事故等で脊髄を損傷する人は、日本では年間5千人程度と聞いたことがあります。けして少ない数ではありません。そんな脊損者たちへの情報提供、福利厚生向上、バリアフリー推進、各省庁交渉及び民間企業等への要請活動などを行う組織に、全国脊髄損傷者連合会(公益社団法人)があります。
(公社)全国脊髄損傷者連合会のホームページへようこそ! (zensekiren.jp)
ご縁があって、私はこの全脊連の埼玉県支部の会員です。そして、2021年3月からこの全脊連が毎月発行している【脊損ニュース】という会報誌に『世界は開いているから仕方がない』というタイトルで連載を書いています。今月で連載開始からちょうど2年(全24回)が経ちました。備忘録として、当ブログにその連載記事を順次掲載いたします(全脊連からは、快く了解をいただきました)。今回は連載第7回から第9回までです。
連載第7回 (2021年10月号)
5年前の相模原殺傷事件と脊髄障害とは、無関係であるはずはないですよね
2016(平成28)年7月に知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で起きた大量殺人事件。事件からもう5年以上が経ちました。
犯人にとって殺すか殺さないかの判断基準は、コミュニケーションがとれるかどうかだったと報道されています。会話が成立するかどうか。
脊髄の損傷では、頚椎損傷で人工呼吸器の助けが必要になれば、発話にも不自由するということがあるかもしれないけれど、一般には会話障害は起こらないとされています。
だから、殺されないですんだかな? そもそも、脊損者は知的障害ではないから、無関係?
相模原殺傷事件の後、犯人の行為は問題があるとしても、「障害者は生産性がないから、犯人の考えも理解はできる」という主旨のコメントがインターネット上では多く見られました。
生産性、かぁ。
中途障害者である多くの脊損者は、障害を得てしまった自分を、以前の自分と比較して大きな落胆を味わいます。前と同じようには働けない。家族に迷惑をかけなければ生きられなくなってしまった。仕事を失い収入がなくなった。
つまり、以前より「生産性が落ちて」しまった。家族の負担になることで、家族の「生産性を下げる」ことになってしまった。だから、落胆する。「死んだほうがまし」と思う。
健常者のとき、自らの生産性の高さを誇ってきた人ほど、障害を得た後のギャップに苦しみます。でも、それはつまり、もし障害を得ていなければ「障害者は生産性が低いから・・・・・」という価値観を持ち続けていたってことになりますよね。やまゆり園で起こったことに対して、「障害者は生きている価値がないって考える奴がでてくるのも、まぁわかるけどね」なんて思っていたかもしれない。どうでしょう?
生産性で人の価値が判断されるとすれば、障害のある人はどうしたって価値が低いとされてしまう。障害者だけじゃありません。誰もが、生産性の物差しで測られ、序列がつく。
学歴社会とかも、「生産性」の価値観なのかな。つまり、今の社会、私たちは避けようがなく「生産性」の罠に囚われているみたい。
もちろん、社会の中で、誰かが何かを作り出していくって大事なことです。でも、人類の歴史を考えると、個人の生産性は時代と共に、それほど重要じゃなくなってきたはずです。たとえば、機会化。電気洗濯機がどれだけ女性の苦労を軽減したか。トラクターがどれだけ農業の生産性を向上させたか。その分、人の生産性は問題視しなくてもいい時代になりつつあるはずなんだけれどなぁ。限りないのも、それが欲望????
