辺見庸著『1☆9☆3☆7』、再読しました。そして、「病める自らの盲腸」(茨木のり子の詩から)について

辺見庸著『1★9★3★7』週刊金曜日 2015

1億総懺悔という言葉の1億って……

 ずっと前から不思議に思っていることがあります。「一億総懺悔」という言葉です。
日中・太平洋戦争の日本敗戦直後に組閣された東久邇稔彦内閣が使い始めた言葉ですけれど、1945(昭和20)年、日本の人口は7千万人ちょっとです。それなのに、なぜ一億総懺悔だったのか。以前気になって、一度調べたことがあります。
 この一億という数字、日中・太平洋戦争前から日本の植民地だった、朝鮮半島と台湾の人口も入っているのですよ。終戦時、朝鮮半島の人口が2500万人ほど、台湾が600万人ほど、日本列島の人口とあわせて1億強、それで「一億総懺悔」というわけです。朝鮮半島と台湾が領土だった日中・太平洋戦争中に使われた「一億一心」・「一億玉砕」という言葉を受けての「一億総懺悔」という表現でしょうけれど、鈍感すぎ。
 つまり懺悔を求められたのは、植民地の「旧日本人」も含まれていたのです。懺悔、とは、徹底的に謝って相手からの赦しを乞うこと。この「一億総懺悔」で謝っている相手は、天皇です。天皇に対して、戦争に勝てなくてごめんなさい、どうか赦してください、と謝っているのです。今の価値観から考えると、なんか、とってもやれやれって気持ちにならないですかね。ぼくはなります。特に、朝鮮半島や台湾の人たちまで「懺悔せよ」と一緒にしておいて、その後は「日本人」でなくなったことを理由に軍人恩給も遺族年金も無し、ですから。やれやれ、だけじゃ、怒られちゃうなぁ。
 でも、このことを知ると、その後に使われた「一億総白痴」(1957昭和32年 大宅壮一)、「一億総中流」(1970年代ごろ 旧総理府実施の「国民生活に関する世論調査」から)、「一億総活躍」(2015平成27年 安倍晋三)とか、どれもどこかちょっと鼻白む(特に最後はね!)。

犯し殺しまくった、日本兵、つまりぼくたちの父祖たち
で、そんな個人の虐殺責任を「なかったこと」にしてきた昭和、平成、令和の時代だったのだなぁ

 さて。辺見庸さんが書かれた()()()()()(週刊金曜日 2015)という本が、今、僕の手元にあります。この本、その後、河出書房新社から増補版が出て、さらに角川文庫で完全版(上下)が出ています(増補版・完全版はぼくはまだ読んでいません)。辺見庸さん、『もの食う人々』で出会ってから、いくつかの著作を手に取りました。ぼくにとって、辺見庸さんは信用できる書き手のひとりです。信用というのは、なんというのかな、嘘つかない、自分の言葉を使う、自由や反権力ということに敏感、みたいなことかなぁ。

 その辺見さんの』、最近読み直しました。1937(昭和12)年は、盧溝橋事件があり日中戦争が一気に拡大し、大日本帝国軍が上海に上陸、そして当時の中華民国首都の南京まで攻め上り、この年の12月に南京を征服、そのときに南京大虐殺が起こった年です。
 1944(昭和19)年生まれの辺見さんは、まだ生まれていません。

 けれど、辺見さんはこの1937年にこだわる。そして、南京での虐殺を題材にした小説家堀田善衛の小説『時間』や、中国戦線での自らの中国人殺しを題材にした小説家武田泰淳の小説『審判』、さらには映画監督小津安二郎の中国での記憶、等々の著名人の残したものと、そして辺見さん自身の父親、彼も1943(昭和18)年から3年間中国で従軍、に対するさまざまの思いを絡めながら、「当時、自分が生きていたら、中国人を殺したか」と問うのだ。辺見さんは、「戦争とはそういうものだ」という立場を取らない。徹底的に細部にこだわる。この場合の細部とは、個人としてどう時代に対するかということだろうと思う。時代から自由になれないことは理解しつつ、でも、時代のせいにしない。

 本の内容は、とにかく、ぜひ読んで欲しいとしか言いようがない。おそらく辛い読書になるはずだ。けして「たまたま」「ときどき」「例外」ではなく、日本兵が中国で奪い、犯し、殺した、ことがよく分かる。
 文中で版画家浜田知明の1952年発表の〈初年兵哀歌 風景〉というエッチングが文章で説明される場所がある。

