男という居心地の悪さ(…女であるよりも)。健常者という居心地の悪さ(…障害者であるよりも)。親という居心地の悪さ(…子であるよりも)。支援する側という居心地の悪さ(…支援される側であるよりも)。強者である居心地の悪さ(…弱者であるよりも)。

今日のテーマは、分け入っても分け入ってっも熱帯雨林という感じで。こちらは最近ちらりと立ち寄ったアンコールワットに近い熱帯雨林の断片です。鬱蒼(うっそう)という文字がほんとにふさわしい。

平手打ち……

 昨年のことですけれど、「対談『聞くという経験』~岸政彦 × 信田さよ子~」というプログラムを視聴しました。
 社会学者の岸政彦さんも臨床心理士の信田さよ子さんも、知っている人は知っている方々です。

 そこで話されたひとつのテーマは、「被害者がいるから、加害者がいる」、そして、男性の「男性性」は、DV(ドメスティックバイオレンス)とかの加害者としてだけ立ち上がってくる(!)ということが語られました。そして、加害者が語るというときには、露悪的になるか、反省的であることで聖人的(つまり責任が解除された立場)になっていく(しかない)、なんてことが語られました。そうだよなぁ、と思って聞いていました。おなじ(加害者の)語りが、受け手によって露悪的ともとられるし、聖人君子的ともとられるし、というのは本当にそのとおりです。

 米国の映画の祭典で、有名俳優がパートナーを揶揄・侮辱されたことを理由に男性司会者(?)に平手打ちを喰らわせたことが話題になっています(ご存知でない方はごめんなさい。詳細をここで書くのはちょっと億劫なので、「ウィルスミス」「アカデミー賞」などで検索してください)。
 私はこのシーンをビデオでも見ることはしていませんし、あまり詳細にその後を追いかけているわけでもありません。ただ、この有名俳優がその後、謝罪表明をしていること、それに対して好意的な反応と批判的な反応の両方があること、などを知るのみです。で、上記の「加害者が語るというときには、露悪的になるか、反省的であることで聖人的(つまり責任が解除された立場)になっていくしかない」ということを思い出したのです。もしこの有名俳優の(小さな?)暴力が、謝罪によって聖人性に転化しているとすれば、まさにこの表現の好例になるわけですよね。とてもわかり易い。

 有名俳優を擁護するSNSの中での日本の方の表現の中には、以下のようなものが私の印象に残りました。

「妻をけなされたのなら、男としてそれを許さないのは当然だ」(ある男性の声)
「今回の事件で、この俳優が以前にまして大好きになりました」(ある女性の声)

 そうなのかぁ。

 考えてみたいシュミレーション(模擬検証・模擬想定)が私にはいくつか思いつきます。

 ・この俳優が女性だったら、世間の反応はどう違ったか?
 ・平手打ちを喰らったのが女性だったら、世間の反応はどう違ったか?
 ・この俳優が平手打ちを喰らわせずに黙っていたら、世間の反応はどう違ったか?
 ・自分がこの俳優で、パートナーを揶揄されて頭にきたとして、どう行動するか?
 ・自分がこの会場に居合わせたら、この事件の後にどう行動するか?

 私がこの俳優で、カッとなって平手打ちを繰り出していたら、とにかくその直後からイヤーな気持ちになるのは確実だろうなぁ。すぐにその場を立ち去りたいだろうなぁ。さらには、映像として広く公開されているという事実は、イヤーな気分を何倍も増幅するだろうなぁ。この後、このことを思い出すたびにイヤーな思いは強烈なフラッシュバックとして繰り返すだろうなぁ。
 それが確実に想像できるから、平手打ちしないで、さてどうするか。妄想は無限ループにつづきます。

よみがえるイヤーな思い出

 他者に平手打ちを喰らわすことが、とてもイヤーな体験になるだろうと今ここで私が書ける理由のひとつは……。私は人を平手打ちしたことがあるからです。30代前半のころ、身近な女性をひっぱたきました。しかも、二度も叩いた(二回の違う機会にという意味ではなく、同じときにまず一度叩いて、さらにもう一度叩いた、ということ。興奮すると暴力は暴走するというのはよくわかります)。今、この文章をタイプしている右手で、です(人を叩いた我が右手のひらをじっと見つめるの図)。人生、最悪の思い出ベスト10に入る、イヤーなイヤーな思い出です。でも事実です。
 だからもう二度と、他者を叩きたくはありません。

