言葉にしないとワカラナイ、言葉にしてもワカラナイ、 開発援助の最前線で最初にやらなければいけないことは…

ルワンダ 現職教員研修で 本文とは直接の関係はありません

コミュニケーションの技術

 途上国での教育支援に関わりながら、しかもぼくは英語を含む多言語はけして得意ではない、むしろ苦手(ということを口にするのはズルいとも思ってました)という状況で、どう相手(カウンターパート)の方々とコミュニケーションすればいいのか、というのは最近の最大の関心事項でした。
 一番最初のとっかかりだった青年海外協力隊時代は「こちらに伝えたいことがある、話したいことがある」という熱意のようなもの、だけをあてにしていたような気がします。
 でも、やっぱりそれじゃ限界はある。コミュニケーションは相互作用なのだから、こっちの思いだけで成立するわけじゃない。相手にもその気になってもらわないと、うまく交流できない。
 やがて、ファシリテーションというものに出会ったり、さらにアンテナを張っていれば「傾聴」という言葉と出会ったりします。ファシリテーションというのは、議事進行役みたいにとらえることもできますけれど、最大の関心事は、どうやって話し合いの参加者に自分たちの思いをその場に晒してもらえるか、ってことなんだろうとぼくは受け取ってきました。

 今でもよく覚えているある参加型開発の技法を学ぶ研修会があります。講師はたしかオランダからわざわざ招聘されて来日されていた人でした。研修参加者にはいろんな課題が与えられ、集団で議論をし、講師はそれを同時通訳してもらいながら聞いている。そして、ときどきコメントしたり、あらたな質問をしたりする。でも、ぼくはその研修にすごいフラストレーションを覚えました。いったい何のために議論しているのか、その議論が何につながるのか、それがどこか不透明でよくわからなかった。さらに講師のコメントも、どこか中途半端で「結論」が見えない
 帰路につく地下鉄の中でも、ずっとその研修を反芻(はんすう)することになりました。そして、ふっと思ったのです。これだけ反芻(はんすう)させるとは、つまり、今日の研修はすっごくインパクトがあったんじゃないかって。簡単に納得するよりもずっと考えさせられた。結局、ぼくはそんな罠にはまって、ますますファシリテーターの役割とか、参加型とか、そんなことに興味を深めていったわけです。
(ちなみに、あの研修以来、研修では参加者に不満が残ってもそれは一概に「良くなかった」とは判断できないと思うようになりました。研修の終了時にアンケートで満足度を取りますけれど、満足度が高ければいいわけではない、ということです。というわけで、研修の評価って、とってもむずかしいですよね)

 傾聴、というのは、『相手のいうことを否定せず、耳も心も傾けて、相手の話を「聴く」会話の技術』(傾聴とは – コトバンク (kotobank.jp) の人事労務用語辞典より)のこと。たとえば、会議なんかでは傾聴していると「負けちゃう」ようなことが多い。声の大きいほうが「勝つ」という世界で過ごしていると、人の話を聞く技術は成長しない。傾聴は技術ですから、それを身につけるには訓練も必要なんだ、ってことに気がつくかどうか。
 実は、ぼくは、声が大きいです。自分の考えを主張するときには、ついつい熱が入り、ますます声が大きくなるタイプだと思います。つまり、油断していると傾聴できない人になりかねない。そんなことを自覚するのが、きっと傾聴の第一歩なんでしょうね。