「画面中央に、地平線、大地。大きく足を開いてあおむく女。焼き殺されたのだろう、真っ黒だ。局部にずいぶん長い棒か枝のようなものが一本刺されている。画面上の地平線にむかい、小さな点でしかない「皇軍」縦隊が移動してゆく。目の角度は大地すれすれのローアングルである。縦隊はもうアリのように小さい。そのぶんだけ殺された女が巨大になる。炭のように黒い女の脚と股間が、記憶者である私をはさみこんでくる。」

 浜田が山西省で従軍していた際に廣野で実際に見たことを基に描かれたと思れるこのエッチング。探してみた。見つけた。国立美術館に所蔵されているようだ。以下のアドレスでそのエッチングを見ることができる。辺見の執拗な文章で表現されているように、かなり辛い絵です。どうぞ見る場合は、気をつけて開いてください。無理して見ないように。でも、可能なら、ぜひ。

 独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索 (artmuseums.go.jp)

 エッチング上の皇軍(日本軍)の縦列は、パソコンの画面では油断すると見逃してしまうかもしれない。スマートフォンでは、ホコリのように見えるかも。ぼくの受けた印象で書くけれど、このエッチングの中で犯され殺され焼かれた女性は妊婦ではないか。死体は少し時間が経つとガスが溜まって腹が膨らむことがあるようだけれど、遠景の日本軍に強姦され焼かれたとすれば、この女性は殺されてからまだそう時間は経っていない。とすれば、この大きな腹部、つまり妊婦じゃないかとぼくは思う。そこに作りものでないリアリティがあるなんて書いたら、まるで作為があったように感じる人がいるだろうか。妊婦だろうと強姦の対象になったことは、特に珍しい事象ではなかったと思われます。

 辺見さんは、日本軍の日本人たちが、なぜそれほどまで強姦しまくって、殺しまくったのか、自分の父という装置の力も借りながら、自分自身に引きつけて考える。そして、戦後の日本社会が戦争犯罪の責任と自ら向き合わなかったことを何度も反芻し、天皇を頂点とした戦争責任に対して日本社会があまりにも無頓着だったことからも、あの暴力性はけして霧散していないのだと問うのです。戦場で市井の人を強姦しシトツ(シトツ…刺突しとつ、銃剣で人を刺すこと)したぼくたちの父祖たち自身が自らの犯罪責任を問うことはなかったし、自分もそれを問いただすことはなかったと、辺見さんは書く。彼が書いているとおりだと、ぼくは思う。個人個人の戦争行為を逸脱する虐殺行為を自責し告白した例、証言した例、さらにそれを父祖に問い詰めた例こそが徹底的に例外的であって、あの戦争での個人の加害責任は、それを自ら掘り下げることのないままなかったことにされたのが戦後日本社会であったという指摘を覆す材料など、なにもない。
 戦争行為を逸脱する虐殺行為という書き方は、戦争行為を逸脱しない虐殺行為を免罪するという意図はけしてない。ただ、☆9☆3☆7を読むたびに、中国で日本兵が手を染めた非戦闘行為中の強姦と殺戮の多さを認識せざるをえない。たとえば、陸軍がシステムとして導入していた新兵への「刺突訓練(捕虜らを縛って、それを銃剣で突くという人殺しの練習)」、それも戦争犯罪としての捕虜の虐殺。大量虐殺でなくとも、日々、繰り返されていた不必要(?)な暴力。捕虜の殺戮は、日本も署名した(軍の反対で批准はしていない)ジュネーブ条約やハーグ条約といった国際条約の明らかな違反だ。それすらも、戦争とはそういうものだ、というのであれば、なら、以下はどうか?

 《元職員(村山注 出入国在留管理局の収容施設の元職員)には忘れられない光景があるという。ある日、職員たちが詰め所で被収容者を「制圧」している場面を収めた動画を見ながら談笑する光景だ。制圧にかかわった職員が、「俺がこの時、決めてやったんだ」と得意げに話しているのを聞いた。》(『「ガラ」と見下す風潮 元職員が明かす入管の人権意識』 5月12日 毎日新聞 より)

 『を読んだ後で、最近報道された出入国在留管理局収容施設での強制収容の動画を見ながら語られる入管職員の得意げな語りを知れば、それはすぐに80年の時間を飛び越えて、中国での日本軍の蛮行につながる。もし、誰かが「日本人は、変わっていない」と思ったとして、日本人はなんと返すのだろうか。