 そうか、芋づる式にさらに思い出した。40歳ごろ、自分の幼い子どもの頬をパチリと叩いたこともある。さらに極めつけは、40代後半にもなって、友人の子どもの頬をパチリパチリとやはり二回叩いた。どちらも、そのときは「(しつけ)」気分で手加減して叩いているつもりだけれど、それは叩いた側の言い分であって、叩かれた子ども側にはまた違う見解と思い出としての光景があるはずです。
 ひとつだけ言い訳的に書くと、友人の子どもを叩いたのはその子の両親である友人夫婦の目の前で、でした。友人のいないところで叩いていたらと想像すると、もっと胸が悪くなる。幸い、彼は今でも私の大事な友人でいてくれています。よかった。

 それらのどの暴力も、本当に嫌な記憶です。あの出来事が自分の人生から消えてなくなれば、どんなにスッキリするかと思う。でも、残念ながら自分のしたことで、今後も私の記憶から消え去ることはない。

 自分が幼いとき、父や教師に叩かれた記憶もあります。大人になってからも、親しい女性や友人から暴力まがいのことをされた記憶もあります。でもそれは自分が叩いた記憶ほど嫌なものとして残ってはいません。もちろん、けして甘美な記憶ではありませんけれど。

 「言葉の暴力はいいのか?」という言説はある。はい、言葉の暴力は良くないと思います。言葉であれ、身体であれ、暴力はないほうがぜったいにいい(はい、自分が放った言葉の暴力の記憶も、数々あります)。そして、どんな暴力であれ天秤にかけて重さを比べるものでもない。それは、かなりつまらない行為なんじゃないかな。

 でも、本説を書き始めたのは、暴力禁止を書きたい、ということとはちょっと違うのです。

強者性という根深い問題

 書きたいのは、タイトルにある通り。

「男という居心地の悪さ(…女であるよりも)。健常者という居心地の悪さ(…障害者であるよりも)。親という居心地の悪さ(…子であるよりも)。支援する側という居心地の悪さ(…支援される側であるよりも)。強者である居心地の悪さ(…弱者であるよりも)。」

 この居心地の悪さは、おそらく多くの女性は日常感じずに済んでいるじゃないかと想像します。おそらく、「男という居心地悪さ」を女性が理解するのはけして簡単じゃないのではないだろうか。同様に、子どもは親が感じている「親としての居心地悪さ」を理解することはない。
 理解できなくて、当然です。理解する必要もないし。
 でも、書き始めた以上、もう少しこの居心地の悪さについての説明にチャレンジしてみます。

 要はタイトルの最後にある「強者である居心地の悪さ」という問題です。男性でも、健常者でも、「自分が強者であること」にピンとこないという方はおられるでしょう。
 でも、それは油断じゃないのかと私は思っているわけ。同じような構造は、援助の中にも見出しやすい。つまり「支援する側という居心地の悪さ」です。これも「支援される側」はなかなか理解できないだろうと想像します。普段の関係性の中で、「俺はさぁ、支援する側の居心地の悪さを日々感じているんだよね」という話を、支援する側が支援される側としんみり話すというケースはまずない。少なくとも、私はこれまで一度もないです。

 じゃ、それはどんな居心地の悪さ何だよっ!と、言われるわよね。さっさとそれをはっきりし表現せよ!と。でも、これがなかなか難しいのです。「なんと書いたらいいのか……」という種類の感覚なのですよ。感覚的なものって、表現するの難しいでしょう? 書いても書いても、なんか上滑りしちゃう。そういう感覚を文字化するという難しさに加えて、このテーマは自分の闇をさらけ出すみたいな、しかも強者の、という腐臭がどうしても漂う。でも、続けます。

 例えば、ある状況で「あぁ、男にはわからないよ、女の気持ちは」と女性から言われてしまうとする。この場合は、実際に他者からそういう言葉を投げかけられるのでまだわかりやすい。
 でも「男である居心地の悪さ」とは、たとえば、男性による女性のレイプ問題を考える際に、男である私は誰に言われたわけでもないのに自分の頭の中に「男であるお前に、被害者である女性たちの心情が本当に理解できるのか?」というフレーズが浮かんでは消え、消えては浮かびする、ということなんです。このフレーズを完全に消去することは、男である私は絶対にできない。もしも消去できたとすれば、消去したということがまた自分の「男性性の嫌な面」として浮かび上がってくる。さらには、深堀りすると、私の中にも無残な男性性、つまりレイプで性的刺激を受けるような感性がある。と書くのも嫌だけど、うん、あるだろうというのを否定するのは、どうしたって嘘っぽい。

