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2021年4月から2年間、全国脊髄損傷者連合会が発行する会報誌「脊損ニュース」が『世界は開いているから仕方がない』というタイトルで私が書いた連載を掲載していました(当ブログの2023年3月での投稿で読めます)。
そして、さらに2023年4月から2年間『続・世界は開いているから仕方がない』として連載は続きました。その連載24回がこの度終了しましたので、ブログで3回分ずつ掲載します。今回は2023年7月~9月です。
7月/第4回 健常者世界から障害者世界への“旅”について 3
入院中、障害関連の書籍をインターネットで注文して、読みました。脊損だけでなく、あっちこっちの障害本に手を出したのです。障害本、いろいろなタイプがあります。障害者自身が書いたモノから、障害者の家族が書いたモノ、介護者や社会学者といった障害者社会にかかわる人たちが書いたモノ。
今思い出しても、強く印象に残る本がいくつかあります。すこし紹介しますね。
・最首悟著『星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』世織書房 1998
・横塚晃一著『母よ!殺すな』生活書院 2007
・横田弘著『【増補新装版】障害者殺しの思想』現代書館 2015
・熊谷晋一郎著『リハビリの夜』医学書院 2009
・渡辺一史著『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』文春文庫2013
・立岩真也著『ALS 不動の身体と息する機械』医学書院 2004
・川口有美子著『逝かない身体―ALS的日常を生きる』医学書院 2009
どの本も、公共図書館にはあると思います。ちょっと難しい感じの本もありますけれど、どれもとってもおススメです。ご縁があれば、ぜひ。
さて。
自分の障害について本を書く障害者は、だいたいが障害者の中の強者、強者という言葉に語弊があれば、がんばっている障害者、です。もちろん、それは素敵なこと。 (注 上記で紹介した本は、障害者自身が書いた本は横塚/横田/熊谷氏の著書3冊だけです。残りは障害者の家族、あるいは支援者/介護者によるものです)
連載仲間の渋谷真子さん、三代達也さん、そして私自身も本を出版しています(私の場合は、本の大半は健常者時代の国際開発支援に関係したものですけれど)。あるいは、渋谷さんはYou-tubeの動画配信で大活躍しています。三代さんは車イスと観光というキーワードで沖縄をベースにして日本中を駈け回っている。まさにがんばっている障害者の代表格のような人たちです。再度書くけど、それは本当に素敵なこと。
“がんばっている障害者”という言葉は、健常者世界では“障害者なのにがんばっている”と読み直されます。そして、障害があってもくじけず明るく生きているという図が期待される。
健常者がイメージする「明るい障害者象」というのは確かにありそうです。そんな障害者に対する健常者の一方的で都合の良い思いを「感動ポルノ」と揶揄する向きもある。「感動ポルノ」の文脈では、「明るい障害者」「がんばっている障害者」は、一種の消費の対象です。顔出しで(だいたい笑顔ね)露出している渋谷さんも三代さんも、そして私も、消費物の側面があるのです。そして出る釘は打たれる、つまり“障害者のくせに…”というリアクションも起こる。消費財としてそれは覚悟しておかなくちゃいけない。そして、消費されるモノとして、それぞれの諦観と戦略が求められるのだろうと、私は思っています。
写真:イネの花

