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褥瘡再発! やれやれなんです。
昨秋の東京滞在時では、健康診断から始まって、左足大腿骨の骨折、膀胱結石の除去、等々で病院にお世話になる機会がとても多かったのでした。その渦中に、拾ってしまった(?)のが褥瘡でした。
じょくそう、つまり床ずれ、です。“床ずれ”という字から受ける、ちょっとのんびりした感じと違って、褥瘡はとっても怖い症状です。寝たきりなどの状況で体位を動かさずにいて同じカ所に圧力がかかり続けたり、布団のヨレなどによって同じ場所を何度も擦ってしまうことで、その場所が炎症をおこし、傷となる。そして、表面上は小さく見えてもその内部で筋肉に大きな炎症を起こし、ポケット状に広がったりする。そうなると、壊れた筋肉が回復するには長時間かかります。炎症が骨にまで達したりすると、当然骨も溶けてしまって……。
私の誕生年である1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックのすぐ後に、オリンピックと抱き合わせでの最初の障害者国際運動競技会が開かれています。パラリンピックです。そのときのことを書いた本を読むと、60年前には褥瘡がもとで亡くなる障害者がまだ多かったことがわかります。
今でも、寝たきりになってしまったり、車イスに長時間座り続けたりすると、褥瘡にすぐになってしまう。油断していると1日あれば褥瘡が発生していしまうこともある。
私は、2014年、脊髄損傷を負った交通事故後、長時間救急車で搬送された際に腰骨あたりに褥瘡ができてしまいました。その後、しばらくは寝返りをうつのもままならない日々が続き、数週間後に日本に搬送されたときには、褥瘡の奥には小さいながらも立派なポケットもできてしまっていた。結局、この褥瘡が完治するには半年以上の時間がかかったのです。
日本では3つの病院のお世話になりました。3つめの埼玉県所沢の国立リハビリテーション病院では、褥瘡の専門医まで登場したのです。
そんなこともあって、その後10年間、それなりに「褥瘡にならないように気をつけなくちゃ」という気分はいつも心の奥底に持っていたつもりです。
でも、ついに新たな褥瘡と出会ってしまった。今度は右陰嚢部裏から臀部よりの場所。おそらく車イスからベッドや便器への移乗時にこすったのが原因のように思います。
私は下半身完全麻痺で、床ずれができても痛みを感じない。昨秋のケースも、気がついたときは皮膚表面上に潰瘍がしっかりできて、ジュクジュクしちゃっていたのです。
場所が場所ですし、最初は自分で市販の薬を(手探りで)塗ったりしていたのですけれど、結局皮膚科に通うこととなりました。
幸い、傷はまだそれほど深くなく、一か月ほどで治癒したのです。ところが、先日、やはり同じ場所がジクジクとしているのが発見されたのでした(紙オムツにその痕跡が残っていたのです!)。あーぁ、やんなっちゃうなぁ。で、今現在も、毎日陰部裏を晒して、ガーゼを代えてもらっているわけです。自分では見えない場所なので、どうしても誰かの助けが必要なのでした。
誰かの助けが必要! これが今回のブログのキーワードです。覚えておいてくださいませ。
誰もが障害者である、という考え方は、考えようによっては、はい、そうかもね。でもさ、ムッとくるのよね。
私、インターネットのグループ会話機能を使って障害関連の勉強会にときどき参加しています。ここ数週間は『障害を規定するのは誰/何なのか』というタイトルの勉強会に隔週で顔を出していて、そこでは“障害学”という学問が出てきたりするのです。ふーん障害学かぁ。この障害学ってのは、比較的最近生まれた、新しい視点からの学問なのだそうです。
勉強会そのものは、けっして難しかったり専門的だったりする場ではありません。参加してる同室生のみなさんは一般の方々です。このテーマで集う人たちですから、やっぱり障害となんらかの関係を持っている人が多いみたい。
といっても、私がわかる範囲で、参加者の中で自身が障害者というひとは私と…あとひとりふたり?10名強のけして多くはない同室生のお仲間の多くは非障害者です。障害者とかかわる仕事をしていたり、家族の中に障害者がいる、というようなことで参加されている非障害者。
ちょうど1年ぐらい前にも、同様の勉強会に参加したのですけれど、その際も同室者の障害当事者はきっぱりと少数派でした。
そんな会で、昨年も今回も「健常者と障害者の境界は曖昧です。考えようによっては、ほとんどすべての人がなんらかの障害を持っているとも言えるんじゃないか」という意見を述べる人がいるのです。うん、私のような車イス者はとっても判りやすい障害者。けれども、外から見ただけではわからない障害を持つ方も多い。例えば心臓疾患でペースメーカーをつけている方や、内臓疾患で胃ろうをつけている方なんかは、その典型です。
障害者手帳は、身体障害、精神障害、知的障害と障害を“分類”しています。この中では、精神や知能に障害がある人たちは、身体障害よりはぱっと見では比較的わかりにくいことが多いのじゃないか。それだけに、「あれ、なんか怪しい人」と見られてしまえば、彼らへのサポートは身体障害者へのそれとはずいぶんと違う。むしろ、社会は彼らに冷たい。
先の「誰でも障害を持っている」という意見ですぐに上がるのが、仕事のストレスからくる鬱症状などのケースでした。はい、それも外から見ては他者にはわかりにくい。
でも、それを障害の延長と理解する必要はないじゃないか。「生き難い」と障害は、そりゃ結果としては重なることはあるけれど、でもその本質はちょい違うのではないか?
