寂しさって、どーんと腹にくる

iPhoneとともにある甥っ子の毎日 

 2020年師走。
 今年3月に、1ヶ月の予定でカンボジアから東京にきたぼくは、そのまま新型コロナ騒動で今も東京の浅草にいる。朝日も夕日も差し込まない穴蔵のようなマンションの一室が滞在場所だ。留守番役をお願いしていた20代の甥っ子が同居人だ。彼は大学4年生、来年の春には社会人となる。

 甥っ子の日々は、いつも携帯電話とある。iPhoneを携帯電話と呼んだら怒られるかな。
 彼の就職活動もコロナ禍のせいで、そのほとんどがインターネットの中で進んでいった。それほど友は多くないという彼の主たるコミュニケーションツールは、LINEなのかな?メールなのかな?さっきは携帯電話で、友だちに呼び出されて出かけていった。

 ぼくのこの住処には、もちろん有線電話はない。おそらく、これからも有線電話を自分の居場所につなぐことは二度とないだろう。有線電話と携帯電話のあいだに、ポケットベルというものもあった。調べてみると1987(昭和62)年ごろから利用者が急増し、1996年にピーク(1,000万人を超える利用者)に達し、そこから減少に転じて、2007(平成19)年にサービスを終了している。
 なるほど。ぼくはポケベルというものを使ったことが一度もない。ケニアでの青年海外協力隊活動に参加したのが1990年で、1992年末に帰国した後もポケベルが必要な生活は送らず、1997年からまた海外に飛び出したから、ポケベルには縁がなかったのは腑に落ちる。

長江荘5号室という時代

 有線電話しかなかったころ。中学3年から浪人1年までの5年間、ぼくは祖母の持っている学生向けの長江荘という名のアパートで暮らしていた。2階建ての古い木造家屋の2階に4.5畳か6畳かの部屋が8つあって、共同トイレが2つあった。ぼくの部屋は6畳一間の5号室。1階は本屋さんが入っていて、その家族が住んでいた。
 大家である祖母の家は、同じ番地の一角にあった。アパートの住人への電話は、まずこの祖母が叔父(祖母の長男)家族と暮らす家の電話につながり、それを受けた大家の人がスピーカーでアパートの住人を呼び出し、電話の受け手が対応すれば、大家の電話からアパートの靴箱の上におかれた電話に切り替えてくれるというシステムになっていた。
 田舎での話ではない。長江荘があったのは東京都中野区という、一応都心の一画だ。

 浪人中、ぼくには恋人がいた。ときどき彼女からぼくに電話が入る。けれど、もし祖母の家が留守ならば、その電話はぼくにはつながらない。また、呼び出しがあったときにすぐに対応しなければ、留守とされて切られてしまう。恋人からの電話を受け取るためには、呼び出しがあったら素早く対応する必要があった。大家宅からの呼び出し音がなれば、ぼくはいつもダッシュで駆け出した。

 ぼくから恋人に電話をかけるときには、電話ボックスを利用した。近所に走っていける距離に3つ電話ボックスがあった。10円玉をたくさんポケットに入れて、電話ボックスに走る。占有者がいれば、次の電話ボックスへと、また走る。青色だったか、うすい黄色だったか、電話ボックスの電話はもうみんなプッシュホンだった。10円玉を電話機の上に積み上げ、よく長話をした。それはいつも夜おそい時間で、電話ボックスの薄暗い灯りが、今思い出すとなんとなく温かい。

 恋人とは手紙のやり取りも頻繁にしていた。会話だけではたりない話題や思いが溢れるほどあった。当時、父の仕事の都合で、福島市内、その後はつくば市内にいた家族からも、ふたりの妹がそれぞれ編集する家族ニュースが毎週届いた。ぼくが家族に返事を書くのは、もっと頻度が少なかったけれど、とにかくそんなわけで、ぼくは今でもわりと筆まめだ。

電気水道ガス電話なしのケニア クウィセロ村

 1990(平成2)年末、ぼくはケニアに飛んだ。派遣先は、ケニア西部、ウガンダの国境に近いカカメガ県クウィセロ村の中等学校だった。それほど多くない荷物を持って乗り込んだクウィセロ村には、電気水道ガスがまだ通っていなかった。村に有線電話が通っているのはひとつある郵便局だけで、しかもその電話も直通ではなく、まず交換手に相手側の電話番号を伝え、つながるまで待つというしろものだった。たとえば、ナイロビの協力隊事務局に連絡したくて交換手にその旨をつたえても、1時間以上待ってもつながらないことは当たり前だった。さらに、海外電話は受け付けてもらえなかった。
 日本に電話をするためには、50キロメートルほど離れた大きな町まで行かなければならなかった。また国際電話代もずいぶんと高額だった。

