和記念資料館も、長崎原爆資料館も訪ねました。長崎原爆資料館を訪ねたのは初秋だったかな。でもとても暑い日で、そして原爆資料館にはエアコンがなかったのがとても印象的でした。今はどうなのだろう?
今年は広島で原爆投下後、広島市郊外で降った放射能を帯びた黒い雨にあたってしまった人たちを政府が被爆者と認めるかどうかの裁判があったあとだったので、改めて原子爆弾の恐ろしさが思い出されもしました。政府や官僚の大勢を抑える形で菅首相が控訴をしないことを決めたのは、菅さんの英断だったと私は高く評価します。だからといって、他の失政がないことにはならないけれど。
そして、この時期になると原爆投下に関する多くの記事や文章を目にします。そんな記事や文章には、2021年の今でもわが祖国日本を指して「唯一の被爆国」とする表記をかなり高い確率で目にします。今年の夏も、何回か目にしました。今朝、フェースブックで誰かが紹介していた記事にも、やはりこの「唯一の被爆国」という言葉が使われていました。その多くが、唯一の被爆国である日本国の政府が世界の核廃絶に向けて国際社会のリーダーシップをとるべきだという文脈で使われます。その背景には、それなのに米国の核の傘に守られた日本国政府は、核廃絶には消極的なのではないか、というジレンマがあります。「唯一の被爆国」である日本国は、昨年、ついに120カ国の賛成で国連で採択され来年2022年に発効される「核兵器禁止条約」には反対の立場です。一方で、日本国は国連で「核兵器廃絶の決議案」を毎年主導して提出している(おそらく国連の日本事務局では毎年の恒例行事としてこの業務は定型化、ルーティン化、しているはずだ)。核兵器の禁止には反対し、でも核兵器絶滅の決議には積極的。いろいろと思惑はあるのでしょうけれど、他所から見るとわかりにくい態度でもある。これ、何年か前に自民党政権が倒れて、現在野党の立場にある人たちが政権をとったときにも維持されたのですから、日本国にとってとても大事な堅持すべきルールなのがわかります。米国の傘を離れることは、中国の核と真正面から向き合うことになるわけで、なかなかできない相談、というのが外務省や防衛省の立場なのでしょうし、多くの有権者もそこは結局は認めているってことになるのでしょう。
核兵器が世界中にたくさんあって、もしそれを限定的にでも戦争や紛争で使う政府があったとして、その後どうなるのか。確かに、限定的であれば、長い目で見れば使った者勝ちって判断をする政権があっても不思議じゃないかもしれません。そう思わせなければ、核は抑止力にならないし。
核兵器で殺されるのも、焼夷弾(古いのか?)などの通常兵器で殺されるのも、どう違いがあるの?という気もぼくはする。核は後世に影響があるから、ダメなの? そうだけれど、通常兵器もどんどん新しい機能が開発されて残酷さの度合い(そんな度合いで測るのも変な話ですけれど)も増しているし。核兵器だけ特別視する必要があるのだろうか? 不謹慎ながら、ときどきぼくはそんなふうに考えることがあるのです。
唯一の被爆国って、それは事実に反しています。
そして、核兵器の傘にすっぼり入りつつ、核兵器の廃絶は主張し、でも核兵器の禁止には賛成しない、そんな日本国の曖昧さを許しているのが「唯一の被爆国」という看板なんじゃないでしょうか。
念のためちらっと調べてみましたところ、この「唯一の被爆国」という看板は、正式に日本国政府が掲げていると云っても、間違いではないようです。
かなり古くなりますけれど、1981(昭和56)年6月5日の衆議院の外務委員会というところで「核軍縮に関する衆議院外務委員会決議」がなされています。その最初に、「唯一の被爆国として、持たず、造らず、持込ませずの非核三原則を国是としている我が国」という文章を見つけました(外務省: (参考)非核三原則に関する国会決議 (mofa.go.jp))さすがに古すぎですかね。
ならば令和3年8月4日の外務省のHPの文章ならどうでしょう 軍縮・不拡散・原子力の平和的利用|外務省 (mofa.go.jp) 。「日本は唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向け、国際社会による核軍縮・不拡散の議論を主導してきています」 令和3年って、調べたら2021年、今年じゃないですか。8月4日って2日前!!