なるほど確かに障害者と非障害者の境界は曖昧で、小さな差異が連続的につながっているような様相(グラデーション)だと考えようによってはいえる。はい、考えようによってはという点に反論はありません。
けれども、このようなことを表明する方は、私の印象では常に非障害者(健常者)です。もしかして、そのような「考えよう」を持つのは、非障害者(しかも男性)が多いのではないだろうか? 障害者はそのような「考えよう」を持つことはあまりないのではないか? これ、私の仮説です。
障害と非障害の間には深い谷、高い山、流れの強い大河、超交通量の多い幹線道路、イスラエルがガザとの境界に建設する防御壁、あるいはトランプ米国がメキシコとの国境に建設する高い壁/フェンス、と同じようなはっきりとした境界があるというのが中途障害者である私の明確な印象です。曖昧?けっしてそんなことはありません。
車イス者の私にとっての具体的な境界とは何か。たとえば、新宿や渋谷では段差があって車イス者ひとりでは入れない店が圧倒的に多いということ。成田空港と都心を結ぶ高速バスが未だに乗車できないということ。あるいはプノンペンで運行される日本政府が近年に支援した公共バスすべてが非バリアフリーであるということ。飛行機ですべての乗客が降りた後、最後の最後にようやく運び出してもらえるということ。普通の駐車場の駐車間隔では車に乗り込むのに十分なスペースがないということ。多目的トイレがひとつしかなく、長時間待たなくてはいけないことがあるということ。
うん、たしかに考えようによっては、どれも大した問題ではありません。介助者がいれば、入れる店は増えますし、成田と都心とはバスでなく電車やタクシーを使えばいいのだし、プノンペンでバリアフリーを望むのは“まだ早すぎる”のですし、飛行機に乗れるだけありがたいのだし、多目的トイレも昔はなかったわけですし。そもそも、人に世話をかけて出かけたりせず、家や施設でじっと静かに暮らしていれば、問題は生じないのでしょうし、ね。
でもさ、「人間、だれもが障害がある」と非障害者が語るのを聞いていると、やっぱりちょっとムッとくる感情が私の中にはあるのです。外見からだけではわからない正規障害者の苦労を思ったり、知的障害者や精神障害者への社会の無理解・偏見と差別などを考えると、「人間、だれもが障害がある」という意見は、お気楽だなぁと思う。グラデーションのような変化の中では、自分の立ち位置もあいまいになる。みんなが障害者、なら、障害者も健常者も同じなんでね。
私には見える深い谷、高い山、大河、渡れない道、壁・フェンスかのような障害者と非障害者(健常者)との間にある境界が、あなたには見えないのでしょう?というちょっと意地悪な気分になるのです。
そして、改めて思う。社会的多数者強者には見えないものが、社会的少数者弱者には見えるのだと。自分が障害を得る以前には、見えなかったことがたくさんあったと。
障害者世界と非障害者世界は別の世界と考えた方が、解りやすいことが私にはたくさんあります。つまり両者は別の世界、両者の間には明確な境界がある。両者の住人は、地球人と火星人ほど違うのだと私は強く主張するものであります!
だからね、障害者という考え方は、この社会では実はあまり有効な考え方ではないのではないのだろうか?と最近思うのです。有効? はい、より良い社会を構築するためにはちょっと無力な感じがするのです。
“こども家庭庁”ではなく、“支援必要者と支援者とを支援する庁(仮称)”の設置こそ!!
もっと有効な考え方がある。
それは、「この世のすべての人が具体的に誰かの支援が必要というステージに立つ」ということです。
誰もが、今日の生活で具体的な支援を必要とするステージに立つ、とは?
まず赤ん坊や幼児の時代が考えられます。そして高齢で支援が必要となる(だろう、あるいは、すでになっている)人。さらに病気で治療が必要な人や怪我をして生活するうえでが不便な人。このステージの人の多くは、支援が必要なのは一次的なことで、やがては回復するでしょう。けれども回復できない人が恒常的な障害者世界の住民と考えられます。
誰もが中途障害者になる可能性はあるのです。たとえば(私と同じ)脊髄損傷を受傷する人は日本では年間に5千人ほどいるというデータを見たことがあります。そしてそんな受傷者の多くは慢性的な障害を得る(例えば、私は下半身完全麻痺)。
けれども、日本人一億人いて、年間5千人、つまり0.005%。10万人に5人? 100000人に5人で、99995人は無関係。「誰もがなる可能性がある」といっても、やっぱり実感わかないです、この年間10万人に5人だけの宝くじに当たるまでは。
けれども、おギャーと生まれた赤ちゃんから幼児時代、さらには年齢を重ねてお年寄りとなるのは、すべての人が100%通る。
あるいは病気や怪我とは一切無縁という人もそりゃたまにはいるでしょうけれど、この社会のほぼすべての人は病気になるし怪我をする。一時的に「誰かの助けが必要」となり、その多くはやがて回復するけれども。
誰もが必ず必要な「生活において具体的に支援」を、社会はどう考え、扱うのか?
