まず最近掲載された朝日新聞の記事から。記事中、実名で書かれている部分を二カ所、私ムラヤマが勝手に匿名(Aさん、Bさん)に変更しています。
朝日新聞電子版有料記事5月30日
「交流の積み重ね、友好の礎」 日本人学生300人が中国訪問
中国・北京の中国人民大学で29日、日本の大学生約300人と中国の大学生約200人が参加する交流イベントがあった。米国が中国人学生へのビザ取り消しを表明するなど米中対立が目立つなか、日中双方の学生が歌や伝統舞踊などを披露。相互理解を深めた。
日中友好協会、日中文化交流協会、日中友好会館の3団体が、日本各地の大学から訪中団を募集。24日から中国を訪れていた。イベントでは、中国側は京劇や武術の演舞を披露。日本側は合唱や書道のパフォーマンスを発表した。
日本側の学生代表の一人としてスピーチした上智大4年のAさんは、「限られた情報源だけで相手のことを判断するのはもったいないと感じた」という。「交流の積み重ねが様々な分野で日中関係の友好や協力関係の礎になる」と話した。
日中文化交流協会訪中団のB団長(ジャーナリスト)、は「みなさんが、日中関係をさらに前進させる仕事にぜひ参加してほしい」とあいさつした。(北京=井上亮)
この記事に対して、阿古智子さん(現代中国研究者、東京大学大学院総合文化研究科教授、私の名古屋大学大学院時代の研究室仲間)が、6月5日にFacebookに以下の投稿をされました。全文シェアします(読みやすさを考慮して、段落変更は私ムラヤマが勝手にしています)。
朝日新聞のコメントプラスに書きました。何回も躊躇したんですが… 昨日授業で話している時に、学生たちから前向きなリアクションが得られたので・・・。
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日中交流の記事にネガティブなコメントをすべきではないかと何度か躊躇しましたが、授業で学生たちに話していて、私の考えに共感が得られたので書いておきます。
「限られた情報源だけで相手のことを判断するのはもったいないと感じた」という学生さんの言葉、どのようなコンテクストでそう話されたのかを知りたいです。「訪問して初めて見えたものがある」というような意味で話されたのでしょうか。
中国を訪問して行う交流活動の多くが、中国政府やその関係機関がお金を出し、アレンジしているものであり、限られた場所しか見せてもらえず、ごく限られた人たちとの交流しかできない状況です。
コロナやビザの制限で中国に訪問することが難しかった時期から考えると、最近はビジネスや留学、交流で中国に行きやすくなり、日本からの訪問者の数は増えています。しかし、訪問して自分の目で現場を見ることができたからといって、中国の内部をしっかり捉えることができたかというと、そうではありません。言論を厳しく統制している中国において、見ることができるものの多くは、時の政権が見せたいと思っているものだと認識した上で、訪問活動に参加する必要があると思います。
私は中国の社会問題を研究しているので、ある種、中国の負の側面に焦点を当てていると言えます。そのような側面が中国を代表しているわけでもありませんが、問題に鋭く切り込むことは、こうした訪問団での交流ではほぼ不可能です。私の学生は学生交流で中国を訪問した後、「中国の学生たちとまったく自由に交流できた」と嬉々として話しました。しかし、政治的に迫害されたり、日常的に監視されている人たちは一部であり、一般的な交流においてそうした人々と出会うことは稀でしょう。学生には、私の付き合いのある知識人、ジャーナリスト、アーティスト、活動家などが置かれている苦しい状況を話しました。
交流事業に参加することによって、「中国は日本で報じられているように多くの問題を抱えているわけではない」「日本の報道が中国のイメージを歪めている」と感じる若者もいるかもしれません。いじわるな見方をすれば、そうした若者が増えていくことを権威主義国家は狙っています。どこの国にもソフトパワー戦略や文化事業があり、国家のイメージをよくするために文化事業をやるでしょう。しかし、今の中国の言論統制や監視による圧力等は非常に深刻な影響を中国社会にもたらしています。そうした側面を日本の若者にもしっかり伝えた上で、交流事業に参加させるべきだと私は考えます。
若者たちがこうした交流事業に参加した後、どのように意識を変化させ、行動しようとしているのかについても、朝日新聞には伝えていただきたいです。
阿古さんのこの文章を読んで、私は何か読み流せなかったのです。なにか気になる。それはなんだろう? 考えたあげく、6月9日、このFacebookでの阿古さんの投稿のコメント欄に、私は以下を書き込みました。
阿古さんが危惧されている点、私なりに理解できているだろうと勝手に思っています。
けれど、反論してみる。
阿古さんが書かれたように、いわゆる国際交流は現在の中国ではすべて官製であることは避けられません。それに参加するならば、その限界を知ってから参加するべきだと阿古さんは書いた。けれども、それをすべての参加者に求めることはやはり難しいと私は思う。ならば、このようなプログラムは無駄だし、参加する(あるいは参加させる)べきではないか?