 と、ここまでが長い前置きでした。とにかく、機会があれば手にとって読んでみてください。

病める自らの盲腸 (茨木のり子の詩から)の処理についてついてに)

 この投稿の前にあたる投稿(2021年5月13日)で、1971(昭和46)年に茨木のり子さんが発表した「くりかえしのうた」を取り上げた。

〈日本の若い高校生ら 在日朝鮮高校生らに 乱暴狼藉 集団で 陰惨なやりかたで 虚をつかれるとはこのことか 頭にくわっと血がのぼる 手をこまねいて見てたのか その時 プラットフォームにいた大人たち
 父母の世代に解決できなかったことどもは われらも手をこまねき 孫の世代でくりかえされた 盲目的に 田中正造が白髪ふりみだし 声を限りに呼ばはった足尾鉱毒事件 祖父母ら ちゃらんぽらんに聞き お茶を濁したことどもは いま拡大再生産されつつある 
 分別ざかりの大人たち ゆめ 思うな われわれの手にあまることどもは 孫子の代が切りひらいてくれるだろうなどと いま解決できなかったことは くりかえされる より悪質に より深く 広く これは厳たる法則のようだ 

 自分の腹に局部麻酔を打ち みずから執刀 病める我が盲腸をり剔出した医者もいる 現実に かかる豪の者もおるぞ〉(「くりかえしのうた」実際の詩は改行がたくさんある) 

 ここ数年、以前にも増して「日本押し」「日本スゴイ」というような言説が流れているのは感じることがある。安倍晋三元首相がよく口にしていた「日本人として誇りに思う」というような文脈で使われる、ニッポンチャチャチャ、です。日本押しではない文脈での「日本人として恥ずかしい」というような表現も、つまりは背景には「素晴らしい日本」が意識されていると思います。
 テニスの大阪さんや、ゴルフの松山さんの活躍も、「日本人として誇りに思います」なんてコメントがつくと、ぼくは興醒めしちゃうくちなんです。ま、その辺りは、もう好みの問題かもしれないけれど。だから、止めて、なんて言わないよ。けれど。

 個人を「日本」や「日本国」とリンクさせるような物言いや、考え方も、増えているのかな。「日本人として、どういう立場を取るか問われています」とか、先の「日本人として恥ずかしい、誇らしい」というような問の立て方や、捉え方。国家を背負ったような物言い。ぼくは、使わないようにしています。大きな構えで、ものを考えたくないし、捉えたくない。捉えられたくも、ない。

 別に、そんな物言いが好きならば、それはそれで良いのかもしれません。けれど、日本を、あるいは日本の文化を、さらには日本人であることを誇る人たちって、どうやら天皇制崇拝の傾向が強かったり、神道との親和性が高かったりするように思えるのです。そうなってくると、そんな人たちは、先にあげた日中・太平洋戦争での日本人の蛮行と、どう折り合いをつけているのだろう、と不思議に思うのです。彼ら・彼女らは、「蛮行などなかった」「あったとしても、それはあくまで例外だ」と考えているのでしょうか。それとも、「戦争とはそういう(殺し殺される)もの」だったり、「中国人も日本人を虐殺した」で納得しているのか。