とにかく、ロボット工学、人工知能の発達によって、生産性の価値観も今後ますます変換していくことでしょう。
なによりも、そんな生産性の罠で苦しんでいる障害者こそが、生産性で人の価値を計る風潮に、風穴を開けていかなくちゃいけないんじゃないかな。そこには、身体も知的も関係ない。障害者みんなが、「生産性だけで人の価値を測るのはオカシイよ!」って声を上げていいと思うんです。
炭鉱のカナリアのように、誰よりも先に危険性に敏感になって、社会にそれを伝えていく、そんな役割が障害者にはあるんじゃないでしょうか。

連載第8回 (2021年11月号)
生きる価値とか、意味とか、そんなの問わなくても、ただ「生きて」いい
前回「炭鉱のカナリアのように、誰よりも先に危険性に敏感になって、社会にそれを伝えていく、そんな役割が障害者にはあるんじゃないでしょうか」と書きました。
ここで使った「役割」という言葉。これも油断すると「価値」とか「意味」に転化する言葉です。
「生きる価値」とか「この世に存在する意味」とか…、そんなモノ言い。1999年に当時の石原慎太郎都知事が、知的障害者施設を視察した際に重度の知的障害がある人たちを指して「ああいう人ってのは人格あるのかね」と発言したことにもつながる、「生きる価値」という問い。
私は、人の生(せい)に対して、「価値」や「意味」、「役割」も、わざわざ持ち出す必要はないと思うんです。価値、意味、役割の有無を、持ち出して問いを立てることがおかしい。だって、価値の有り無しを問えば、当然、価値があったりなかったりという答えが作られちゃう。
「生きる価値は?」と問うことが、すぐに生産性の罠につながってしまうんじゃないでしょうか。
個々が自分の生きる価値や意味を自分で見つめて、それを自分の人生の糧にしていく、ガッツにつなげていく、ってことを問題視するのではないのです。どうして自分は生きているのか?と自らの存在を問うことができる人は、一生懸命問うていい。それが生きるエネルギーに転化できれば、とても素敵。
でも、他者の人生に対して、価値や意味を問うことは、傲慢(ごうまん)なんだと思うのです。もしかしたら、人と自分を比べて、優秀な自分に酔いたいだけってことかもしれない。つまりは、優生思想につながっていく。
人から生まれた人は、もうそれだけで人として生きる、それでいいんじゃないかしら。人が産んだ存在を、人として認め、仲間として認め、死ぬまで一緒に生きる。そこに価値とか意味とか入り込ませなくて、いい。
脳神経学者の池谷裕二さんは『生きているのはなぜだろう』(ほぼ日 2019、イラスト田島光二)という絵本で、宇宙の秩序のひとつとしてすべての生命があることを語っています。私たちを構成している原子はすべて宇宙からやってきて、過去の恒星で作られたもの。130億年の過去と、これから続く長い長い未来と。その連綿と続く時間と物質の流れの中に、すべての生命はあることが描かれています。なるほどなぁ。
まぁ、話を130億年まで飛躍させなくても、とにかく、束の間、生きているだけ、でいいんじゃないかと思うのです。
連載第5回で書いた、重度の重複障害を持ち、自らの思いを発話することもできず、日々、介助を受けながら音楽を聴いている星子さん。彼女も私も、ぼくらはみんな星の子。私たちの中を原子は通過していき、やがてまた誰かになっていく。ただそれだけ。「炭鉱のカナリア」という役割の有る無しを、無理に語る必要はことさらない。けれども、もし星子さんが否定されれば、その否定はきっとすぐに障害者全体に広がるでしょう。障害者の生が否定されれば、つぎは健常者の中でもっとも弱い人たちが排除される。だから、そっと役割を語ってみるとすれば、やっぱり私たち障害者は「炭鉱のカナリア」、それでいいじゃないですか。

連載第9回 (2021年12月号)
治りたいか(1) せっかくやってきたこの障害世界だから。
脊髄損傷によって障害を得たみなさんにとって、それは中途障害のケースがほとんどでしょう。多くの脊損者は、怪我する前、障害のことなんか考えたこともなかった日々のことをよく覚えているものです。
だから、治りたい。