8月/第5回 健常者世界から障害者世界への“旅”について 4
“頑張っている障害者”として世間に露出している障害者は、実際にはとっても少数派でしょう。ほとんどの障害者は、もっと密やかに日常を送っている。別に隠れているという意味ではありません。障害の有無にかかわらず大多数の人たちの人生は、特別なスポットライトが当たることもなく、静かで慎ましいものでしょう。
世界中の人口は最近80億を超えたそうです。人口減が叫ばれている日本だけでもまだ1億は軽く超えている。障害者でも健常者でも特別に“発信”しない人たちがそのほとんどなのです。
頑張っている人を目にすると、ときに焦りってありますよね。輝いているように見える他人と自分を比べて、自分がとても不甲斐なく思える。比較の対象は他人だけではありません。中途障害者がほとんどの脊髄損傷者にとって、障害を得る前の自分自身がいつも比較の対象です。
事故前の自分と比べて、今の自分が惨めに思える。無意味に思える。無価値に思える。
わかる。辛いよね。辛い。
さらにしんどいのは、障害がなければあったかもしれない自分との比較をしてしまうことです。あんな夢も、希望もあったはずの未来の自分。それが砕け散ってしまったという思い。
そんな思いは障害者当事者だけではありません。障害者の周りの人にもあるのです。その筆頭がご両親でしょう。わかります。理解できます。本当に、しんどいのだ。
はぁ。ここはひとつ大きな深呼吸です。
こんなこと書いて、読者の皆様の苦しみに塩を塗るようなことになっていないことを祈ります。とにかくお伝えしたいのは、わかるよ、ってこと。わかるよ、わかりますよ、しんどいよね、つらいよね。泣けちゃうよね。そんな思いに、着地点を用意することは誰にもできません。
「障害の受容」という言葉があります。自分、あるいはご家族がつかんでしまった障害を、受け止めること(と書くのは簡単、だけどね)。さらには、この受容の歩みはけして進むばかりの道ではないのですよね。行ったり来たりを繰り返す。受容できた次の日に、前日受け止めたはずの思いが消えてしまう。誰もが、それが当たり前。
それでもね、時間が解決するということは確かにあるように感じます。それはもしかしたら、あきらめる、という気分かもしれないけれど、ね。
どんな気分だとしても、とにかく人生は続くよ。今日が積み重なっていく。けしてガンバル日々ではなく、前向きな思いでもなく、静かに淡々と、今日がある。ふと、そんな日々を、僕は美しいと思ったりすることがあるのです。
朝日でも、夕日でも、雨の音でも、流れる雲でも、名も知らぬ野草の花でも、さっき食べたカレーの匂いでも、何かを感じる。まずはそれでいいじゃないかというような思い。
健常者世界から障害者世界への旅は、本当に人それぞれ。見えるモノも、きっとみんな違う。あなたの旅の話を聞いてみたいなぁ。
写真: サギソウの花

9月/第6回 寄り添うことについて 1: あきらめるとエンパシー
頑張っている障害者、スポットライトが当たっている障害者、発信するエネルギーのある障害者。もちろん、そんなポジティブな人たちにも、悩みはあるでしょう。なかなか表に出せない辛いこともある。当たり前といえば当たり前。
そして、実際には障害者がほとんどそれほど頑張っているわけでもない。健常者だって、日々、前向きで頑張ってばかりいる健常者なんか、そんなに多くないでしょう。考えてみれば、それだって当たり前。そこそこ、ぼちぼち、そんなもん。
「あきらめる」って、あんまり良いイメージで使われる言葉じゃありませんよね。少々、後ろ向きで、ネガティブな言葉。
けれども、自分が中途障害を得て障害者になってみると、あきらめるって、それほど悪い言葉じゃないなぁと思うことが多いのです。当たり前の感情じゃないか、と思うのです。あきらめて何が悪いのよ!むしろ、積極的にあきらめるって言葉を口にしていいじゃないのか。そんなふうに思うことが増えました。
あきらめることから始まるなにかもあるわけです。あきらめなくちゃ次に進めない、なんてこともあるのよ。だったら、どんどんあきらめればいいじゃないか。じたばた嘆き続けているよりは、多分いいんじゃない?って思ったりする。
その際に力になってくれるのは、やっぱり寄り添い人だったりする。以前、ドラマで「同情するなら金をくれ!」というようなセリフが流行ましたよね。そこでは、「同情」という言葉がとても力ない言葉かのように扱われていました。
でも、同情って、そんなに悪い言葉じゃないですよ。先のセリフで言えば、実は「同情も欲しい、金も欲しい」ってことでね。だから、そりゃそうだ!って笑って聞けばいい。
「あきらめる」ことを余儀なくされた私たち中途障害者が現実を受容するためには、同情や共感を持った寄り添い人が欲しい。「同情なんか欲しくない」なんて言うのは子どもっぽいですよ。本音は「同情も欲しい、支援も欲しい」って、私たちは遠慮せずしっかり周りに伝えたほうがいい。
エンパシーという言葉があります。
例えば、貧しい国で学校に行けない子どもを見て「かわいそうだなぁ」と感じるのは同情であり、「学校に行きたい」と言う子どもにそうだよねぇって思うのは共感(シンパシー)です。
そして、「貧しさの背景はなんだろう」、「子どもの両親はどんな生活をしているのだろう」と背景に興味を持ち、彼らへの寄り添いを思う、となってくると、それはシンパシーを超えてエンパシーにつながっていくらしい。当事者に具体的に寄り添って考えることが、寄り添いの第一歩、それがエンパシーという言葉なのです。
エンパシーの段階に進むと、知識や経験が豊富であればあるほど助かる。だって選択肢や可能性が広がるから。つまりエンパシーは感情なだけではなく、鍛えられる技術や能力でもあるのです。
つまり、あきらめた私たちのその先でエンパシーに出会えるときっといい。
写真:ハスの実


















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