 結局、日々のコミュニケーションは手紙となる。けれど、AirMail(航空便)でもクウィセロから日本までは片道1ヶ月がかかった。往復2ヶ月。相手から返事を受け取っても、さて、自分が2ヶ月前に何を書いたのが、思い出せないことが多かった。
 ちなみに、手紙も全部手書きだ。まだパソコンは出回っていない。ぼくがケニアに行って2年目に、ナイロビの事務所にMacintosh SEというタイプの卓上一体型PCが導入され、スタッフがそれを嬉しそうになでなでしていたのを覚えている。それも、電気水道ガスなしの田舎暮らしのぼくには無縁のものだった。

 さて、クウィセロ村の前、ぼくは東京で電話は使っていたわけだ。そして電話のない、クウィセロ村で生活し始めた。村には、ぼく以外にもうひとり外人として、村の職業訓練校で働くアイリッシュのお兄さんがいたけれど、彼のべらんめぇ調(に、当時のぼくには聞こえた)の英語はぼくにはほとんど通じない。日本人の協力隊仲間と会うには、50キロ離れた町までいかなければなならない。
 赴任当初の寂しさを、どう言葉にしたら今の若者に伝わるだろうか。13歳のときに父の転勤で地方に行った家族とはなれたぼくは、一人暮らしには慣れているはずだった。電話なんか使わないで数日過ごすなんてこともたまにはあった。寂しいこともあったけれど、でも、それまで経験した寂しさはクウィセロ村で感じた思いと比較すると、寂しさのほんの序の口だった。

 寂しさは、特に夜になると猛烈に荒れ狂った。当時のぼくは27歳、いい大人だ。そんな大人が、暗闇の中で、ひとりっきりの寂しさに身悶えしたんだ。泣くということではないんだ。ただただ、深々と、寂しい。会いたい人から、ものすごい距離の場所にいる。自分で選んだことだ。でも、さびしいものはどうしようもない。ただただ耐えるしかなかった。
 あの寂しさは、どーんと腹にきた。下っ腹にどーんと。夜風が吹いて、家の脇に立っていた火炎樹が揺れて音がする。上弦の月が夜半に沈んで、明るかった夜空が真っ暗になる。通り雨がトタン屋根を鳴らし、音もなく雷が光る。
 たまに、お葬式だろうか、遠くから人の悲しげなリズムが聞こえてくる夜もあった。そんなときは、むしろ人の存在が感じられて、ほんの少し寂しさがほころんだ。

 あぁ、あの寂しさの深さ。でも、あれも財産なんだ。その後、世界のあっちこっちで数千晩をひとりで過ごしたけれど、あの寂しさを体験していたから、乗り越えられた夜がきっといくつもあった。

せっかく知り合っちゃったんだから

 20世紀末に始まった通信革命によって、世界は完全に変わったと、ぼくは思う。もはやあの深い寂しさは、世界から絶滅してしまったんじゃないだろうか。
 探検家の角幡唯介ですら、極地をさすらいながら、日本にいる愛娘との定期交信は取ってしまう。いや、取れてしまうか。
 今ならクウィセロ村から携帯電話でベッドの中から日本に電話をかけることができるだろうし、メールでチャットすることも可能だろう。

 もちろん、インターネットの欠点もあるだろう。でも、それは新しいコミュニケーション手段が出るたびに起こってきたことだ。
 郵便で手紙が出せるようになると、悪意の手紙が届くようになる。電話が通じたら、いたずら電話がかかるようになる。無言電話や、嫌がらせ電話は、心底嫌なものだ。
 そして、インターネットだ。匿名で垂れ流される悪意や怒り。規模の大きさで言えば、一対一の関係だった手紙や電話よりも、確かにインターネットの負の側面は桁違いに大きくなった。
 そして、そんなコミュニケーションツールに囲まれながら、寂しさに苦しむ人も増えている。

 もし、ぼくが今、そんな寂しさから少し距離を取れているとすれば、あのクウィセロの夜があったからなのは、間違いない。背中を丸めて、暗い中をただじっとしていた。自分が選び取った寂しさを見つめるしかなかった。今から思えば、あの寂しさは、ちょっと芸術に似ていたなぁ。
 あの夜があったことを、良かったとは語りたくない。いい経験だったとも思っていない。
 ただ、鍛えられたのだけは、確かだと思う。

 iPhoneと暮らす甥っ子に、ドーンと下っ腹にくる寂しさが訪れるときがあるだろうか。あるような気もする。たとえiPhoneでも、癒せない寂しさはあるはずだから。
 甥っ子と同年代のぼくの子どもは、今年の春から北の方の町で一人暮らしをしている。そして、それなりに新しい寂しさと出会っているようだ。無理して出会うことはないけれど、せっかく知り合っちゃったんだから。親しくしたら、いいと思う。できれば、ドーンと下っ腹を蹴られるほど、親しくしたら、いいと思うよ。

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