つまり、先にあげた「誰にも障害はある」という考え方よりも、「誰もが障害を持つ可能性がある」という考え方が大事なんじゃないだろうか? それを障害云々に限定せずに、「誰もが生きるうえで必ず他者の支援を必要とする」という認識/常識に拡大する。それはつまり「ちゃんと支援する体制が必要不可欠」ってことですよね。
この「支援」をめぐる常識的拡大解釈をなんて名づけるのがいいのかしら。
赤ん坊や幼児、(支援が必要となった)高齢者や病者・傷者、さらに年齢に関係なく恒常的な支援が必要な人たち(障害者)を全部くくれる言葉。その「支援を受けるステージ」が期間限定であっても、短時間であっても長時間であっても、恒常的だろうと一時的だろうと、とにかく「生活するうえで支援が必要な人」をくくる言葉。
私たちの社会は、まだこの言葉を発明していないように思うのです。支援必要者? 赤ちゃんに「者」は馴染まないのだよなぁ。でも、赤ちゃんも高熱に唸る人も、同じなんですよ、支援が必要だという意味においては。まさに考えようによっては、ね。
いっつも支援を必要としている人はけして多くない。ストレスが溜まっていて、体調よくないなぁって人だって、具体的な支援必要レベルまで悪化させることは、そう多くはない。誰もが「支援必要者候補」のステージに留まる。
また多くの場合は支援は時間限定で必要だとも言えます。子ども時代の支援は10数年でだいたい終焉していくし、老人であれば、やがては逝く。
一方で、生まれつきの障害によって一生ずっと支援が必要というケースもある。私のように中途障害を50歳で負えば、まぁ30年ぐらいの目安で支援必要者です。
とにかく、その必要の長短にかかわらず、とすれば、もう絶対に誰しもが「支援必要者」になる。そして、その支援必要者を支える支援者(近親者、介護者、医療従事者、保育士、教師…)が必ずいる。
それは支援者を社会が支援しなくてはいけないということでもある。赤ちゃんや幼児の直接的な支援者は多くの場合は赤ちゃんのお母さんお父さんでしょう。だから赤ちゃんをもつ両親をどう支援するかということと、保育園の整備や、障害者や高齢者をケアする介護職をどう整備するかということとは、同じベクトルの上にある。
必要なのはこども家庭庁ではなく、支援必要者と支援者を支援する庁(仮称)だったんじゃないのかなぁ。例えば災害罹災者関連の事項も、こちらが担当することになるかも!自衛隊の一部を災害救助隊として、支援必要者&支援者支援庁(仮称2)がひきとっちゃえばいいよ、知らんけど。
「支援必要者」を指す力強い言葉を待望するのです
障害者と非障害者を「同じ人間だ」で語ろうとしても、障害者の声や思いは圧倒的多数(だから強者)の非障害者には届かない。そんなことを、私程度の障害者(さまざまな障害レベルにおいて、私の車イス者、下半身完全麻痺者、という障害は実はそれほど深刻じゃないと思う、とりあえず明日の死の恐怖からはフリーだからね)でも感じる。
もっともっと深刻で、日々死と向き合っていたり、意志表現困難だったりする障害者の思いが非障害者に届くのか? もっともっと深刻な差別と蔑視を受けている障害者の思いが、差別し蔑視する人たちや、その差別や蔑視を黙認している人たちに届くのか?
難しい。届かない。
だから、障害者と非障害者とのあいだの境界は深く高い。でも、それはそれでもいいよ。こっちはこっちでなんとか生きてる。
と、少々強がってみても、でも、障害者にはどうしたって支援は必要なのです。物理的にも経済的にも支援は必要で、だから福祉の充実は不可欠。私だって、そういう障害者福祉の充実がある社会だからこそ、こんなブログを書く生活ができている。
福祉の充実のためには、非障害者の理解や寛容がどうしたって絶対に必要なのです。
支援を提供する側、特に支援の財源に貢献できる側に対して、障害者という看板はそれほど役に立たない。「支援が必要な人」という力強い言葉が生まれれば、そしてそれがすべての人を内包する力があれば(実際、すべての人が支援必要者になるステージがあるのは上述した通り)、その社会は社会福祉の充実を忘れない。強者と弱者の距離は絶望的に広がることはない。
なんかいい言葉、ないかなぁ。産み出て欲しいなぁ、そんな単語。
赤ちゃん幼児(これはすべての人)、高齢者(かなり高い確率で多くの人がここに達する)、病者傷者(短期、長期、これも多くの人が経験する)、障害者(中途、生得)、災害被害者等、他者の支援が必要な人を網羅する力強い単語、欲しいです。

















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