でも、注意深く読むと、2日前の文章には「唯一の戦争被爆国」とあります。唯一の被爆国と、唯一の戦争被爆国、日本国の枕詞がいつから変わったのか興味がありますけれど、そこまでは調べるのちょっと面倒でやってません。
被爆国。さて、いくつぐらいありますかね。
確実なところで、米国、日本、ウクライナ(旧ソ連)、カザフスタン(旧ソ連)、オーストラリア、アルジェリア、マーショル諸島、タヒチ、仏領ポリネシア、中国(の新疆ウイグル自治区)……。おそらく、インドやパキスタンのどこかに被爆地はあるだろうし、チェルノブイリでの原子力発電所の放射能はヨーロッパ全土に広がったと思われるし、ここで挙げた以外の被爆地、被爆国はきっといくつもあるでしょう。イスラエルがこれまで限定的な核兵器を一切使っていないと言い切る自信も、ぼくにはないですし。つまり、日本だけが被爆国というのは、どう考えても「思い上がり」です。で、だから、今度は唯一の戦争被爆国と言い換えた。森巣博(賭博家、小説家)であれば、「俺のチンポは小さい、それは認めるけれど、でも硬い!」との例えを使うところでしょうか。とにかく、被爆国の看板は降ろさないぞ!という日本国の強い強い意識を感じさせます。戦争被爆国! それならば、先に挙げた被爆地は「実験被爆国」ということになるでしょうか。日本は最近新たに「事故被爆国」にも仲間入りした? なんというのかな、なかなかキツいジョークになってまいりました、って感じです。おそらく、拡散被爆国、汚水被爆国、風害被爆国、風雪被爆国、さすらい被爆国、男一匹被爆国、テロ被爆国、戦略被爆国、メジャー被爆国、マイナー被爆国、知られざる被爆国に有名被爆国、特権被爆国、一流被爆国に三流被爆国、(未、あるいは非)認定被爆国等々、今後、被爆国の形容はますます多様になっていくのではないでしょうか。やれやれ、であります。
おそらく、眼目はもはや被爆国にあるのではなくて、「唯一の」のほうにあるのかもしれません。いかにも有り得そうな話です。つまり、ニッポンチャチャチャ、としてはオンリーワン、が大事で心地好いんじゃないでしょうか。なるほどそう考えると、「唯一のコロナ禍でのオリンピック」。無理強いして開催に踏み切った理由も見えてくる気もいたします。
境界、おかまいなしッ!!!??
冗談?はさておき、戦争被爆国であろうと、事故被爆国であろうと、被爆者の悲惨は代わりありません。被爆の恐怖にも変わりはありません。細胞分裂が激しく起こっている場所であれば、植物も、昆虫も、魚も、カエルも、フクロウも、鹿も、人間の子どもたちも、放射線は区別しません。
まさに、境界、おかまいなし。どうすりゃ、いいですかね。
これまで核が拡散してしまうと、「私たちだけやーめた」じゃもう済まない。核兵器を廃絶したって、いつだって再生産できてしまう。そうなれば、いくらでも疑心暗鬼は無尽蔵。それに、廃絶には技術は必要で、廃絶後も再生産に備えて技術は維持しなければならない。核産業が斜陽産業になったとして、どうやって優秀な人材をつなぎとめるのか?つなぎとめられるのか? 夢がないよねぇ。つらい仕事になるでしょう。
でも、例えばフクシマ第一の廃炉だって、この先、何年かかるかわからない。とりあえず、食いっぱぐれはない? でもなぁ、嫌な仕事です。で、実際、早くも嫌な仕事は日本の人のやり手がいない。フクシマ第一では海外からの労働者の姿が目立っているそうじゃないですか。ここでも、境界、おかまいなし。そんな労働者の皆さまに、心から御礼を申し上げるぐらいしか、なかなかぼくはできることがない。せめて、納税者には選挙権を差し上げたいところなんだけれどなぁ。あら、いかんいかん。納税者と非納税者を、選挙権のような大事な権利の前に区別するなんて、あってはいけないことでした。油断であります。まさに油断大敵。気をつけます。長期在住者には、国籍に関係なく選挙権を、であります。
と書いて、先日、友人からのメールを思い出しました。友人はぼくに「超限戦」という言葉を教えてくれました。別名、ハイブリッド戦争、だそうです。今や戦争は、通常戦のみにあらず。非戦争時の情報戦、たとえばサイバー攻撃、や、商取引や為替の駆け引き、不動産売買も戦争の一環であるらしく、戦争と非戦争の境界もあやふや、軍事産業と平和産業の境界もあやふや、戦闘員と非戦闘員の境界もあやふや。ここでもやっぱり、境界、おかまいなし、なのだそうです。なんだかなぁ。
そういえば、ウイルスももちろん、境界、おかまいなし、ですし。なんか混沌の21世紀でありますよ。そうか、友人は超限戦なんて言葉に敏感なところで生きておるのだなぁ、なんて改めて世界の認識の多様さを確認して、我が社会の狭さを実感したりする、2021年夏なのであります。
でも、考えようによっては、もはやなんでも戦争(なり、国家間の競争なり)に絡め取られて認識されてしまうわけでしょう? それ、個人が国家の論理に飲み込まれるってことでしょう? それはできるだけ避けて通っていきたいわけです、ぼくは。「君が避けたくっても、避けられない」って言葉が返ってくるのは想像できます。その理屈もわかる。でもね、そこはやっぱり心意気ってやつも、あるんじゃないかなぁ。個人の行為は行為として、国家からは可能な限り独立させたい。儲けを求めて不動産購入する人たちを、国家戦略の手下と呼ぶのかどうか。結果としてそうだから、やっぱり彼らは尖兵なのか。そう考えたほうが、平和に寄与するのだろうか。その場合、平和の範囲は?どうやって、広い広い平和を作っていくことができるのだろうか。50年生きていても、答えられない情けなさや。
友人Kよ、いや、Kばかりではなく、みんな、君はあなたは、どう思う?


















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