 おそらく、普段障害者と接することのない健常者が、障害者と対面してしまったときに感じる「まいったなぁ」の根元を深堀りすると、この「強者である居心地の悪さ」が少し想像できるかもしれません、あなたが健常者、あるいは元健常者、なら。

 この「強者である居心地の悪さ」を自分一人で解決することは、ぜったい無理なの。だって、これは強者を作りだしているこの社会の有り様と密接に関係している感情だから。その点は、せめて気楽なところでもある。私という個性が、勝手に創造した強者性ではけしてない。ま、エクスキューズ(言い訳)として使うのもなんですけれどね。

 それは「弱者である居心地の悪さ」がこの社会には存在するということでもあります。むしろ、こっちの居心地の悪さのほうが、より共感を得やすく、その存在も明示されやすい。あえて言えば「弱者である居心地の悪さ」は、それをぶつける対象がわりと容易に見つかるよね。「女である居心地の悪さ」の背景には、必ず女性蔑視だったり、家父長制だったりという社会に広がる(負の)価値観があるわけで、女性蔑視や家父長制は批判しやすい。「男である居心地の悪さ」の背景にも、この社会の中の女性蔑視や家父長制があるのだけれど、それを批判するときには「男であるお前がどんな顔して批判するのよ」という自己批判が常につきまとうのです。単純にことは運んでくれない。

 そんな複雑な屈折が、無自覚な強者によるさらなる弱者攻撃に転化したりするのは、あっちこっちで観察できます。

 障害者が権利を主張すると、すぐに返ってくる典型的な反応のひとつに「障害者の立場・権利が強くなりすぎてごね得になっている」ってのがあります。これも、深いところまで探ると、「強者であることの居心地の悪さ」につながっているように私は感じています。人の立場や権利は、「強すぎる」ってことは、本来はないじゃないでしょうか。これまでよりも強くなったとすれば、それはむしろ喜ぶべきことだと思うんですけれどね。でも、他者との比較が大好きな私たちは、すぐに天秤にのせて比べようとする。するとこっちの立場や権利(強者の側ということね)のほうに天秤が傾くんですよ。あらやっぱりというその居心地の悪さがあるのだけれど、それを自覚できないと(天秤がこっちに傾いている状況を変えたくないという思いがあるという自覚)、先の「ごね得じゃないの」というような無様(ぶざま)で無用で無残な批判が強者の口をついて出てきたりする。無意識に感じる「居心地の悪さ」ってのは、かなり扱い(コントロール)がやっかいな心情なのだろうと想像します。

 「親としての居心地の悪さ」もなかなか扱いずらいです。多くの場合、親はこの居心地の悪さからどうしたって逃げようがないわけです。居心地の悪さを感じつつ、それでも親は子に何かを語り、伝えなければいけない。それは箸の持ち方や便器の使い方に始まり、日々の生活のすべてです。何を伝えてても価値観を伴う強いメッセージになる。この子どもに対する親の強者振りは、すさまじいものがありますよ。よーくよーく考えると、どの親もそれほど偉くもないし、たいした存在でもない(でしょ?)。それなのに、子どもの前では絶対的な存在でいられる、というか、いなくてはいけない。似たような構図に「教師としての居心地の悪さ」もありますね。自分を見つめ返せば「俺、なんで教師なんてできちゃっているの」と考える人のほうが健全なんだと思います。でも、校則指導とか、長い年月やっているときっと何か勘違いが起こるよね。権力は蜜の味らしいですから。教師としての居心地の悪さを感じるにせよ、勘違いな強者性に染まる危険性にせよ、辛い仕事っちゃ辛い仕事ですよ、教師は。