 でも、天皇制を崇拝するのであれば、天皇の名のもとで行われた蛮行を無視するのはあまりに都合がいいとぼくは思うのです。「日本人」と絶対複数形で大きく構えて語るのであれば、日本人の蛮行も気になって仕方がないはずじゃないかしら。
 ☆9☆3☆7でもつづられている暴力の散乱は、天皇制とまったく関係ないのでしょうか?「戦争とはああいうもの」で済ませるには、日本軍兵士の蛮行は、あまりに日常茶飯事だったように思えます。異常だ。戦争という空間そのものが異常ではあるけれど、その異常の中でもさらに異なるものだったように思えます。一度に数千人、万人という虐殺よりも、日々の強姦と暴力と刺突が、より異常で、でも日常だった。(だから、米軍が上陸したら女性はみんな犯され殺される、なんて大衆は真面目に信じたんじゃないかしら? 自分たちがしてきたから、想像しやすかったんじゃないかしら?)
 「どっちがよりマシだったか」という比較はあまり意味のある批評の仕方ではないと思いつつ、たとえばベトナム戦争でも米軍のベトナム農民への蛮行は報告されていますけれど、少なくとも中国での日本軍兵士ほどの強姦や快楽殺人?と思えるような事象が多かったとはベトナム戦争の報道を読んでも思えません。沖縄で多くの市民が自決を強いられていますけれど、米軍によって収容された先で、きちんとした治療を受けられた人も少なくなかった。☆9☆3☆7で描かれている蛮行が例外的ならば、話は別ですけれど、でも、当時に記録されたもの、あるいは戦後に例外的に記された証言などから考えると、どうしてもあれらは例外的ではなかったと、起こったことに対して悲観的にならざるを得ません。
 だとすれば、「南京大虐殺はまぼろし」を唱えることに象徴される価値観を持つ人たちがより多く語っているように思える「日本押し」「日本スゴイ」「日本人としての誇り」「神道の素晴らしさ」も、かなり値引きして考えなければいけないように思えるのです。
 しかも、蛮行を「なかったもの」にした戦後日本社会のてっぺんに、戦争責任を公に問われることのなかった象徴天皇が座していたこと、その象徴天皇が、たとえば原爆投下を「広島市民たちには気の毒ではあるが、やむを得なかった」と語り、戦争責任を問われても「そういう言葉のアヤについては、文学方面は研究していないので、私はよくわからない」で済ませたことと無関係ではないと、ぼくは思うのです(若い人はしらないかもしれませんけれど、1975(昭和50)年10月31日に行われた共同記者会見で昭和天皇が実際に質問されてこのように答えているのです)。
 そのことを棚上げしたまま、たとえ戦後生まれのぼくの世代や、あるいはもっと若い人たちであっても、「教育勅語は、いいことも言っている」なんて物言いは、まったく共感できないのです。

 昭和天皇の記者会見での発言を受けて、茨木のり子さんが1975(昭和50)年に書いた「四海波静」は☆9☆3☆7の中でも一部取り上げられていて、それでぼくはここ数日、茨木のり子さんに揺さぶられ続けているのです。

四海波静

 戦争責任を問われてその人は言った
  そういう言葉のアヤについて 
  文学方面はあまり研究していないので 
  お答えできかねます

 思わず笑いが込みあげて
 どす黒い笑い吐血のような
 噴きあげては 止まり また噴きあげる

 三歳の童子だって笑い出すだろう
 文学研究果たさねば あばばばばとも言えないとしたら
 四つの島
 笑(えら)ぎに笑(えら)ぎて どよもすか
 三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア
 
 野ざらしのどくろさえカタカタカタと笑ったのに
 笑殺どころか頼朝級のやじひとつ飛ばず
 どこへ行ったのか 散じたか 落首狂歌のスピリット

 四海波静かにて
 黙々の薄気味わるい群衆と
 後白河以来の帝王学無音のままに貼りついて
 ことしも耳すます除夜の鐘

 ぼくは、日本という社会が今、戦争に向かってまっしぐら、とは思ってはいません。日本政府が(安倍政権時も含めて)戦争したいと恋焦がれているとも、思ってはいません。ただ、外交問題に「武力的解決」を選択肢に取り入れようとはしているのは確実とは思う(そのことと恋い焦がれるとで何が違うかという問もあるだろうけれど、やっぱり恋焦がれるとはちょい違うんじゃないかしら)。

 具体的に、北朝鮮はミサイル攻撃を仕掛けてくるだろうか?米国の傘から外れると、中国はすぐに尖閣諸島に上陸するだろうか? 可能性をゼロというのは難しいに決まってる。だから、ミサイル発射する側と場所への先制攻撃をできるように法整備するし、尖閣が取られれば次に取られるのは沖縄だと警戒することが必要なのだろうか?

 無人の尖閣で、戦争ごっこをする(したがっている)って、想像しやすい。そんなやり方で軍備の在庫整理のニーズもあるのだろうし、ね。ぼくの中では、そんな領土争いよりも、雨降りの日に好きな人を訪ねたいのに傘がないこと、あるいは赤木さんの自殺のほうが、今でもよっぽど気になる。
 尖閣を守るために自衛隊という名の日本軍が必要だとしても、無人の地の戦いなら関係ないけれど、軍は国民を守ってはくれないことは、歴史が証明しているよ。それは、沖縄や満州だけじゃなくて、他所の国もそうだよ。ミャンマーや、シリアや…。
 だからやっぱりさ、北朝鮮とは話し合いを(他の国も巻き込みながら)続けるしかないし、尖閣はさ、関係政府は当面は放っておくのが大人の知恵なんじゃないかな。北方領土?ごめん、もう仕方ないんじゃないかな。だめなの?だって、もうたくさんロシア語を話す人たちが暮らしているのでしょう? 共有地として共同統治の夢があれば、そっちを目指したほうがいいんじゃない? 