もう一度、自分の足で立ち上がりたい、歩きたい。ゴルフをしたい。山登りがしたい。スキーもしたい。なにより、子どもや孫と一緒に走り回って遊びたい。
自分の手で本のページをめくりたい。せめて食事は他人の世話にならずに、自分で箸を使って食べたい。せめてこの指でコップをつかめたらどんなにいいか。
ボタンつきの服をさらっと気楽に着たい。トイレを誰の力も借りずに済ませたい。風呂も、気楽に入りたい。
呼吸器の助けを借りずに生活したい。咳やクシャミを思いっきりしたい。行きたいときに行きたいところに自由に行きたい。前みたいに。怪我をする、前と同じに。
自分の足で立って歩く。以前は、何も考えずにできたことが、突然できなくなる。ほんのちょっとの段差が登れない。それはとっても情けない。
怪我って、障害って、つらいことですよね。治りたい、と思うのは当たり前。だから、前向きに努力する。一生懸命リハビリに取り組んでいる方もおられるでしょう。
NPO法人日本せきずい基金(JSCF/http://jscf.org/about/index.html)が再生医療研究の最新情報について専門家を招聘し、毎年開催しているシンポジウムの名前は《Walk Again》、日本語で「再び歩け」となります。多くの脊髄損傷者の希望を代弁しているのだよなぁ。
そのシンポジウムでも取り上げられているように、近年は再生医療の進歩によって、脊髄の再生も近い将来可能になることが期待されています。実際に、いくつかの臨床試験がすでに始まっていて、例えば連載仲間、お隣の渋谷真子(注)さんも頑張ってる。多くの脊損者がその結果に注目しています。私も、いいニュースが届くのがとても楽しみ。
(注)渋谷真子さん。連載誌『脊損ニュース』で、いつも同じ見開きページに隣り合わせで掲載されるのが渋谷さんの連載でした(今現在も、そう)。彼女の渋谷真子オフィシャルブログ Powered by Ameba (ameblo.jp) の自己紹介から、ちょっとだけ抜粋します。
「初めましてMacoと申します。もののけ姫のように田舎の山の中で育ち、茅葺職人の見習いとして日本の古き良き文化財を守っていました。ですが、2018.07.12 転落事故で脊髄損傷(T8)を受傷し下半身麻痺の車椅子ユーザーとなったのです。」
彼女はファンクラブもあるという、脊損者のヒーロー(ヒロイン)なのですよ。関心があれば、渋谷真子でググってみて下さい。Youtuberとしても大活躍中です。この原稿を書いたころ、渋谷さんは脊髄の細胞再生に向けての先端医療にチャレンジされ、その様子を連載でも書かれていたのです。そういう背景のあるこの段落でした。
でも、おそらく私自身がそんな新しい治療法の恩恵を受けることは難しいだろうと思っています。事故から7年を越え、足も細くなりました。もし、これから治療を受けて、もし神経がつながったら・・・、リハビリは大変だろうなぁ。きっとすごく痛いだろうし、時間もかなりかかるだろうなぁ(もちろん、費用だって気になります)。
そんな膨大なエネルギー、時間、費用を「治る」ために使うか、それとも他のことに使うかの判断は、もちろん人それぞれ、千差万別、正しい答えなんか、ない。
そして、私の場合、自分は本当に治りたいのかな?って思うことがあるのです。
もちろん、前のように自由に動き回れたら楽しいでしょう。でも、もしもう一度歩けるようになったら、再び健常者になったら、・・・おそらく私は障害を得て車イス者として暮らした日々のことを、かなり懐かしく思うでしょう。今、障害世界の住民であり、そしてそこから脱出してしまうことを惜しむような気持ちが、私にはあるのです。そんなふうに思う人、読者にもおられるかなぁ?
むしろ、このまま障害者としてやがてくる最後の日を迎えようと思う。それは、おそらく、私の障害がたいしたことないものだからかもしれません。もっと重度の障害を抱える人たちからすれば、私の思っていることは、お気楽だ。単に、自分の障害が切実なレベルに達していないだけだ。そんなお叱りを受けるかも(続く)。



















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