始まりはさまざまでいいと思うんですよ。このような交流行事に参加したことで、中国に興味を持ち、さらにまた学ぶことに繋がれば、その中には現在の中国の問題にぶち当たる人もいる(若者であろうとなかろうと、ね)。
一方で、これっきりになってしまう人は、阿古さんが心配するように間違った認識、たとえば現行報道が歪んでいるというような、を持ってしまうかもしれない。確かにその通り。でも、それはさ、交流に参加しようがしまいが関係なく起こっている。
問題の本質は、「判断する」にあるのだろうと思います。自分の体験を疑う態度が涵養されていないのではないか? パッとみて分かった気になる、そんな人が増えている? もしそうだとすれば、何がそんな単純な思考を生み出しているのだろう? 教育もあるだろう、よく言われる同調圧力の強い日本社会の特性みたいなものもあるのかもしれない。
それこそが阿古さんが危惧することの本質に近いのだろうと私は感じる。
何か縁があって他者と出会う機会、その際にはもちろん準備がしっかりあった方がいいのでしょう。でも、準備不足なことも多いわけで。だから、情報不足であることをもって駄目としなくてもいいと思う。まずは出会ってみる、そこから始めるしかないわけだし。
そして、その準備不足を指摘する阿古さんのようなおせっかいがあるのもとってもいい。「阿古さん、そんなけち臭いこと言いなさんな」という主旨での反論ではないのです。「単純に判断するな」、ということをもっと前面に出したほうがいいだろう、という反論でありんした。
以下、短い蛇足。
短文で考える。短文で書く。最近はAI要約で時間短縮(効率性が上がる?)でますますそんな傾向が増えているみたいに感じます。嫌だなぁ、怖いなぁ。パッと条件反射のように判断/決めつけがなされるようなこと、どんどん増えているようで気になります。
新聞記事でいえば、学生Aさんが語ったとされる「限られた情報源だけで相手のことを判断するのはもったいないと感じた」の部分。Aさん、あなたはこれまで限られた情報源だけで相手のことを判断してきたのだろうか? そもそも相手とは、実は個々の相手ではなく、「中国」とか「中国人」というような国家だったり複数形ではないのか。それは「相手」という言葉が適切な対象のか? 阿古さんがこの発言の文脈を知りたがる、気になる、のは当然だろうなぁと思うよ。
そして、情報源はいつも限られている。どこまで知れば、完璧なのか?よく理解しているとしたって、その理解も、常に偏見がある。まったく偏見なしの情報なんてありえない。だって情報を咀嚼する個々にそれぞれの価値観なり、体験歴なりがあるわけなんだから。こう書いている私自身も私という偏見の塊なのです。
さらにさらに。現地に長く滞在していたとしても、それは滞在経験のない人と比較して、現地をよく知り理解しているとも言えないことが多い。たとえば私がどれだけカンボジアを知り、理解しているか? 知らないことばかりよ本当に。
だからさ、疑うことは大事だし、情報の更新、自己の更新、そんなことを気にし続けることが大切だと思うのですよ。あぁ、説教臭いわぁ。
とにかく、この件はとりあえずここまで。
阿古さんにかんして、具体的には彼女が2023年末に正論新風賞を受賞した後に私が考え続けていることを、このブログに書かなくちゃ、書かなくちゃと、思いつつなかなか書けないでいるのです。書きかけの中途半端な文章、だいぶ貯まっている。
うん、早く書き終え、ここ(ブログ)に掲載できるように心がけます。
ちなみに、今回のブログ、阿古さんには同意を確認しないまま書いています。上記の書きかけのブログの件も、おそらく阿古さんには内容を事前にお見せしないままこの場に出すだろうと思う。
その大きな理由は、阿古さんへ私が勝手に感じている信頼感というのもあるし、彼女自身があちこちで多事争論を望んでいると書かれているからです。さらに、東京大学の教授であり、マスコミでの露出も多い“阿古智子”という記号は、もはや公共財であるという私の理解もあります。
とにかく、はい、そんなふうで、阿古さん、よろしくー。
ではでは、また。
追記
Facebook上での私のコメントに、阿古さんから以下の返信(公開されています)をもらいました。
村山さん、いつもありがとうございます。私は全てが「官製」とは言っていないですよ。主にこのコメントは、朝日の記者に向けたものです。学生さんたちにも、交流に参加する際には、主催者の意図や交流の内容をしっかり鋭く分析してほしいし、1週間弱現地に行ったぐらいで、分かったような気持ちにはなってほしくはないですが、記者にもっと鋭く伝えてほしい、そして、交流の後の若い人たちへの変化にも関心を持ち続けてほしい、と書いています。

















疑り深い私としては、上智大4年のAさんの優等生的なコメントは、本心からでは無いと思っています。日中友好との今回の目的から、空気を読んでの発言でしょう。私の様に疑っている人は少なく無いのでは。阿古さんは「単純に判断するな」をもっと前面にとの村山さんのご意見ですが、阿古さんの真意は伝わって来ます。
シルクロード番組がはやり、喜多郎の音楽が流れ、ウイグルにも自由にいけたころの添乗員としては、
「ともかく!行ってみて」って感じです。
やっぱり歴史ってすごくって なんとか漢化しようと躍起になってもじわりじわりとしみだしている
それはやはりいくっきゃないことかも。どんな機会であれ。