 とにかく、コミュニケーションはぼくにとって、自分のやっている海外(言葉の通じにくい場所)で働く上で死活問題でした。どうやって、意志の疎通を図るか。

 呑みニケーションは、ぼくには大事な戦略でした。日本では、呑みニケーションは昭和のツールで、今ではそれを駆使したコミュニケーションは嫌われる傾向すらあるのかもしれません。でも、ぼくは現場では呑みニケーションを多用していました。そこでは「(おご)る」ことも意識的に戦略化していました。だって、あきらかにぼくのほうが収入が多いのですから、まぁいいじゃないですか。いっぽうで、奢ってもらうことも大事なことでもありました。まぁ、しょぼい戦略ではありますけれど、でもバカにはできない作戦だったのです。
 以前、ある資料で「ビールが安い世界の国々」として「ベトナム、エチオピア、カンボジア、フィリピン、ルワンダ(順番までは不確かです)」が挙げられていました。その信頼性はわからないけれど、なんとぼくが長めに働いていたフィリピン、カンボジア、ルワンダがベスト5に入っているではないですか。つまり呑みニケーションを武器とするぼくにとっては、絶好の国でぼくは働いてきたのだった。なんという僥倖
 ただ、これは呑みニケーションに参加する人としか使えない。たとえば多くの社会での女性とか、飲まない人にとっては、むしろ敷居を高くしかねない。その状況判断と対策も必要でしょう。

目指したいのは「安心」

 でも、とにかく、そんなすべてのコミュニケーションも「言葉」が必要です。思っていることを言語化する。それがないと始まらない。
 ぼくはあるとき親密な関係にある人に「しっかり言語化して欲しい」なんてことをお願いしたりしたことがあります。言語化してくれなければ、伝わらない。黙っていても、態度で表しても、やっぱりわからない。だから、言葉にしてくれと。でも、今なら、それもある種の圧力を相手に与えること、つまり下手くそなコミュニケーションだったと思います。「言語化」を求めるのも、常に強者である。
 もちろん言語化できたほうがいいですけれど、人の思いって、言語化できないこと、きっと多いのですよね。自分自身も自分がなにを言いたいのか、何を思っているのか、よくわからない、みたいな状況。
 でも、そんな人にも、上手にマイクを渡すと、その人自身が事前に言語化できなかった思いが溢れ出すってこともある。

 現時点でのぼくのコミュニケーションのキーワードは「安心」です。目指したいのは「安心」したコミュニケーション。安心して会話できれば、開くものはあるんだろうと。

 そこでやっぱり出てくるのは失敗談。あるとき、研修におくれたカウンターパートに、ぼくは「ちゃんとエクスキューズして」と伝えたのでした。おくれた理由をしっかりと言語化してもらいたかったんです。それは日本語的な「言い訳」とは違う意味で、ぼくは伝えたつもりでした。でも、「エクスキューズして」というぼくの表現は、彼女を硬化させました。「私はエクスキューズするような恥ずかしいまねはしない!」というのが、彼女のリアクションでした。
 そのときのやり取りは、今でもぼくの心に残っています。どうしたらよかったんだろうと、よく考えます。もちろん、互いにとって母語でない英語を使う状況で、「エクスキューズ」という単語の選択に問題がありました。でも、一番の問題は、ぼくの結論は、あの場には「安心感」がなかったのだろうなぁということです。強者側(支援する側)として、ぼくは安心感を作り出すことに失敗していたのだということです。だから、ぼくの言葉に彼女は「守り」に入ってしまった。ダメだったなあ。

 開発援助の最前線で必要な安心できる場(関係)づくり、きっとそれが支援者が最初にしなければいけない仕事なんじゃないかなぁと思っているわけで、ございます。そして、その場で必要なのは、話す力よりも、聴く力なんじゃないのかなぁ、とも思っています。大きな声は、控えめに。

 

2件のコメント

いつもじっくりと読んでいます。自分の失敗体験と重なるところも多い。いまだから書ける、今だからわかることもあるなぁ、と感じます。今回の記事を読んで思い浮かんだ書物: 
和田信明・中田豊一(2010)途上国の人々との話し方:国際協力メタファシリテーションの手法 みずのわ出版

鳴門金時様

読んでいただけて、とても嬉しいです。元気づけられます。
和田さん中田さんの『途上国の人々との話し方』はい、折りに触れて読み直す本の一冊です。「これなんですか」から始まるコミュニケーション、あそこでも本筋にいたるまで時間をかけることで、「こいつはオレのワタシの話を心から聞きたがっているんだな」と相手に伝える、つまり相手もその気にさせる技法が含まれているんだと思っております。 また気づきがありましたら、遠慮なくコメントくださいませ。

村山哲也

コメント、いただけたらとても嬉しいです