 そしてさ、どうする、「病める我が盲腸」は。
 ぼくはね、本当はね、もう随分前からこの「盲腸」を取ろうと試みてきて、実はそろそろ取れたんじゃないかって思ったりすることもあるのですよ。もちろん、ぼく自身だけの「盲腸」ね。「盲腸」を取ったらね、もう人は殺せないんだよ。近くで他者を殺そうとする人がいれば止めなくちゃいけないし。当然、刺突訓練も拒否しなくちゃいけないのよ。ビンタされても非国民呼ばわりされても、ダメなの。殺されそうなときは、むしろ一歩前に出なくちゃいけないし。その前に、逃げられなかったらの場合だけれど、ね。とにかく、「盲腸」を取るって、実は、なかなか辛いんだよ。だから、本当に「病める盲腸」が取れているのかどうかは、そのときになってみないとわからないんだけれどね。ぼくが、「盲腸」を取ったと思えているのは、希望的観測でもあるんだ。それは認めます。でも、かなり努力もしてきたのよ。今も、日々してるつもり、でもある。
 でも、未だに怖いよ。脚もすくむ(これは比喩、ぼくは下半身完全麻痺の車イス者なので、脚はすくまない。あえて具体化すれば、車イスをこぐ手がすくむ)。そのときがきたら、「ここで死に急がなくても」とか、「目撃者になれ」とか、都合よくエクスキューズが浮かぶだろうから、その点も考慮して思考実験と行動妄想訓練は、これからも続けていかなくちゃね。
 そんな実習の中に「頼朝級のやじ」を飛ばすってのも、カリキュラムにいれなくちゃいけないかな。これは、結構ドキドキする。これ、日本の外でもやらなくちゃだめかな。「こんな人たち」と言われたり、警察に排除されたり、なんてレベルじゃ済まないってケースがここじゃあるんでね。さて、どうするかな。

4件のコメント

ただ、これに近い記憶を鮮明に持つ人たちがカンボジアにはいます。私の妻もそうです。同じ国民だからではなく。

匿名様

「これに近い記憶」、つまり際限ない暴力の連なり、というようなものでしょうか?カンボジアの場合は、ポルポト時代の?お連れ合い様の記憶は当然、被害者としての視線になりますでしょうか。
「日本兵」の記憶は、加害者の視線です。加害者として、その後、心の奥底で怯える日々につながる記憶。
おそらく、カンボジアにも、そんな加害者としての記憶を持つ人も、いるのですよね。でも、そんな記憶は、なかったことにされつつあるようにも思います。歴史のいちページとしては残っても、個人個人の記憶は、継承されずに。そこは少し日本と似ているかもしれません。それでいいのかどうか、よくわからないでいます。

村山哲也

妻は今も長兄が連行された時を覚えていて、私が体の後ろで手を組むのを嫌がります。次兄が怪我をして昨日までベッドにいたのにいなくなった朝、お母さんが泣き崩れたのを覚えています。
日本が東南アジアで加害者か否かは,アメリカ統治イギリス統治フランス統治をどのように捉えるかで変わると思います。

匿名様

そうですか、「体のうしろで手を組むのを嫌がる」、つらい記憶ですね。私の友人もつらい記憶がいろいろとあるのですけれど、それを自分のお子さんたちに話す機会はほとんどないようです。ましてや、自分が加害の側だったことを話す方は、カンボジアでもおそらくほとんどいないのだろうなぁと想像します。
加害の話でいえば、植民地主義として侵略、搾取した側は、今の視点でみれば加害者なのは間違いなくて、英仏米にくわえて日本も、加害の側だったと思います。日米の戦争の太平洋戦争は、加害者同士の喧嘩。けれどもその間で、植民地だった場所や人々は、被害を被ったのではないでしょうか?日中戦争は、満州などを考えれば、やはり日本が侵略した側。中国が日本を侵略しようとしたわけではない。
という大きな構えの話はあるとして、でも、個々の強姦、略奪、無意味な殺人、は、犯した側は加害であることは明らかで、国家間の云々とはまた違う捉え方ができてしまうと思うのです。アジアを開放するさいに、なぜ強姦する必要があったのか?

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