面倒なことではあるけれど

 私はね、自分の強者性がときどきうっとおしい。かといって、弱者になりたいとか、弱者が羨ましいとか、そういうことじゃない。
 おそらく、人として生まれ育ち、死ぬまで生きる以上、この種のどうしようもない縛りからは誰しも自由ではいられないのだとつくづく思うのです。男であり、性的指向が異性に向き、高学歴で、高校野球部の監督とかをやったり、高度経済成長期の東京生まれで、日本国パスポートを使い、国際協力支援を「援助する側」の立場で()扶持(ぶち)とし、いわゆる健常者としての生活が長かったし、障害を得た後も様々な面で強者のままでいられて、という私の場合は強者のオンパレードですけれど、ここまでオンパレードでなくとも、でもいろんな局面で人はときに強者になる。
 弱者だって、状況によっては強者に転化する(だからもちろん、強者も弱者に“転落”する)。

 だから「強者であることの居心地の悪さ」というのは、かなり普遍性をもったものなんじゃないかなぁ。どうなんでしょう? たとえば、米国なら「WASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)であることの居心地の悪さ」、中国なら「漢人であることの居心地の悪さ」、イスラエルなら「ユダヤ人であることの居心地の悪さ」(イスラエス国籍を持つアラブ人もいるし)、ヨーロッパ人なら「キリスト教徒であることの居心地の悪さ」というのもあるかもしれない、イランなら「イスラム/シーア派教徒である居心地の悪さ」、きっと他にもいろんな事例があるんじゃない? 

 話を有名俳優のビンタ事件に戻すと。

 私自身が一番げんなりするのはあの行為が「男らしい」という反応です。「妻を侮辱されたのだから、その侮辱者をひっぱたくのは男として当然だ」という手のやつ。むしろ叩かないとすれば、男として問題だという感性。この暴力との親和性の高さを「男らしい、かっこいい」とする価値観は、日本だけでなく世界中でかなり広く共有されている雰囲気があるし、根も深いように思えるのですよ。実際にこの価値観に支えられた暴力による具体的な死者も多数(死者だけで年間数十万以上の犠牲者だと推定します、被害者となれば数百万数千万の単位でしょう?)の、大社会問題です。だけど、なかなか手をつけられない案件で、つまり無策なまま現状維持が続いています(国際援助関係者、どうするよ?)。 
 「男らしい」という価値観と結び付けなくても、世界で起こっている殺人の大多数は男性によるものです。(日本の事例ですけれど、2017年に殺人罪で検挙された人874人中、4分の3にあたる663人が男性です)。あなたにもし娘さんがいるとして、その娘さんに彼氏ができたとする。それはつまり、娘さんを殺す(ことも含めて娘さんに暴力をふるう)可能性のある最も高い確率を持つ男性が現れたという意味でもあるわけで。残念ながら実際に事実そうなわけです。日本で起こる殺人理由の一番は「親族間の紛争」、二番めは「男女間の恋愛から派生するもの」で、夫婦間の殺人は一番目「親族間の紛争」にカウントされることが多いそうですから、つまり夫婦・恋人間でのなんらかの問題によって起こる殺人が一番多いということらしい。しかも、その場合、殺されるのは男性よりも女性であることがずっと多い。ね? そう考えると、男であることって本当に情けないというか。
 毎日どこかでこのバカバカしい「男性性」の犠牲者が生まれていると想像すると、やっぱり「男であることが辛い」という気持ちはぬぐい難い。鏡を見て自分が男性であることを見せつけられるやるせなさ、みたいなもの。確実に、私自身もこれまで様々な局面で、バカバカしい「男性性」を発露してきたし、今もそこから自由ではない面が確実にあるのです。そのことが「男であることの居心地の悪さ」からの逃避を決定的に失敗に終わらせる。キリスト教的にいえば、男性と暴力の親和が異常に高いのは原罪? いやいや、原罪なんて言ってしまえば、それはもう「男性性」の負の側面をしかたがないものと肯定しかねないから、よくないね (「(男性性の)負の側面」と書いて、正の側面はあるのか?と問い直して、いや無い、と思ったので打消し線で消した次第です)

 とにかく、はい、男としてまずは自分自身はこの居心地の悪さをずっと持ち続けるしかありません。ずっと抗い続けるしかありません。自己否定が伴うのですから、まったくもって面倒なことではありますけれど。でも逃れる術は、ない。
 加害者が語るというときには、露悪的になるか、反省的であることで聖人的(つまり責任が解除された立場)になっていく(しかない)、という視点から言えば、この語りは“露悪的”であることを自分に対して徹底的に宣言します。それでも「責任解除」を無意識に意図しているのだと思えば、それを否定することもできない。うーん、ね、書いても書いても、上滑りするのですよ。どーすりゃいいんかなぁ。

 

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